007-避難訓練 2 <ベンジルブロミド>
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学生には詳細なシナリオは知らされていなかった。しかし、地震発生のアナウンス後1~2分で避難をはじめなければいけないことはさすがにわかっていた。
3階の安野研究室で、片山は焦っていた。彼の後ろで同級生の内江は少しイライラしながら待機していた。
「おい、そろそろ避難だぜ。はようしーね。」
この『はようしーね。』は『早くしろ』という意味の方言だ。決して『早く死ね』の意味ではない。
「まだもう少しくらいは時間があるだろう?。器具を洗っておきたいんだよ。この訓練後に、もうひと反応仕込みたいんだ。」
安野研ではひとりで実験をすることは固く禁じられていた。そこで、片山の実験終了を内江は後ろで待っていた。その内江の存在が、さらに片山の焦りを招いた。
実験そのものは終わっていた。しかし、器具の洗浄が残っていた。ドラフト内の洗剤に浸けた器具を洗うために、片山は洗剤液に付けた器具を流しに持ち出した。そして、泡切れの良くなるように、お湯を使おうと片山は湯沸かし器のボタンに手を掛けた。洗面器の洗液に蛇口からお湯が流れ込んだ。その瞬間、器具に付着していたベンジルブロミドが揮発し、片山はそれを鼻から吸い込んでしまった。片山は目を押さえてうずくまった。その様子を見ていた内江は大慌てで片山のところに駆け寄った。
「目が!、目が!。」
「どうした。大丈夫か?。何が起きた?。」
「目が!、目をやられた。目が痛くて涙が止まらない。」
内江には、状況がわからなかった。どうしたらよいのか途方に暮れた。
地震発生のアナウンスの開始3分後、各部屋のスピーカーが指示を流し始めた。
「地震が収まりました。避難を始めてください。集合場所は1号館の玄関の前の芝生です。研究室の鍵は、今回は盗難防止のために掛けてください。」「避難する際に、部屋にけが人がいないか、取り残されていないかどうかを確認して下さい。もしけが人がいたら、工学部対策本部、内線2401番に連絡して下さい。避難にエレベーターは使用しないで下さい。くりかえします。…」
内江は電話機に飛びついた。天井のスピーカーからの指示は今彼の今一番求めている情報だった。すぐに、内線2401番を押した。呼び出し音がなった、1回2回…。しかし、10回なっても、2401番の電話には誰も出なかった。
「電話に誰もでんわ。」
内江は安野のいつもの親父ギャグをつぶやいた。
ベンジルブロミドは和名『臭化ベンジル』と呼ばれる。独特の嫌な匂いがあるので、それを使用する実験はドラフト(局所排気設備)下で行われる。使用後の器具は、洗剤液に付けたままドラフト内に一晩放置し、翌朝洗うのが普通だ。しかし、片山はケツカッチンで焦っていたため、実験後すぐに器具を洗うために、洗い場の湯沸かし器のところへ持ち出し、お湯を掛けて洗おうとした。これがインシデント発生の直接原因であった。
器具に付着していたベンジルブロミドはお湯で温められ、揮発した。そのガス化したベンジルブロミドは洗い桶の真上にあった片山の顔面を直撃した。彼は、そのガスを目に受け、鼻から吸い込んだ。片山は直撃したガスに思わず目を閉じた。カバのように鼻を閉じることができれば被害は少なかったのだろう。しかし、鼻は閉じられない。鼻から吸い込んだベンジルブロミドは涙腺から目に至り、目を強く刺激した。涙が止まらない。
♫ ♫ ♫ ♫ ♫
訓練開始の10分後、1号館の教員も学生もニコニコしながらお互いに楽しげに会話しながら、正面玄関から外に出てきた。さてさて、この緊張感のなさは、どうしたものだろうかと安野はため息をつきながら、チェックリストに『避難訓練参加者に緊張感なし、要改善。』と鉛筆で記載した。小学校で習ったはずの避難時の『おはしも(押さない、走らない、喋らない、戻らない)』も避難訓練実施要領に記載しておくべきだと思った。でも、『小学生の避難訓練でもあるまいし、大学生や大学院生にそこまで指示しなければならないのだろうか』とも思った。
芝生の上には工学部事務職員が勢揃いしていた。既に芝生の上に『工学部対策本部長』と書かれたのぼり旗が立っていた。学部長は、その旗のところへ駆け寄り、置かれている踏み台に上り、周りを見渡し、ぼそっとつぶやいた。
「緊張感が無いねえ。」
「そうですねえ。まあ、訓練ですし、こんなものでしょう。変に緊張して転倒したりする方が困りますけど。」
安野は返答した。避難訓練は実際の現場で過度に緊張し、パニックにならないための準備だ。訓練時に緊張し過ぎなのは好ましくない。でも、あまり緊張感のないのも困りものだ。柳田邦男のいう『フェーズ3』であることが好ましい。
学部長は一段高いところからおりて周囲の事務員に教職員と学生の状況を確認し始めた。
「対策本部長! 本部長はこの旗の下でどっしりと構えて、報告を受けて下さい。うろうろしてはいけません。」
安野は学部長の行動をとがめた。
「ハハ、石ころさんに怒られちゃった。」
学部長は少し首をすくめて、ニヤッとした。
♫ ♫ ♫ ♫ ♫
館内放送は『避難にエレベーターを使わないように』と連呼していた。内江は片山に肩を貸し、エレベーターで1階におりた。目の見えない片山に階段を使わせるのは危険だ。まず、1階の事務室によってみたが、誰もいなかった。みな、玄関前の芝生に移動しているようだ。
「片山よ。今から保健センターにいくぞ。歩けるか?。」
「何とか…。」
「目を開けられるか?」
「無理…」
二人は最短経路でひと気の無い建物の裏口から保健センターの方へヨロヨロと歩き出した。
一号館の裏口を出たあたりで、事務の森田さんが二人を見かけて声を掛けた。
「集合場所は正面玄関前だよ。」
「いえ、彼が負傷したので、保健センターへつれていくところです。」
森田はニヤッと笑ってからちゃかすように言った。
「またまた、安野研の学生さんだよね? 安野先生の仕込みかな? なかなか迫真の演技じゃないか。 役者じゃのう。」
内江はイラッとした。
「いえ、本当に実験中に目に痛みを感じて涙が止まらなくなったんですよ。」
「またまたサプライズだろ? って…本当かい? そりゃ一大事だ! わかった。いっしょに行こう。」
片山は森田さんと内江に両側から抱えられ、3人は保健センターへと歩きはじめた。




