本編 ~『唯一の味方』~
広間での婚約破棄騒動から数日後の午後。リオは伯爵家の裏庭にある温室で、一人静かな時間を過ごしていた。
半透明のガラスは所々にひびが入り、全体的にうっすらと緑の苔が覆っている。入り口の木製の扉は、湿気を吸って重く、押し開けるたびに鈍い音を立てる。
温室の内部は、外から想像するよりもずっと広く、天井は緩やかな弧を描いている。ガラス越しに差し込む陽の光はぼんやりと霞がかり、空間全体を柔らかな印象に染めていた。
(今日は少し湿度が高めですから、窓を少し開けましょうか)
心のなかで呟きながら、リオが慣れた手つきで温室の窓を僅かに押し開ける。すると涼しい風が温室の中に流れ込んできた。
ここは華やかな庭園とは対照的な場所だ。手入れされた花壇も、彫刻が施された噴水もない。
代わりにあるのは、野草が自由奔放に茂る、少しばかり寂れた風景だけ。踏み固められた石畳は苔で覆われ、しっとりとした感触が足元から伝わってくる。
(でも私にとって、ここは落ち着く場所です)
リオは深呼吸をしてから、ゆっくりとしゃがみ込む。そして小さな手を土にあて、優しく撫でるように触れる。微かな魔力を指先に込めると、植物たちがそれに応えるかのように揺れた。
リオはその反応が嬉しくて、つい口元を緩めてしまう。
前世で茶葉の栽培から販売まで担当していたリオにとって、植物との対話は慣れたもの。
さらにこの世界では魔力が存在する。リオは前世の知識に魔力を融合させることで、独自の栽培技術を生み出していた。
土壌の配合、日光管理、魔力浸透の調整……まるで錬金術師のように、日々その記録と研究を重ねていた。
(星月草の様子はどうでしょうか……)
温室の奥に視線を移すと、鉢植えに淡い青緑色の葉を茂らせる植物が目に入る。リオはそっと指先を伸ばし、葉の輪郭をなぞるように静かに触れる。
昼間は、少し青みがかった緑の葉が目立つだけの、平凡な植物に過ぎない。だが夜になると、その葉の一枚一枚が内側から柔らかな青白い光を放ち、まるで月と星の光を集めたかのような幻想的な輝きを見せるのだ。
特別なのは見た目だけではない。薬として調合すれば、傷を治し、病を鎮め、疲れた者の心さえも穏やかにできる効能まで持っていた。
(この薬草の存在を知られたら……)
リオは小さくため息を吐く。
彼女はすでに伯爵家において最大の貢献者だ。彼女が生み出したいくつもの新種の薬草は、この家の家計の大半を支えている。
母や姉はその恩恵に当たり前のように頼りきり、感謝の念は微塵もない。むしろ幼い娘に家計を依存している現実を心の底から妬ましく思っていた。
そんな家族に癒しの力を持つ薬草の栽培にまで成功したと知られれば、その反応は想像するに難くない。
感謝や尊敬ではなく、さらに深い妬みが向けられるに決まっていた。
(今以上に孤立するのは間違いないですね)
そのようなことを考えていると、温室の扉を開く音が鳴る。聞き馴染んだ足音から誰が訪れたのかはすぐに分かった。
「リオ、やっぱりここにいたのか」
優しい声に顔を上げると、兄のアルベルトが温室の入り口に立っていた。
リオが笑顔で駆け寄ると、アルベルトは柔らかな微笑みで妹を迎えた。すっと通った鼻筋や、落ち着いた灰色の瞳と髪は、穏やかな人柄を反映しているようだ。
騎士として鍛えられた体つきは無駄がなく引き締まっており、背筋はすっと伸びている。家族と不仲なリオにとって、唯一の味方とも呼べる存在だった。
「また植物たちの世話をしていたのか? 本当に好きだな」
「ええ。植物は私を裏切ったりしませんから」
リオのその言葉に、アルベルトは一瞬困ったような顔をする。その言葉が何を意図しているのかに気づいたのだ。
「……そういえば、婚約破棄の件、母上から聞いたよ。大丈夫か?」
「もともとレオン様のことを愛していたわけではありませんでしたから」
「リオは大人だな。でも無理はするなよ。兄としては心配なんだ」
アルベルトはリオを気味が悪いと遠ざけたりはしない。普通の妹として扱っていた。それが嬉しくて、リオの口元から笑みが溢れる。
「お兄様が領主になってくれれば良いのに……」
「残念ながら、母上には嫌われているからな。僕が騎士団に入ったときだって、ひどく反対されたものさ」
「それでも押し切ったんですよね?」
「憧れの騎士団長と一緒に働きたかったからな」
「騎士団長様ですか?」
リオが首を傾げると、アルベルトは照れくさそうに微笑んだ。
「騎士としての実力はもちろん、第一王子という立場でありながら、誰よりも率先して前線に立つ英雄さ。強くて勇敢で……あんな人に僕もなりたい。そう思ったから、母上の反対も押し切ったんだよ」
アルベルトの瞳は、まるで少年のように輝いていた。彼が本気で騎士団長に憧れていることが、その表情からよく伝わってくる。
「お兄様なら、必ず立派な騎士になれますよ」
「ありがとう、リオ。お前にそう言ってもらえると自信が湧いてくるよ」
アルベルトは優しく微笑み、ふと、妹をじっと見つめた。
「なあ、リオ。お前にも何か夢はないのか?」
「私ですか?」
リオはしばらく考えるように瞳を伏せ、それから顔を上げると、はにかんだように微笑む。
「私自身が何者かになりたいという夢はありません」
「そうか……」
「ただ植物たちの魅力をもっと評価してもらえる世にしたい。それが私の夢ですね」
リオは少し照れくさそうに言葉を結んだが、その表情には確かな情熱が宿っていた。アルベルトはそれを見て、小さく頷く。
「きっと叶うさ。リオなら必ず実現できる」
アルベルトの言葉に、リオはふっと顔を上げる。兄の灰青色の瞳が、いつになく真剣に自分を見つめていた。
「……お兄様にそう言っていただけると、本当に叶えられそうな気がしてきます」
「信じていいよ。なにせ僕の人を見る目だけは本物だからね」
アルベルトが茶目っ気たっぷりに笑いかけると、リオも自然と笑みがこぼれた。
二人の間を涼しい風が吹き抜ける。温室の植物たちが揺れ、穏やかな緑の香りを運んできた。
「お兄様、私、頑張りますね」
「ああ、僕も負けないように努力するよ」
二人は再び顔を見合わせる。温室に響く風の音を聞きながら、リオたちは穏やかな雰囲気に包まれるのだった。