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キャンパスでは「ご安全に!」  作者: リオン/片桐リシン
001-金曜日の塩化メチレン 全6話
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001-金曜日の塩化メチレン 1 <『塩メチ』じゃない!『塩化メチレン』だ!>

本章以下数章は、父の残した原稿をそのまま転載します。

 金曜4限の講義は学部2年生向けの『安全工学』の13回目であった。工学部1号館の2番教室には80人くらいの学生が参集していた。


 「うちの大学の排水は2系統あります。生活系排水と実験系排水です。生活系排水は浄化槽に集められ、浄化処理されてから総下水に流され、市の下水処理場に流れていきます。一方、実験系排水は各建物別に集められ、特に処理しません。キャンパスの水路と言うか小川にそのまま“そっと”流されます。雨水も同じです。だから、実験系排水には有害な物質を絶〜対に流してはいけません。

 といっても、有害なものが流されると困るので、毎週環境安全センターの技官の方が定期的に一時貯留槽の水質検査をします。だから、とにかく、何があっても有害な重金属や有機物を実験系排水に流してはいけません。特に水銀を含むものや塩化メチレンのような塩素系有機溶媒は厳禁です。」


 講義開始からすでに1時間近く過ぎていた。睡気のため学生の中には机に突っ伏す者も出はじめていた。応用化学科以外の学生には退屈な内容であろう。眠くなる気持ちは良くわかる。


 「資料の125ページの一覧表には排出基準がまとめてあります。ここで注意してほしいのは、pH(水素イオン濃度)です。アルカリを流してはいけません。酸を流してもだめです。流しても良い排水はpHは5から9の間です。ですから中和した排水なら流しても良いということにはなりません。はい。ここ大事です。

 例えば塩酸や硫酸などの強酸を炭酸ナトリウムのような弱塩基で中和した溶液のpHは5以下になることがあります。これは流してはいけません。中和ではなく、『中性化』しなければならないということです。ちなみに、県北には『中和神社』という名前の神社があります。」


 安野は講義を脱線させて、学生の注意を引こうとした。黒板に「中和神社」と書いた。

 「この神社はあの小惑星探査船で有名になりましたね。ただ読み方は「ちゅうわ」ではなく「ちゅうか」だそうです。私もうちの学生化学実験室のお守りにその神社のお札を貼ろうと思って、神社まで行ってみたのですが、社務所が近所の商店で、たまたま訪れた時に、その商店が閉まっていたので、お札はもらえませんでした。神社は小学校の校庭にあって、なんか入るのにはばかられました。」

 飽きている学生の注意を引くための脱線であったが、この話題は学生の食いつきが悪いなあ。と安野は思った。滑ってしまったようだ。


 教室の扉をコンコンと叩く音が聞こえた。ふと廊下をみると橋本君が立っていた。

 「それではここまでの内容を元に、今回の課題、『薬品の下水道への漏洩対策』をミニッツペーパーにまとめて下さい。」


 安野はそれだけ言うと、廊下へ出た。そこには橋本君が待っていた。

 「どうしました? 緊急事態ですか?」

 「はい。先ほど行なった実験系排水の検査で塩メチが出ました。」

 「また塩化メチレンですか…。」

 安野はげっそりとした顔をした。


 「わかりました。後20分で講義は終ります。終わったらすぐに戻りますので、私の部屋で待っていてもらえませんか?」



 15分ほどして、教卓の前の机にミニッツペーパーが乱暴に積みかさなった。安野はミニッツペーパーを手早くかき集めて、それをクリアファイルに入れ、わしづかみにして教室を離れた。


 ♫ ♫ ♫ ♫ ♫ 



 その後、安野の部屋で二人はコーヒーを飲んでいた。


 「ところで…化学物質名は略しちゃだめだよ。『塩メチ』はだめだ。『塩化メチレン』と呼びなさい。」

 「じゃあ…『メチクロ』で…」

 「アホか! 橋本君、オレを挑発してんのかい? 『メチクロ』じゃなく『メチレンジクロリド』だ!」


 この種の化学物質をローカルネームで短く呼ぶ習慣は、有機化学系の研究室でよく見られる。塩化メチレン以外にも、酢酸エチルを『酢エチ』と呼ぶことがある。一般に大量に使われる有機溶媒でこのようなローカル・ネームが使われるようだ。

 しかし、ヘキサンを略したりしない。どうやら4音以上で略称化されるようだ。ジエチルエーテルをエチルエーテルと略したり、単にエーテルと呼ぶのはIUPAC (International Union of Pure and Applied Chemistry)という化学で使う化合物名や用語を決める国際機関で『慣用名』として正式に認められている。だから許される。 テトラヒドロフランをTHFと略すのはアメリカ化学会の The Journal of Organic Chemistryで推奨されている。このような物質名のルールの緩さもローカルな略称を蔓延させる原因の一つではないかと思う。


 いずれにしても、ローカル・ネームは教育上も安全上も好ましくない。研究室のセミナーでそのような呼び方をする学生を、安野は厳しく叱りつける。しかし、安全でいつもお世話になっている橋本君を今ここで、怒鳴りつけるわけにはいかないので、安野は少しイライラしている。



 安野はローカル・ネームを厳しく戒め、糾弾している。その勢いはすこし厳しすぎると周囲の者に思わせるものであった。しかし、ローカル・ネームを使わせないという教育方針そのものは間違っていないので、その厳しい戒めを糾弾する同僚教員はいなかった。

 安野の専門は『有機フッ素化学』である。フッ素という元素を含む有機物の反応性を操り、有用な有機フッ素化合物を作り、その有用な物性や機能の使い方を研究する化学分野である。安野はその有機フッ素化合物の結晶の中に分子サイズのトンネル細孔を作り、その細孔機能を研究している。


 フッ素化学に関する分野ではこのローカル・ネームの使用により悲しく痛ましい事故が起きた。俗にいう『八王子市歯科医師フッ化水素酸誤塗布事故』である。

 これは、歯科医で子供の う歯防止のために塗布する『フッ化ナトリウム』を塗布するつもりで、『フッ化水素酸』を塗布してしまったために、起きてしまった医療死亡事故である。この事故の原因は試薬の誤発注・誤納入であった。歯科医助手は塗布用のフッ化ナトリウムのつもりで『フッ素』と発注し、納入業者はその『フッ素』を入れ歯などの加工用の『フッ化水素酸』と誤認し納品した。この事故により幼い命が奪われてしまった。フッ化ナトリウムを『フッ素』というローカル・ネームで呼んでいたことに起因した事故である。

 ローカル・ネームは『百害あって一利無し』というのが安野の主張である。


明日水曜日はお休みです。本作の次回更新は木曜日になります。


明日は『狭間の世界より』

https://ncode.syosetu.com/n8643jw/

の更新日です


前作に相当する安全工学の教科書『研究室では「ご安全に!」』(コロナ社)が専門書枠なのに増刷3版決定になりました。興味があれば立ち読み、ご購入ください。

https://www.coronasha.co.jp/np/isbn/9784339078169/


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