010-臭い 3 <チオール>
「おーい 、ガス臭だぞ。ガスの元栓は閉まっているか? ガス漏れさせていないか?」
学生がバタバタと研究室内を駆け回り、ガスの元栓を確認する。
「先生、研究室にはガス漏れはありません。」
外から帰ってきた別の学生が報告する
「先生、臭いは外からです。」
「何にぃ?」
窓を開けると、外からかすかにガス臭が臭う。どこかの研究室のドラフト(局所排気設備)から、建物外へ放出されたのであろうか?。
「ちょっと屋上へ行ってくる。すぐ戻る。」
屋上にはドラフトの排気口が並んでいる。屋上に上がって安野はにおいを嗅ぐ。しかし、どの排気口も特には臭わない。これは異常事態である。
大規模なガス漏れ事故か? どこかの火山でも噴火したのか? でも硫化水素臭とは微妙に異なる。このような場合には、最悪の事態を想定するのが危機管理の基本だ。
安野は部屋へ戻り、すぐに安全衛生部に電話した。
「安衛部ですか? 安野です。橋本君は居ますか? はい。お願いします。…..あ、橋本君ですか。安野です。ガス臭がします。」
電話からはそれにかぶせるような橋本君の慌てた声。
「あ、先生、橋本です。キャンパスのあちこちからガス臭いと言う問い合わせが来ています。キャンパス全体にガス臭が漂っているようです。いったい何でしょうか?」
「わからない。どこかガスの本管が破けたとか。大学の近隣でのガス漏れかも?」
「消防へ問い合せた方が良いですかねえ。」
「そうだね。ガス漏れなら爆発の危険もある。消防へ通報しておいた方が良い。 ところで吉備市の都市ガスの成分は何かな? 成分によっては有害性の懸念がある。」
「吉備ガスは、え〜と、この間のガス種の変更で13Aになりましたから、メタンを主成分とする炭化水素ですね。一酸化炭素は含まれていないはずです。」
「それはよかった。あの都市ガス種の変更は、酸素バーナーの総取っ替えで煩わしかったけど、まあ、意味があったんだね。」
「そうですね。でも、爆発危険は、免れません。 ガス会社と消防に問い合わせます。」
「よろしくお願いします。何か分かったら、教えてね。」
「分かりました。」
都市ガスなどの燃料ガスは、チオール=メルカプタン類で『香り付け』されている。この臭いを感知すれば、「すわガス漏れか?」と身構えてしまう。若干の構造の違いにより、若干の臭いの違いがあるが、総じて臭い。硫化水素も臭いが、臭いは異なる。イオウ化合物はなぜ臭くかんじるのだろうか。いや、イオウだけではなく、周期表のその下のセレン化合物もまた臭い。ついでに言えばテルル化合物も臭い。カルコゲンと言われる元素族を含有する有機化合物の臭いは、総じて臭い。これらの元素の化合物は臭いが、面白い反応性や物性故に、大学の化学の研究室では人気者である。だから、有機化学の研究室は独特の臭いがあると言われる。真っ正直に『臭い』と言わないのは、情けか遠慮か。有機化学研究室を『臭気』化学研究室と揶揄する他分野の化学者もいる。でも、最近の局所排気設備の進歩で、その悪評も徐々に払拭されつつある。
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1時間後に橋本君から電話があった。
「先生、臭いは大学周辺だけではないようです。市内全域に臭いが広がっているようです。」
「ガス漏れなら大事だ。でも、どうやらなんか別の原因かもな。」
「…先生、おならしました?」
「面白くないよ、橋本君。」
「いや、和ませようと…そう言えば、ガス会社の人から聞きましたよ! 先生、あの総取っ替えのとき、先生の研究室のガラス細工用の固定台付きハンドバーナーを、ごねまくって、木下式のブルーバーナーに交換させたそうですね。 ガス会社の営業の人が泣いてましたよ。」
「知らんな。ま・っ・た・く・憶えてないな。」
安野は電話口で笑いながらとぼけた。
橋本君も原因が学内ではないと分かると、緊張が解けて余裕が出てきているようだ。でも、臭いの原因が明らかでない以上、危険がなくなったわけではない。緊張の緩和が笑いにつながると言ったのは2代目桂枝雀師匠だったか…。
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結局、このガス臭は大学から東南方向20Km離れた瀬戸内海の島で廃棄中のメルカプタンが漏れたことによるものだと、翌日の新聞報道で知った。臭いは吉備市全域だけでなく、60Km離れた内陸まで香っていた。
チオールは極々少量でも臭い。それを実感させるインシデントだった。しかし、香水の中には極々微量のチオールが配合されているそうだ。善哉やお汁粉に少量の塩を加えると甘みが増すのと同じだろうか?




