006—ハトとカラス 1 <ハト>
「先生!ハトです。」
学生の報告に安野は首を傾げた。
「ハトがどうした?そこにいるぞ?」
中庭の木の枝には「クルッポ?」と鳴いているハトがいた。
「違うんです。ベランダのボンベ庫にハトが巣を造っています。」
3階の実験室のベランダには室外ボンベ庫設置されている。そこには水素ガスなどのボンベがおかれている。室外ボンベ庫は薄い鉄板作りで、床に5cmくらいの隙間があいている。その室外ボンベ庫の床に、ハトが木切れやビニールテープで巣を作っていた。その中にはうす青色の卵が2つ鎮座していた。
「おやまあ。」
私はため息をついた。
少し離れた木の枝に、2匹のハトが心配そうにこちらを伺っていた。
害がなければ、放置したい。でも、ハトは糞をする。それはボンベを錆びさせてしまう。それにより、水素ボンベやもっとヤバイ一酸化炭素ガスボンベの中身の漏洩、最悪はガス爆発の怖れもある。
「さて、どうするべぇ?」
私は肩を落とし、ため息をついた。そして、電話した。
「もしもし、工学部の安野です。安全衛生部ですか?橋本さんをお願いします。」
しばらくして
「もしもし、橋本です。先生、どうしました?」
「あっ、橋本さん、今、電話、大丈夫ですか? いやねえ、ボンベ庫にハトが巣を作っちまって。どうしたものかなあと相談したくて電話しました。」
「ボンベ庫、というとあのベランダの?」
「はい、そうです。」
「中には何を入れています?」
「水素ボンベ2本です。47L1本と5L1本ですね。それと一酸化炭素5Lが1本です。」
「うわ〜。ヤバいですね。」
「うん、ハトの糞でボンベが腐食するとすごくヤバいですわ。」
「巣を撤去してください」
「撤去しても良いの?」
電話の向こうで橋本さんは少し考えてから、
「今から見に行きます。」
橋本さんは巣を見るなり頭を抱えた。
「うわー!」
私は橋本さんに問うた。
「鳥獣保護法?」
「先生、ヒナや卵があれば、引っかかります。」
「うわー!」
私も頭を抱えた。
しばらく二人は頭を抱えていた。私は立ち上がり巣をびしっと指差し、宣言した。
「橋本さん。あれは《小石》です。小さな青みがかった小石です。」
「へっ?」
「ヒナや卵のない巣は撤去しても無問題ですよね。」
「そうですが、あれはたまご…」
「小石です!」
私は大きな声をかぶせた。でも、強弁するには無理がある。それは分かっている。でもボンベ事故を避けるための緊急避難だ。《小石》だと言い張るしかない。
「先生、『私は何も見なかった、何も聞いていなかった』でよろしいでしょうか?」
「え〜?共犯者になってくれないの? まあ、公務員の無謬性については理解しているけど。では私は勝手に巣と《小石》を撤去します。」
そして、後ろに振り向くと、学生に声をかけた。
「おーい、誰か。レジ袋とホウキとチリトリ、それから白衣を着てホコリを吸わないようにマスクをしてきてくれないか。」
先ほどから私と橋本さんのやり取りを後ろで聞いていた学生さんが準備をしてくれた。
「先生、この小石のようなものはたまごでは…」
「小石です!」
再度私は大きな声をかぶせて、学生の発言を封殺した。巣と《小石》はレジ袋の中にはき入れられ、口が堅く閉じられ、燃えるゴミの大袋に入れられた。
少し離れた木の枝にいた、2匹のハトはいつの間にか消えていた。
「ごめんなあ。でも、やむをえなかったんだ。」
安野は小さな声でつぶやいた。
安野が学生時代に、同じ学部の研究室の古い塩素ボンベの漏洩事故があった。関連するかどうかわからないが、近くの神社の木が何本も枯れた。神社の木が枯れたことは地方版のニュースになった。しかし、昭和のおおらかさからか、塩素漏洩は表沙汰にならず、木が枯れた事件は「原因不明」とされた。平成の今では考えられないことだ。
1時間後。
「もしもし、工学部の安野です。安全衛生部ですか?橋本さんをお願いします。」
「もしもし、橋本です。先生、石と巣の撤去は終わりました?」
「はい、燃えるゴミで良いですよね。」
「石は燃えませんけどね」
橋本さんも言うねえ。
「うんと、それでですね。ハトの忌避剤を買ってくれませんか。それと他所の研究室のボンベ庫でも同じことが起きていると思います。関連研究室に注意喚起をお願いします。ハトの悲劇と我々の精神衛生のために、巣を作らせないようにする必要があります。」
「わかりました。すぐに手配します。」
その半年後、ボンベ庫の設置されているベランダは、黒い網で覆われた。それ以降、ハトの巣作りの報告はなくなった。