001-金曜日の塩化メチレン 6 <ゴム手袋を有機溶剤作業の保護具として使う危険性>
しつっこいが、この三つ目のMSDSの不備は根深い。いや、不備と言うよりもゴム手袋万能保護具説という『常識』が大問題だ。
その拭き取り剤のMSDSの中に書かれていた『手の保護具』はゴム製保護手袋であった。ゴム手袋、一般にはラテックス(天然ゴム)を素材としている。天然ゴムの成分は主にポリイソプロピレンである。これは親油的である。プラスチック(新油的ポリマー)に長時間接触した輪ゴムがプラスチックとべったりくっつくのはよく見られる現象である。ゴムは親油性をもつ。油は水をはじく。だからゴムは水をはじく。そのため、医療現場などで血液などの水成分が皮膚に付着することを防ぎ、それによる感染を防ぐのには有効である。しかし、有機物の分子をゴム手袋は防げない。防げないどころかゴム手袋に染み込んだ有機溶媒は揮発できずに手袋内に長く留まり続け、手の皮膚に触れ続ける。実際、今回『手袋の内側がぬるぬるする』という現象は、ラテックスの手袋内の剥離剤、張り付き防止の粉、コーンスターチが有機溶媒と混ざり、クリーム状になったことを意味する。そして、そのように保持された溶媒は経皮吸収で皮膚から人体に侵入して行く。塩化メチレンのように揮発性の高い溶媒なら、むしろゴム手袋をはめない方が人体への侵入は少なくなるであろう。このようなMSDSの誤りは審査されず、放置されている。MSDSの外部審査制度、査読(peer review)制度が必要である。
そのような視点でみれば、『ゴム手袋信仰』は有機物を扱う場合、とても危険である。
昔、安野も『メチルイソシアネート(CH3-N=C=O)』を扱った時に、二重にしたゴム手袋の間に、その化学物質が微量吸着しており、それによりひどい眼の痛みを覚えたことがある。このとき、安野は細心の注意をしており、メチルイソシシネートを1滴も手袋に付けていない。それでも、揮発性の高いメチルイソシアネート気体はゴムに『吸着』され、濃縮され、浸透し、ゴム膜間に蓄積していたと推察された。
ちなみに『メチルイソシアネート』は極々少量でも眼に来る物質である。メチルウレアの原料物質として有機合成、特に農薬の原料として使われていた化学物質である。そして、その毒性は極めて高く、その大規模漏洩事故である『ボパールの悲劇』は1〜2万人以上の周辺住民の犠牲を出している。安野が暴露した時に死なず、失明しなかったのは、極めて微量であったおかげである。
その経験以来、安野はネット上のQ&Aサイトでの質問に対して、有機溶媒作業でゴム手袋を使うことの危険性を訴えて来た。しかし、安野の回答はベストアンサーになることは無かった。そして、ゴム手袋は有機溶媒などの保護具として有用であるという主張がベストアンサーになっていた。ゴム手袋万能信仰の根は深い。
さらに、そのような視点で見直せば多くの薬物中毒事故が、このゴム手袋万能信仰に起因していると疑われる。
アメリカのD大学のW教授の死亡事故は悲劇的だ。水銀原子の核磁気共鳴測定の化学シフトの内部標準である『ジメチル水銀』をゴム手袋の上に垂らしてしまったW教授は、神経症状により暴露後数ヶ月で死亡した。ジメチル水銀は水俣病の原因物質で重篤な神経症状を引き起こす。アメリカ化学会のC&E Newsでは、その原因を「ゴム手袋にあいていたピンホール」としていた。しかし、今思えばジメチル水銀は極性の低い有機物である。だからゴム手袋を透過する。その透過したジメチル水銀の経皮吸収によりW教授は亡くなったという仮説は荒唐無稽ではない。
あるいは、先に注釈で述べた『塩素系拭き取り剤による印刷工場の作業者の胆管ガン発生』事故でも、MSDSに従い、作業者は拭き取り作業時にゴム手袋を使用していたそうである。同様に拭き取り剤中の塩素系溶媒のゴム手袋内での高濃度接触と経皮吸収を疑うべきではないだろうか。この場合、ゴム手袋は高濃度の液体状の塩素系溶媒に触れ続けていただろう。手袋内がぬるぬるになっていたかどうかの追加調査を行うべきである。
有機溶剤作業時のゴム手袋は危険である。特に速乾性の塩素系溶媒を用いた拭き取り作業でゴム手袋を付けっぱなしで使用するのは、塩素系溶媒を積極的に体内に取り込むことになる。
大学では使い捨て手袋を使い捨てるのは「もったいない」と思う者も多い。乾かして再利用する、あるいは一度はめたら長時間装着し続ける学生も多い。これは危険性をましましにする行為である。
では、有機溶媒作業時の手の保護具には何を使えば良いのだろう。現状で有効な保護具は見つかっていない。
その後、安野はいろいろな素材のゴム手袋について、その有機溶媒や有機溶媒蒸気の吸着・透過を検討した。残念ながら、ラテックスのゴム手袋同様、有機溶剤に強いとされている薄手のニトリル手袋、ウレタンゴム手袋など、ことごとく塩化メチレンに対して、保護能力は無かった。唯一、ビニル手袋は有機溶媒蒸気に対してガスバリア性を示した。しかし、有機溶媒に触れればふにゃふにゃになる。また、熱圧着で接合されている部分は力学的に弱く、指の曲げ伸ばしでピンホールがあく。そのため、液体作業には向いていない。さらにフラスコ等をつかむと滑る。使いづらい。
現状で、有機溶媒を扱う作業に適した手の保護具は見つかっていない。
安野の研究室では、ビニル手袋を使わせている。ただし、作業時には頻繁に取り替えること、作業終了時にはすぐに捨てて、手を石けんでよく洗うように指導している。
そして、塩化メチレンのようなすぐに揮発する物質の場合は、局所排気設備下で作業し、揮発ガスを吸入しないこと。素手で作業し、すぐに手を洗うようにと指導している。
第1章終わりです。
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