018-耐震補強 1 <耐震補強の目標>
「安野君、研究室のお引越だ。」
教授会から帰って来たボスは、開口一番言った。
「突然、何ですか?」
「工学部の建物の耐震補強を行うそうだ。それに伴い、ドラフト(局所排気設備)の改修も耐震補強と同時に行うそうだ。」
「それは大変ですね。」
「君は何を他人ごとのように言ってるんだ? 僕はもう定年まで後5年しか無いんだ。改修が終わったら、君がボスになる。改修と引越は任せたからね。」
まさかの丸投げだ。でも、自分好みの研究室、実験室を作るのは、楽しい。嬉しい。
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会社員のころ(10年くらい前)、新しい研究・試作棟のイメージデザインのために、各地の企業の研究所を見て回った。 良い経験をした。
埼玉県のH社の基礎研究所のビル前は芝が奇麗に刈り込まれており、そこに大きな池があり、白鳥が優雅に浮いていた。この研究所は新しいビジネスのネタ作りのための研究施設で、数年ごとに研究室を使用するPI(Principal Investigator研究責任者)と研究内容が交代するため、レイアウトのフレキシビリティを重視していた。電源は壁ではなく天井に這わせたラックからつり下げられていた。 見学者への研究所の紹介は会議室の自動で降りてきた大型スクリーンに、机に開いた穴からせり出て来たコンピューター制御のプロジェクターで映像を映し、行われた。さすがは家電のH社だなあ、と感心した。でも、案内担当者が席を外した隙に部屋の隅の映像機器のコンソールを覗いたら、制御コンピューターはH社のFシリーズのパソコンではなく、マックだった。 「みちゃだめ!」と案内係に叱られた。
茨城県のD社のバブルの頃に建てられた ME◎研究所は実験設備が豪華だった。20〜30人の研究員に対して数台のSC-NMR(超伝導マグネット核磁気共鳴測定装置)を有していた。当時の地方国立大学、いや、旧帝大でもここまで最新式の測定装置をそろえている所はほとんど無い。しかも研究所内にジム・トレーニング設備やプールがあり専属のトレーナーが控えていた。娯楽室にはビリヤード台やバーカウンターもあった。バブルの残滓かなあ?
見学会が終わった後の懇親会で、案内をしてくれた部長職研究員が
「この研究所はリクルート用で、学生さんに見せて、入社したら関西の古い工場併設の研究所に送るんですけどね。…内緒ですよ?」
と教えてくれた。 その話しを聞いて、苦笑いをするしか無かった。
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バブルの頃に建てられた企業の実験棟に比べると、昭和40年代に作られた大学の建築物はやはり古くさく、機能的ではない。耐震改修ではなく、そろそろ立て替えた方が良いと思うのだが...。 今回、国から大学へ降りて来た予算は『耐震改修』の分だけだったらしい。あと何十年もこの建物を使うらしい。あるいは、大地震で建物が壊れてから立て直すつもりかもしれない。
今回の改修は3号館の情報系の学科を空けて、まずそこの耐震改修を行う。そして、改修済みの3号館に1号館の電気電子系の研究室が引越し、空いた1号館を改修する、というような玉突き改修計画だった。現在は離れ小島の大学院棟にある我々の研究室もこのどさくさに、改修された1号館にはいることになった。そして、部屋は少し狭くなる。
情報を集めるために橋本君を呼び出した。かれは安全事務部に来る前は施設部所属だったから、何か情報を持っているだろう。
「橋本さん、橋本さん、ねえ、教えて?」
可愛らしく言ってみた。
「何ですか? 安野先生。 きもち悪いなあ。」
橋本君は顔を引きつらせて椅子ごと少し後ろに身体を引いた。
「今回の耐震改修で建物をどんな風に改修するの?」
「ああ、それですか。 えーとね。簡単に言えば、建物の周りに柱を立てて、その柱の間に梁を渡して、今ある建物の床を支える、という工事です。もちろんむき出しの柱は見栄えが悪いので、てカバーします。」
「それで建物はどのくらいの地震に耐えられるようになるの?」
「あまり期待しないでください。この工事の目的は床の崩落までの時間を稼いで、中の人の脱出時間を確保することです。現状で床面が崩落すれば、建物のバランスが崩れて、壁面が内側に倒れ込み、すぐに建物が完全に崩壊します。それを30分とか1時間とか遅らせるための『耐震補強』です。避難時間の確保のためです。予定では阪神大震災級の揺れでも、20分は何とか持つようにと設計されていると、…担当者は言っているけど…どうだかねえ。」
私はそれを聞いて絶句した。
「じゃあ、今、震度7の地震が起ったら…」
「今回改修対象に指定された多くの建物は崩壊します。」
「….ほうかい(そうかい)」
緊張に耐えられなくなった安野は駄洒落を口にした。
「だから、そんな大地震が来る前の『耐震補強』ですよ。命を守るためです。…先生、その駄洒落はつまらないですよ。」
橋本君の言うことは正しい。




