閑話-010 髪の毛 2 <富士山>
誤字の修正、ありがとうございました。
卒論のシーズンもいよいよ佳境です。
忙しいと、どうしても誤字もトラブルも増えます。《なさけないなあ》
『ご安全に』です。
私は若白髪だ。20代の半ばにはすでに白髪が目立っていた。40歳になった頃には、ロマンスグレーといえば聞こえは良いが、もう頭全体は灰色っぽくなった。 これは遺伝だな、うん。父も若白髪だったそうだ。父の見合い写真は、若白髪な上に甥っ子を抱っこしていたスナップ写真だったそうだ。そのため、母は年齢詐称の子持ちを疑ったそうだ。
実験で自作の水銀マノメーター(圧力計)を使って、Grignard試薬の溶けている溶媒の蒸気圧を測定し、溶媒中での試薬の会合度を測定した。真空ラインで10-6 Torrまでマノメーターを減圧すると、水銀蒸気が出てきて、真空ラインの冷却トラップを黒くする。おそらく、微量の金属水銀蒸気をその会合度測定の際に吸入した。水銀蒸気を吸入すると、白髪になるそうだ。失敗したなあ。白髪を加速させてどうする!
「若白髪のヒトは禿げないそうですよ。うらやましい。」
と学会などで年上の先生に言われることがある。確かにその先生の髪の毛は戦略的に後方撤退を始めているようだ。でも禿げは精力的に見える。若白髪は年寄り臭く見えて、嬉しく無い。学生時代の学会発表後に、大学の先生と間違われたこともある。
「どちらの研究室の先生でしょうか?」
「いえ。学生です。」
「はあ、博士課程ですか?」
「いや。修士1年です。」
他大学の先生にビックリされた。
大学教員になってしばらくしたころの学会の懇親会で『白髪』の話しになった。学会の懇親会と言っても、 高尚な学問の話しをする訳ではない。いや、中にはそんな話題をふるヒトもいるけど、だいたいは、研究予算の愚痴とか、サボリ癖のある学生の愚痴とか、奥さんの愚痴とか…愚痴ばかりだ。
「先生、お歳の割に先生の髪の毛は黒々としていますね。」
私より10歳くらい年上の先生のつやつやとした黒髪を見て、私はため息まじりに羨望の声を上げた。その先生は私の髪を見てぼそっと言った。
「実はね、ボクも若白髪で、これ、染めてるんだよ。」
ビックリした。驚いた。
「え〜っ!上手に染めてますね。 ….私も染めてみようかな?」
「あまりお勧めしないよ。めんどくさいよ。それにね、1回染めると後戻りできなくなるよ。 …世間が元の白髪頭に戻ることを許してくれないよ。」
その先生はしみじみ述べた。
学会後、しばらくの間、「髪の毛を染めてみようかな、どうしようかな」と逡巡する日々が続いた。
思い立って、休みの日に髪の毛を染めてみた。黒くなった。ついでに白髭もそってみた。顔が10才は若くなった。
鏡に映る若返った自分の顔を見て、嬉しくなった。うん。イメチェンは成功しそうだ。ウキウキ気分でその顔を家族に見せた。
若くなった私の顔を見て、…幼い娘が泣いた。
妻に抱かれた娘は「だれ?この知らないおじさん」と言わんばかりの目で私を見て、妻にしがみつき、チラチラと私の顔を見ては鳴き声を上げる。「声はお父さんなのに、見たことが無いおじさんが家にいる」とばかりに泣く。妻はその様子を見てケラケラ笑っている。
…へこんだ。
翌朝、研究室の扉を開けて
「おはよう!」
と挨拶をした。学生が朝もはよから実験をしていた。
「はい。え〜と、お客様ですか? 先生はまだ来られていませんが…って、 えええぇぇ〜!」
学生は奇声を上げた。
その後、私から声を掛けた研究室の学生は、困惑後にもれなく奇声を上げ、怖い物を見る目で私のことを遠巻きにしていた。まったく落ち着かない。
午後には怖い物を見る目が、おかしなヒトを見る目に変わって来た。でも、何で髪の毛を染めたのか、髭をそり落としたのかを聞きにくる勇者はいない。学生間でヒソヒソしている。
『聞きたいんだろう? 聞けよ!』と思うが、こちらから積極的に話すつもりはない。
学生との研究打ち合わせ(ディスカッション)の時も、いつもは目を見て話しをする学生が、目を合わせようとしない。こちらが相手を見ると、露骨に目を逸らす。そして,中にはうつむいて肩を震わせて笑いをこらえている学生もいる。失礼な奴だ。
これはあれだな。以前にボス先生から聞いた、ある日突然カツラを装着して来た先代の教授に対する周囲の態度に似ているな。私はパイルダー・オンの先代教授の顔しか知らない。でも、確かに、古い文献の著者近影の先代ボスは若干『髪の毛の不自由なヒト』であった。
芥川龍之介の『鼻』の主人公である禅智内供もこんな気持ちだったのかな、と思う。そのような周囲のヒソヒソに耐えられず、1日で髪を染め続けることを断念した。ガラス細工をする時のように、タオルをターバン・はちまきにして日中過ごすことにした。
おおよそ1週間後、洗髪により黒く染めていた髪の毛は色落ちし,赤っぽくなっていた。このオレンジ色に近い赤は黒よりも耐えられない。なるほど、これが『後戻りできない』か。そして、頭のてっぺんから元の白髪が伸びて来た。
リサーチ・セミナーで、はちまきターバンはさすがにはばかられるので、私はターバンを外してでセミナー会場へ入室した。学生の騒がしいおしゃべりがピタッと静かになった。イヤな沈黙が場を支配する。
ひとりの学生が私の頭を見てつぶやいた。
「赤富士だ。」
一瞬の静寂の後、笑い声が部屋を包んだ。
あの沈黙が続くよりは、まだましだな、と,私はどこかホッとして苦笑した。
注:赤富士の写真を父は残していませんでした。




