011-破裂 1<物理化学の講義>
午後一番の13:00からの3限の講義は3年生向けの専門科目の物理化学2の12回目であった。工学部1号館の4番教室には30人くらいの学生が参集していた。講義がはじまる前、教室は少しざわついていた。他学部のこととはいっても、新聞やテレビで報道されていた「爆発事故」についてひそひそと噂していた。
安野は手を叩いて学生の注目を集めた。
「はいはい、講義を始めますよ。お静かに。ご静粛に」
「安野先生、昨日の爆発について何か教えてもらえませんか?。」
最前列に座っていた学生が立ち上がって、安野に尋ねた。安野はやはりこの質問が来たなと思った。
「いやー私もまだ詳しいことは何も知らないんだ。あの破裂事故については新聞報道くらいの情報しか持っていないんだ…。ごめんな。」
『何でオレはあやまっているのだろう?。』と自問自答した。
じゃあ、講義をはじめるよ。」
「ナノテクノロジーの本質は、物理化学で習ったエントロピーの制御で理解されると、私は考えています。」
安野はひとつの式を黒板に乱暴に書いた。
ΔG = ΔH − TΔS
「この式は憶えていますね。忘れたヒトはお仕置きです(笑)。」
「ギプスの自由エネルギーはエンタルピーだけではなくエントロピーにも影響を受けることを、この式は示しています。化学における現象の多くはこの自由エネルギーの大小で進む方向やその進行速度が決まります。」
安野は黒板をチョークでトントンと叩く。
「有機化学などのマクロの化学では、エンタルピーの項ばかりに着目します。しかし、それではミクロのいろいろな現象の本質を理解できません。例えばマクロの現象でも融点の理解にはこのエントロピー項が重要になります。融点Tは液体状態と固体状態のΔGが同じになる温度です。だから、この式はこのように書き直せます。」
ΔΔGsol-liq = ΔΔHsol-liq − TΔΔSsol-liq = 0
「この式を変形すると、融点はこのように書き表されます。」
T = ΔΔHsol-liq / ΔΔSsol-liq
「融解熱を表すΔΔHsol-liqは小さくても、それ以上に融解に伴うエントロピー変化、このΔΔSsol-liqが小さければ、その物質の融点Tは高くなります。ナノの世界ではもっと顕著です。同じ温度でも、小さいエントロピーの場合のエンタルピーは小さくなります。その例が水素クラスレートで知られています。この水素クラスレートはメタンハイドレートに似たものです。水分子のつくる構造の隙間の部屋に入っているのはメタンではなく水素です。」
安野は模式図を書いた。
「水の作る水素のクラスレートには大きさの違う2つの部屋があります。水素の4分子はいる部屋と2分子しか入らない部屋です。両方の部屋に水素を詰め込んだクラスレートは−120 ℃以上でこわれます。つまり、−100℃くらいになるとこの部屋はパンと破裂します。一方で、THFを大きな部屋につめた2分子入る部屋だけのクラスレートでは−3℃まで安定です。この場合、分子のあり方の『場合の数』の多い、つまり温度は同じでも、エントロピーのより高い状態の4分子の水素の入っている部屋の水素は2つの部屋の水素よりも、同じ温度でも高いエンタルピーを持つわけですね。この場合は水素分子の運動ですね。つまり、同じ温度でも、4分子の部屋の水素は2分子の部屋の水素よりも激しくクラスレートの壁にぶつかり、比較的低い温度でもその壁を壊します。だから左側のクラスレート全体の安定に存在できる温度は高くなれません。しかし、この水素が4分子入る部屋を右側の絵のようにTHF分子で埋めてしまうと、より高い温度でもクラスレートは安定に存在できます。」
安野はチョークで黒板を再度トントンと叩いた。
そのとき学生から質問が出た。
「その水素によりクラスレートが壊れる現象は『爆発』ではないのですか?」
安野は苦笑いをした。学生はまだ昨日の事故を気にしているようだ
「爆発ではありませんね。破裂です。破裂は圧力で弾け飛ぶ状況です。爆発は燃焼を伴う現象ですね。破裂が『爆発的』であることはままあります。でも燃焼によるエネルギーの放出を伴わなければ、爆発と呼びません。というか呼んではいけません。これは安全工学の講義でお話ししましたよね? 忘れてしまいましたか?」
「…忘れていました。」
「じゃあ、君の安全工学の単位は取り消しかな?」
「え〜、勘弁して下さい。」
安野の定番のジョークに教室は笑いに包まれた。
「それでは、どのような場合にエントロピーが増大するかについてです。」
60分ほどして、講義の最後の方で、安野は学生さんたちの方を向いてミニッツペーパーの課題を述べた。
「では、先に述べた弱い分子間力」でも、高い融点を示す物質の例を探して、ミニッツペーパーに書いて下さい。最後に、ミニッツペ−パーを学生番号順に提出して下さい。これで本日の物理化学の講義は終わりです。」
20分ほどして、ミニッツペーパーが教卓の前の机に乱暴に積みかさなった。安野はミニッツペーパーを丁寧にそろえ、それをファイルに入れてから教室を離れた。そして、3階の自分の研究室に戻っていった。




