002-赤い花きれい 1 <赤い花>
午前10:40からの2限の講義は1年生向け専門科目の有機化学1の第5回目であった。工学部1号館の2番教室には50人くらいの学生が参集していた。
「キラル分子かアキラル分子なのかの判定は、分子内に対称鏡面を置くことができるかどうかで判定します。対称鏡面を分子内に置くことのできる分子はアキラルです。置けなければキラルです。よく、『キラル分子は炭素の4つの手が全て異なる置換基を持つ』という誤まった記述がありますが、これは大ウソです。信じてはいけません。一部のメソ体はそのような炭素を持ちますが、アキラルです。また、そのような炭素を持たなくても、前回の配置異性体の時に紹介したアトロープ・アイソマーはキラル分子です。」
安野は黒板に2つの構造式を描いた。
「では、炭素周りに、4つの異なる置換基を持つ炭素は無条件に光学活性中心になるでしょうか? この分子のこの矢印で示した炭素の周りの4つの置換基は、構造的に全て異なる置換基です。そのうち2つは置換基ですが対称体の関係です。つまり、4つの置換基は全て異なります。でも、その分子全体を鏡に映したものとこの分子は完全に重ねることができます。つまり、『4本の手が全て異なる置換基を持つ分子…』でキラル・アキラルを判定できるというのは大ウソ、大間違いです。また、この分子は分子内のこの炭素の上を通る対称鏡面を設定できます。教科書147頁のメソ体と同じですね。だからアキラルです。」
黒板の構造式の下に二本の線を引いて、安野は話しを続けた。
「私の調べたところ、1964年のフィーザー先生の有機化学の教科書の記述も「分子内鏡面対称」の有無による判定でした。もっと調べたところ、ある大学受験の参考書に『キラルな分子は分子中のひとつの炭素原子の4本の手に異なる4つの置換基がついている分子である』と書かれていました。ウソは困りますよねえ、受験参考書のそのようなウソは。ちなみに、受験でよく使われている『赤い本』にも間違いがあります。少し前のうちの入試問題の解説に間違った答えが書かれていました。…あの答えではバツになります。いったい誰が回答しているんでしょうねえ…。」
授業は脱線する。
「もっと話しがややこしくなります。キラル分子で4つの異なる手を持つ炭素はキラル中心の不斉中心炭素と呼ばれます。ではこの構造にはいくつの不斉炭素があるでしょうか。まず配付したミニッツペーパーにこの構造を描き写し、そのような不斉炭素にアストラック(*)をつけなさい。それからCIP則に基づいてそれぞれの炭素原子の絶対配置を決めてR, Sの記号で記入してもらいます。では、次に絶対配置の話しをします。教科書の140頁を開いて下さい。」
安野はややこしい構造式を黒板に描き上げた。
講義はその後教科書のあっちのページ、こっちのページと渡り歩きながら続いた。
「では、ミニッツペ−パーを学生番号順に提出して下さい。これで本日の有機化学の講義を終わりにします。」
安野は教卓の前の机に乱暴にまとめられたミニッツペーパーを丁寧にそろえ、それをクリアファイルにまとめて入れてから教室を離れた。そして、3階の自分の研究室へと戻っていった。
「安野先生、いつもの『安全のヒト』がお待ちです。」
学生居室の椅子に座っていたのは、作業服の大学本部の環境安全衛生部の橋本主任だった。安野の顔を見ると、橋本主任は早口で大きな声で喋りはじめた。
「今朝、大変なことがありまして、安野先生、少し内密でお話ししたいことが…。」
内密なら、少し声を落として喋れよ、と安野は思ったけども、それを口には出さなかった。でも、少し嫌みを言いたかった。
「わかりました。私の部屋でその内密のお話を小さな声でお話しください。」
安野の案内で、2人は准教授室へ入っていった。准教授室の扉を閉める時に安野はふと、銭形平次の子分の名前は何だったかな? と気になりだした。
「橋本さん、あのね、私はこの4月で大学の安全からは足を洗ったはずです。」
「そんなつれないなあ。労安法対策で一緒に苦労した仲じゃぁないですか。」
2004年の4月に国立大学は国立大学法人になった。大学教員は公務員から大学法人の職員となった。そのため、支配する安全の法律は『人事院規則』から『労働安全衛生法』に変わったのだった。安野は2003年度の1年の準備期間、現場監督として事務の人と一緒に局所排気設備をはじめとした労働安全衛生法への対応をしていた。
4月になってお役御免になったのだけど、その後も何かトラブルが発生すると安全担当の橋本君はなにかと相談しにくる。
「で? 何が起こりました?」
「…見つかってはいけない赤い花が咲いていました。」
「赤い花? もしかして…アツミケシですか?」
安野は3日前の新聞の地方欄にあった、県北のホームセンターでアツミケシの鉢植えが販売されていた、4株ほどまだ回収されていないという記事を思い出していた。
「アツミケシかどうかまではわかりませんが…そうです。」
「で? 撤去は終わったの?」
「はい、保健所の立ち会いの元、ゴミ袋に詰めて、焼却処分のためにお持ち帰りいただきました。書類上の手続きも全て終わっています。」
安野は声を顰めて聞いた。
「マスコミへの口止めは?」
「もちろん、保健所さんに強くお願いして同意してもらいました。南国大学のような騒ぎはごめんです。」
今から数年前、同じくキャンパス内にケシが自生していた南国大学は、新聞報道されてしまったために大騒動になった。騒動になれば、数日間は大学本部の業務が止まる。安全衛生部の業務が止まってしまう。記者会見などで矢面にたつのは学長だけども、そのお膳立ては安全衛生部だけではなく広報部、法務部を含めて大学本部全体の仕事になってしまう。クワバラ、クワバラ。
まして、独立大学法人化してまだ間もない現時点で、そのようなドタバタの非常事態に大学本部が法人として十分に対応できるとは思えない。いや、できなければ困るのだが…。
「保健所に介入してもらったのなら、合法的かつ穏便に対応できたわけだね。よかった、うんよかった。それで、今日ここへ来たのは何の御用ですか。もう私にできることはなにも無いでしょう?」
「はい、先生にちょっと現場をみてもらって、先生のご意見、アドバイスを伺いたいと思いまして。」
「意見?…わかりました。今からご一緒しましょう。」
安野はお腹を揺らしながら椅子から立ち上がった。
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