001-金曜日の塩化メチレン 4 <明らかになった原因>
明日日曜日はお休みです。本作の次回更新は月曜日になります。
明日は『狭間の世界より』
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の更新日です
安全工学の第14回の講義後に機械工学科の4年の学生が質問に来た。
卒業単位不足で選択科目の安全工学を受講している奴だ。○天の「みんなのキャンパス」の鬼仏表にはこの講義の単位取得度は☆5つでレポートさえまじめに出していれば必ず単位が『もらえる』と書かかれている。
考えが甘い。15回もレポートを締め切りまでにきっちり出すのは、単位不足で苦しんでいる4年生には大変厳しいだろう。ふっふっふ♡。
「先生、保護具について質問、よろしいでしょうか?」
おや? まじめな質問のようだ。「卒業できません単位をください」ではなさそうだ。
「ああ、わかることなら。」
「実は…」
質問というか、相談の内容は、適切な保護具をしているのに、手の皮膚がひどく荒れるという状況についてだった。
「機械油の拭き取り作業の時に、拭き取り剤のMSDSの記載通りにゴム手袋を付けているのですが、作業していると手がぬるぬるしてきて、作業後に手の皮膚が赤くなり、特に爪の周りが赤くなっていて痛みもあるんです。保健管理センターにも相談したのですが、『ラテックス・アレルギー』を疑われました。何か代替手袋はないでしょうか。」
「そうだねえ、ラテックス・アレルギーなら…少し高価だけどニトリル手袋を使ってみるかい? 一双だけならあげるよ。これから研究室にとりにおいで。使い物になるようなら、今後の購入は研究室の先生に相談してみてね。」
その学生さんを伴い、そのまま研究室に戻った安野は青色の薄手のニトリル手袋を機械工学科の学生さんに手渡した。そして、別れ際に彼に言った。
「使い心地を報告してね。」
その次の月曜日、彼の機械工学科の学生さんが安野の研究室を訪れていた。
「先生、金曜日にいただいた手袋を早速使ってみたんですが、ダメでした。」
「そっか〜、ダメだったかぁ。」
「ラテックスの手袋と同じく、すぐに手袋の内側がぬるぬるして、手が赤くなり指先が腫れて痛くなりました。」
「じゃあ、ラテックス・アレルギーじゃないのかもしれないね。どんな作業に使ったの?」
「装置のメンテナンスです。機械油の拭き取り作業です。」
「機械油?」
「はい、切削装置のバイトにつける機械油です。」
「切削油?」
「はい、新しい切削油の試験です。」
「その切削油の成分は? ヤバイものははいっていない?」
「えーと、月曜日から金曜日まで使ってますが、特に手が腫れることはありませんでした。」
「拭き取り作業は金曜日だけ?」
「はい」
安野は少し考えてからその学生に申し出た。
「その作業現場を見に行ってもいいかな?」
「えーと、うちの先生の許可をもらってきます。」
しばらくして安野の部屋の電話が鳴った。その機械工学科の先生だった。口頭で「よろしくお願いします」とのことだった。
安野はすぐにその機械工学科の加工実験室を訪れた。
「よう!」
「安野先生。ご足労をおかけします。でもって、切削機はこれです。」
「えーと、旋盤だよね。」
「はい。これでマグネシウム合金を削っています。」
「危なくない?」
「危ないといいますと?」
「マグネシウム合金の削りかすは燃えない?」
「え〜と。今までのところ燃えたことはありませんね。大丈夫です。」
「そう。気をつけてね。」
それから安野は周囲を見渡してから言った。
「切削油と油拭き取り剤を見せてくれるかな?」
「はい。」
しばらくして2本の200 mLくらいの大きさの瓶が3本、安野の前に並べられた。
「こっちが切削油です。でもって、こっちが拭き取り剤です。」
安野は2本の瓶を両手でもち、それぞれを傾けた。1本はとろりとした粘度の高いうす黄色の液体であった。もう1本はさらさらの液体だった。
「両方とも小わけ瓶だね。」
「そうですね。」
「蓋を開けても良いかな?」
「大丈夫です。」
安野はそのサンプル瓶のねじ蓋をひねった。そして、その瓶の開口部に鼻を近づけてそのニオイを嗅いだ。俗にいう鼻クロ分析(鼻クロマトグラフィー)と呼ばれる行為である。人間の鼻による臭い分析は、エキスパートになればびっくりするような精度でその成分を分析できる。安野は調香師のようにその成分量を言い当てるほどの能力を持たない。しかし、自分の知るいろいろな臭いをそれなりに記憶している。安野の前職は石油会社の研究員だ。いろいろな有機化合物以外にも潤滑油のニオイも記憶している。粘稠な液体は『潤滑油』や『機械油』の臭いだ。未使用のエンジンオイルのニオイにも似ている。臭気は微弱だが不快な臭いは感じない。
「大元瓶を見せてもらえるかな?」
「切削油はこの大きさの瓶で10種類くらいあります。企業からの頂き物で、ちょっとずつ成分が違うはずです。それぞれ調製済みのものなので、大元瓶はここにありません。原料はこの表に記載してあります。」
よれよれのビニルのファイルに挟まれた1枚の紙の表が出された。そこに書かれた成分は….うん、『鉱物油』トいう記載では、その有害性はわからない。
「成分的には普通の切削油とあまり変わらないんだよね。」
「そうですね。特段妙な添加物はありません。」
そうすると、本星(ほんぼし=真犯人)はこの油拭き取り剤かな? 拭き取り剤の子瓶を手にとり、少し振ってみた。さらさらとしている。
先の切削油と同じように瓶の蓋をあけ、鼻クロにかけた。不注意だった。
「うっ!」
「あっ。気をつけてください。その拭き取り剤は揮発性が高いので。」
学生さんの忠告は間に合わなかった。
安野は刺激臭にすぐに瓶を鼻から遠ざけた。鼻腔内に塩素系溶媒の刺激臭が広がった。なんだろう、これは。塩化メチレンに似ているけど、それだけではないようなニオイだ。あえて香水のように言えば数秒間感じるトップノートが塩化メチレン、そしてその後に今まで嗅いだことの無い、おそらく塩素系の溶媒のニオイがする。クロロホルムでもない、四塩化炭素でもない、炭化水素のニオイにも似た物質だ。
「これは市販品?」
「はい、●ラン●ル●というものです。」
「●ラン●ル●?」
聞いたことの無い物質名だ。少なくともIUPAC名ではない。何かの商品名だろうか。
「小出しにする前の元の瓶はある?」
「はい。持ってきますか?」
「頼む。」
しばらくして機械工学科の学生さんは円筒形のねじ口の1Lサイズの錆びた金属缶を持って来た。缶には●ラン●ル●と商品名だろうか、印刷体のラベルが貼られている。
「これをガラス瓶に小分けしているの?」
「はい。このままではスポイトで取りにくいので。」
「なるほど。MSDSはあるかな?」
「はい。持ってきます。」
またしばらくして機械工学科の学生さんは錆ですこし変色した端の方がよれた数枚のA4の印刷物を持って来た。
安野はそれを受け取り、読み始めた。そして、だんだんと眉を顰めて行った。
機械工学科の学生さんは何か不穏な空気を覚えた。
MSDSを読み終えた安野は、頭痛そうに手でこめかみを抑えて考え込む。そして、不安な顔をした機械工学科の学生さんに質問をした。
「この拭き取り剤はどのように使っているのかな?」
「えーと、だいたい3 mLをウエス(雑巾)に染み込ませて、それで切削バイトの油をきれいに拭きとります。」
「ウエスはどうしている?」
「そこの小さなバケツに洗剤液を入れて、ジャブジャブ洗っています。」
「で? その洗剤液は?」
「排水に捨てています。」
「切削バイトの洗浄はいつ行ってるの?」
「金曜日の午後ですね。」
「……..」
しばしの沈黙の後
「えーと、研究室の現場監督の先生を呼んでくれるかな? 教授先生よりも助教授か助手の先生が良い。それと内線電話はどこかな? お借りしたい」
安野は内線電話を借りた
「もしもし、安野です。 安全衛生部ですか? 橋本さんはおられますか? お願いします。……ア、橋本君。至急で工学部1号館1階の機械工学科の作業実習室へ来てくれるかな? そう….そう….。 そうそこ、旋盤のとこ。 大至急でね。」