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キャンパスでは「ご安全に!」  作者: リオン/片桐リシン
017-スライダック 全2話
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017-スライダック 1 <配線ミス>

 クンクン。安野が部屋のにおいを嗅いでいる。実験室内で有機溶媒のにおいがする。少し甘い匂いだ。芳香族系の有機溶媒のにおいだ。トルエンかな?ベンゼンかな? どちらにしても身体に良くない有機溶媒だ。


 「お〜い! ベンゼンかトルエンを使っているのは誰だ?」

 「は〜い! 僕で〜す。 原料の合成で加熱還流溶媒にトルエンを使ってま〜す。」

4年生の田中が答える。

 「溶媒蒸気が漏れてるぞ〜。田中! 実験はドラフトでやれっていっただろうが?」

 「いいえ? ちゃんとドラフト内で実験していますよ?」

イヤな予感を感じた安野は田中のいるドラフト(局所排気設備)へ向かった。

 「なんだ? 1Lのフラスコでトルエンを加熱還流か。 反応溶媒の沸騰が激しすぎるな。 長さ40cmの5つ玉玉入り冷却管を使っているな。けど… 水はちゃんと流れているか? 止まってないよな。」

 「ちゃんと冷却水は流れています。ほら。」

確かに、玉入れ冷却管の上側の排水口から伸ばした8 mmのゴム管から水がちょろちょろと流れている。しかし、水量はそこそこなのに、ぬるま湯になっている。温度が異常に高い

 「おかしいなあ。…冷却管の還流溶媒のフロントが下から3つ目の玉まで上がっているじゃぁないか。マントルヒーターの電圧が高すぎるんだよ。一番下の玉、高くても二番目の玉までで還流させなくちゃダメだよ。」

 「え〜っ。いつも通り40Vしか掛けていませんよ。」

安野はスライダックを見た。確かにつまみは40Vに設定されている。 

 《これはいかん! スライダックの異常か、マントルヒーターの異常だ。》


 「田中ァ 実験を中止しろ。加熱系がトラブってる。」

 「え〜っ、まだ20分しか加熱反応をさせていませんよ? あと二時間は反応させないと。」

 「異常事態だ。このままでは事故になる。マントルヒータが過熱している。加熱を停止する!」

安野は田中の言葉を遮り、スライダックのつまみを0Vにまで落とした。

 《これで大丈夫だろう。安全における『停止の原則』だな。》

 「よし。田中君。溶媒の還流がおさまったら原因調査だ。」

安野は助教授室へ一旦引っ込んだ。


 約10分後。田中が助教授室へ飛び込んで来た。

 「先生! 還流がおさまりません。むしろ激しくなってます。」

 「なにぃ?」

安野は駆け出した。実験室内の溶媒臭はさっきよりもひどくなっている。触ってみるとフラスコは熱くて触れない。電気を止めたのに!嘘だろう? そして、反応溶液は少し茶色く着色している。還流冷却器の溶媒のフロントラインは玉入れ冷却器アリーンの一番上の玉まで来ている。

 《ヤバイ! 反応暴走か?》


 発熱反応に伴い発生する反応熱が冷却能力を上回ると、反応溶液の温度はどんどん上がる。溶液の温度が上がると、一般的に反応は加速する。温度が10℃上がると、反応速度はおおよそ2〜3倍速くなる。反応が速く進むと、ますます反応熱が発生する。…やがて反応は暴走し、最後は爆発する。

 田中の行っている反応は、発熱反応では無いはずだ。試薬を間違ったか、あるいはその量を間違えたか… 何らかの原因で異常な発熱反応が起っているようだ。



 安野は、会社員時代に行っていた硝酸酸化を思い出していた。

 多くの酸化反応は発熱反応だ。反応のスケールアップ(反応量を大きくする)実験で、これまで120 mmolスケールで行っていた反応を1000 mmolつまり、1 molスケールで行ったときに、反応を暴走させてしまった。その時、氷水に付けて冷却していた反応容器の中の濃硝酸反応液が沸騰を始めた。スケールアップではしばしば温度管理が狂う。反応容器の体積を8倍にしても、反応容器の表面積は4倍にしかならない。しかもフラスコの肉厚が厚くなるため冷却効率は下がる。ガラスの熱伝導度は低い。

 その時、安野はやむを得ず反応を中断するために、フラスコの冷却管を外し、内容物である硝酸溶液を冷却していた氷水に注ぎ込むことにした。

 硝酸溶液を氷水にそそ見込むことで冷却し、水で薄めることでその暴走を止めることは出来た。しかし、冷却管を外した瞬間に、フラスコ内の内圧が下がり、硝酸溶液は突沸した。作業を行っていた安野の頭上へその液滴が降り注いだ。

 ゴーグル型の安全眼鏡のおかげで目の負傷は免れた。すぐに頭からシャワーで硝酸反応液を洗い流した。しかし、硝酸の液滴は安野の顔面にキサントプロテイン反応による平均直径が1.5 cmのオレンジ色のお洒落な水玉模様を作った。数日後、オレンジ色になった皮膚ははがれ落ち、お洒落なピンクの水玉にかわった。

 当時、安野は混雑ゆえに最凶線と揶揄される路線で通勤していたが、どんなに混雑していても、なぜか安野の周りは空いていた。周りの人のギョッとした表情で一歩下がった。視線が薬傷よりも痛かった。まさに痛勤であった。



 「総員退避!」と、安野が怒鳴る寸前、修士1年の片山君がのんびりとした調子で田中に語りかけた。

 「田中ぁ。 そのスライダック、使っていないのなら、オレが使うぞ。」

と片山はインプットのプラグがアウトプットにつながった状態のスライダックをその場から持ち去った。後には100Vのコンセントにプラグが直接差し込まれたマントルヒーターが残った。

 「あれぇ?」

田中は首を傾げて間抜けな声をあげた。


 バカバカしい配線ミスだった。田中はマントルヒータのプラグをスライダックにつなげたつもりで、100Vの電源に直接繋いでいた。40Vのつもりで100Vを通電すれば、そりゃぁマントルヒータもアッチッチになるわけだ。


 「はあぁ,…田中ぁ。マントルヒーターの電源を抜け。」

安野は脱力しながら田中に指示した。



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