プロローグ ~『気味が悪いから婚約破棄』~
(きっと何か悪いことが起こるのでしょうね)
広間に足を踏み入れた瞬間、リオは肌を撫でる空気の冷たさに気づく。伯爵家の広間は、いつもより妙に静かで、絢爛な内装がどこか無機質に見えた。
「お入りなさい、リオ」
リオを呼び出したのは母のイザベラである。父が亡くなった後、アイスワーズ伯爵家の領主を担っている勝ち気で支配的な女性だ。
黙って一礼すると、重厚な絨毯の上を小さな足で進む。正面のイザベラの隣には、淡い金髪と子どもっぽい高慢さを感じさせる少年――レオン・バートランド公爵の姿もあった。
公爵家の嫡男である彼は、現在、十三歳である。整った顔立ちのはずなのに、どこか歪んだ笑みを浮かべている。
(視線が挑発的ですし、悪い予感は的中していそうですね)
レオンは短絡的で癇癪持ち。プライドは高いが、考えが浅く、誰かに少しでも馬鹿にされるとすぐに声を荒らげる。
そんな彼が挑発するような笑みを浮かべているのだ。リオにとって好ましい展開にはならないだろう。
「それで、本日はどのようなご用件でしょうか?」
リオが問いかけると、真っ先に反応したのはレオンの方だった。彼は鼻を鳴らすと、ふてぶてしく口を開く。
「決まってるだろ? 婚約の解消だ」
広間の空気が微かに震える。礼儀も前置きもない。いかにも彼らしい、突拍子のない切り出し方だった。
「……理由を、お聞かせいただけますか?」
「そんなの明白だろ」
レオンは椅子に寄りかかりながら、あくび混じりに続ける。
「おまえさ、気味が悪いんだよ」
「私が不気味、ですか?」
「七歳のくせに、大人びた言葉ばっかり使ってさ。表情も崩さないし、何考えてるか分からない。まるで人形みたいに思えてくる」
「酷いことを言いますね……」
リオは呟くように反論する。表情は変わらないし、声にも棘はなかった。だがレオンは露骨に肩をすくめる。
「ほら、そういう侮辱されても冷静なところとかさ……気味が悪いんだよ。子供なら感情のままに怒る場面だろ!」
「そう言われましても、私はただ普通にお話ししているだけですが……」
「だからそれが普通じゃないって言ってんだよ!」
レオンの声が跳ね上がる。自分の思い通りにできない相手を頭ごなしに否定するのは、いつものことだ。
そのことを咎めても反発されるだけ。だからこそリオは目だけで訴えかける。するとレオンは悔しそうに唇を噛み締め、ため息を零す。
「……最初はな、悪くないと思ったんだよ。幼いリオなら、従わせるのも容易い。爵位は公爵である我らバートランド家の方が上だが、資金力では悔しいが、お前らアイスワーズ伯爵家に軍配が上がる。政略結婚の駒として、リオは都合の良い道具になるはずだったんだ」
悪びれもせず、リオを道具だと口にするレオン。だが彼女には怒りも悲しみもない。その達観した態度が、レオンの怒りにさらに火を付けた。
「気に食わねぇんだよ。年下のくせに、俺より頭よさそうで、落ち着いていて……俺がバカみたいじゃねぇか!」
(そんなこと、誰も言ってませんのに……)
リオは自分の方が精神年齢では上だと自覚していたが、それを理由に彼を馬鹿にしたことはない。
(なにせ私には前世の記憶がありますからね)
前世では現代日本で生まれ育ち、二十八年間の時を過ごした。
だがそのことは誰にも伝えていない。
転生前は紅茶専門店の経営者だったことや、自動車事故に遭い、目覚めた先がこの異世界だったことも。すべては、胸の奥にそっとしまってある。
(今さら説明したところで、誰も信じませんからね)
そんな話をすれば、ますます『気味が悪い』と距離を置かれるだけだ。リオはそれを本能的に理解していた。
「それでは、レオン様……」
リオはふわりとスカートの裾をつまみ、丁寧に一礼する。
「婚約は解消ということで、承知いたしました」
「お、おう……」
「なお、これまで公爵家に対して行ってきた資金援助についても、これをもちまして停止とさせていただきます」
「……ま、待て、それは――」
「どうかされましたか?」
「資金援助の件は……その、必要経費というか……」
婚約が解消されれば、両家は赤の他人だ。資金を援助する理由もなくなる。リオの要求は筋が通っていたため、レオンは慌てふためいていた。
だがそんな彼を救うように横から別の声が割って入る。
「おやめなさい、リオ」
女の声。それは姉のクラリッサだった。
アイスワーズ家の長女であり、明るく華やかで、それでいて貴族特有の傲慢さも持ち合わせている、絵に描いたような伯爵令嬢だ。
そのクラリッサが、ゆったりとドレスの裾を揺らしながら広間に姿を現したのだ。
「リオとの婚約が解消されても資金援助は続けるわ」
「我が家と無関係になるのにですか?」
「いいえ、関係ならあるの。なにせ私がレオンと婚約するもの」
「……お姉様が?」
「ええ。私とレオン様は、以前から惹かれ合っていたの。だから、あなたの代わりに私が婚約者として立ちます。それで公爵家との関係も安泰でしょう?」
その言葉に、レオンは安心したように同意する。
「クラリッサの方が、ずっと可愛いし話しやすいしな……やっぱり最初からこうすればよかったんだ」
(なるほど、ここまでがすべて筋書き通りですか)
レオンは知らされていなかったのだろうが、少なくともクラリッサは、この茶番劇の後に婚約者の立場をリオから奪うつもりだったのだ。
クラリッサの登場はあまりにも都合がよすぎた。淀みのない台詞、整った笑顔、ためらいのない足取り。すべてが、この瞬間のために準備していたことを物語っている。
そして姉がこの役目を引き受けることを、誰よりも歓迎していたのは母であるイザベラだ。
イザベラはクラリッサを溺愛している。彼女にとって何よりも大切なのは、社交界で人気があり、華やかで愛想の良い長女だった。
だがアイスワーズ伯爵家にとって最大の功労者はクラリッサではない。
家の財政を担っているのは七歳のリオだからである。彼女は前世の知識を用いて、異世界に存在しない配合と栽培手法を導入し、薬草の改良と交配に成功していた。
それによって得た権利料が、今のアイスワーズ伯爵家の生活を支えていたのだ。それは使用人たちの間でも暗黙の了解で、知らぬは貴族たちだけ。
だがイザベラはそれが面白くなかった。
家族の中で冷遇してきた娘が最大の功労者など、あってはならないことである。自分が目立ち、称賛されなければ気が済まないイザベラにとって、今回の出来事はまさに理想的だった。
忌まわしい娘から公爵家との縁談を奪い取り、その座を可愛い長女に与える。さらにその責任をリオに負わせることまでできるからだ。
「さて話は決まったわね」
イザベラが満足げに口を開く。
「婚約は引き続きクラリッサが担う……公爵家との縁談が破談するところを、クラリッサが救ったのよ。リオも感謝しなさい」
あまりに理不尽な言葉だが、リオにとっては聞き飽きた台詞だ。
母はいつだって、クラリッサの手柄には惜しみない賛辞を与えるが、リオの努力には見て見ぬふりをしてきたからだ。
(感謝ですか……)
リオの口の端に浮かぶのは、嘲笑にも似た笑み。静かな瞳で母と姉を見つめ、リオは一歩前に出る。
「……用件はこれで終わりですね?」
「リオ!」
「では、私はこれで失礼いたします」
静かに身を翻し、そのまま退室する。バタンと、閉ざされた扉の音が、やけに響いた。
薄暗い廊下に出た瞬間、リオは息を吐く。それはあまりに静かな、深い深い吐息だった。
(私は冷遇されているのでしたね……)
そのことを再認識できただけでも意義はあったと、リオはその場を力強い足取りで立ち去るのだった。