010-臭い 1 <イソ酪酸>
「おーい!臭いぞ!腐った雑巾の臭いだ! おえっ。 何の臭いだ?」
安野が実験室で問いかける。
「この雑巾の腐った臭いは 何だ?」
一人の学生が答える。
「こぼしました。イソ酪酸です。」
「ドラフト中で作業しなかったのか?」
「いえ。ドラフト内でこぼしました。でもこぼしたのを拭いたキムタオルをゴミ箱に捨てたら….」
思わず『こいつ、脳味噌が腐ってやがる』と心の中で発災者の迂闊な学生に毒づく
「そういうものはビニール袋に入れてから廃棄しろや。臭いぞ。おえっ!」
言い方が、ひどくぞんざいになっている。臭さに頭がまわらない。適切な指示をすぐに出せていない。
「いや、臭いカルボン酸の付いた紙は捨てる前に炭酸ナトリウム水溶液に浸けて、塩にしてから、揮発性を極力無くしてからコンビニ袋に厳重に閉じ込めて捨てろ。」
「は〜い。ごめんなさい。」
彼は周りの学生からやいのやいの言われ、涙目になりながら、トラブル・シューティングしている。
「おい! コンビニ袋を縛るとき、膨らましておくな。空気を抜け。そんなパンパンにふくれた袋がゴミのなかで押されて破裂したら、一気に悪臭がまき散らされるだろう? そりゃあ悪臭時限爆弾だ。そんな危ないものを作るんじゃない。」
「ふぁい。 ( ; ^ ; )」
もう涙声だな。彼自身も悪臭に心折れているようだ。
発災者は周りの学生からもののしられ、罵詈雑言でボコボコにされている。本格的に心が折れてしまわないかと少し心配になる。
いつもは温厚な修士の先輩が、
「後はオレがやっておくから、お前はもう帰れ!」
と、発災者に怒鳴る。でも、この手の事故の発災者はパニクってしまうから、『要らんことしい』をして、しばしば被害を拡大してしまう。その意味で、この先輩の言い分は正しい。事故の後片付けは本人が行ってはならない。周りの者に頼るのは正しい。
でも、もう少し優しいことばで言えないものか?とも思う。
「おい、作業が終わったら、すぐに手を洗え! 臭いがとれなくなるぞ!」
発災者が慌てて流しで石けんで手を洗う。その後指先を鼻に近づけて…絶望的な顔をしているな。御愁傷様。 これは、2〜3日は強制的に反省を促されるな。
臭気は人を狂わせる。嗅いだ人の感情に直接的に働きかける。フェロモンのように正の方向に働きかけるものもある。一方で、このイソ酪酸のように負の感情を誘起するものも、間違いなくある。必ずしも全員ではないが、イソ酪酸は人をしてイライラさしめる臭気であろう。怖いのは、その作用をイライラしている人が意識しないことである。
臭い試薬の双璧といえば、チオール(メルカプタン)類とイソ酪酸であろう。異論は認める。
今の実験台は試薬が染み込まないメラミン加工の天板を使っている。この天板は対薬品製に優れている。一方で、熱に弱い。焼けたガラスなどを置くとプクッと膨れあがる。そのようなテーブルの上に試薬をこぼしても、臭いはほぼ染み付かない。今回のようなインシデントも小さな被害で済む。しかし、昭和の実験室の実験台はニスを塗っただけの木製であった。古い実験台ではニスも剥げていた。試薬が染み込むといつまでも、いつまでも、いついつまでも臭った。そのような実験台の上にイソ酪酸をこぼすと…悲惨だ。あのとき、研究室が荒れた。何が気に入らないのか分からないが、研究室のメンバーが大声で不平を言いあう状態が数週間続いた。発災者は気を病み、研究室を去った。
今の実験台の天板はメラミン加工なので、しみ込むことはあまりない。でも、実験台上ではなく、開けっ放しの引き出しの中の木材部分にこぼすと、もうダメだ。引き出しごと捨てるしかない。引き出しを引き出してエクストラの補助代にしてはいけない。
床にこぼした場合はもう少し深刻だ。継ぎ目のないリノリウム床なら何ともないが、樹脂タイルの場合、その継ぎ目にしみ込むといつまでも臭う。そして、リノリウムでもその洗浄除去時に実験台と床の隙間に洗液が入り込むと、手に負えなくなる。床にこぼした試薬の除去とその後の洗浄には気を使う。慎重に試薬を除去し、床掃除しなければならない。
視覚は目をつぶれば遮断できる。聴覚も耳を塞げば遮断できる。味覚は口に入れなければ感じない。でも嗅覚は息をするだけで暴力的に襲ってくる。口呼吸をしても、わずかに鼻に抜ける臭気は遮断できない。しかも臭気は人の本能的な部分に直接的に刺激する。人の感情をコントロールする。そして、イソ酪酸の臭気は人をいらだたせる。ラベンダーのアロマが人の心を落ち着かせるのに対して、イソ酪酸の臭気は人はイライラさせてしまう。
いかん。なんか私もイライラしてきたぞ。注意力散漫になって、高いガラス器具を壊されてもたまらん。健康被害の懸念は小さくても、ここは皆を早期に帰宅させた方が良いだろう。




