005—停電と液体窒素 1 <エレベーター>
夕方から空模様が怪しくなってきた。これはひと雨来るかもしれない。遠くで雷のゴロゴロという放電音が聞こえる。だんだん近づいてくる。
映画『ジョーズ』でも、突然サメが襲いかかってくるよりも、あの音楽にのってサメがだんだん近づいてくる状況に恐怖を覚える。だんだんと暗くなる空は、雷雲の接近を示す。
「おーい! 雷が近いぞ。外に出るのは控えろ〜。エレベーターは使うな〜。雷が落ちるかもしれんぞ〜。停電するぞ〜。」
まだ安野の学生への注意・警告の声はのんびりしたものだ。
自分はしょっちゅう雷を落とすくせに、安野は雷が嫌いだ。一部の学生は、その安野の声を聞いて苦笑している。と思った瞬間、窓の外に閃光が走った。ほぼ同時に落雷の轟音が響いた。
「キタッ!」
「近いぞ?!」
学生が騒ぐ。その次の瞬間、部屋の蛍光灯が消えた。
「消えたっ! 停電だ!」
瞬停(瞬間停電)ではなく、かなり真面目な停電のようだ。やれやれ。
空が暗雲に覆われているため、まだ昼間だというのに部屋はうす暗い。
「使っていない機器の電源を落とせ。再通電に備えろ。真空ポンプのオイルの逆流はないか? 真空系を解放しろ。加熱器具を一旦落とせ。」
停電時の注意事項はそのくらいかな? 機器のスイッチONの状態では再通電時に電源設備に大きな負荷をかける。加熱器具などは止めて、再通電時の過負荷に備える。
「エレベーターも止まっていると思うが、誰か乗っていないか。」
「先輩がデュワー瓶をもって液体窒素を汲みに行ってます。」
「なにぃ!?」
安野の顔から一瞬で血の気が引いた。立ち上がると、邪魔になっている椅子を蹴飛ばして駆け出した。部屋が暗くなっているので足元が危ない。
安野は実験室のある6階から、非常灯の緑の灯りを頼りに階段を駆け下り、各階を順番にエレベーターの外扉を叩いてまわった。
「お〜い! 誰か居るか。」
3階の扉を叩いた時に、
「先生、暗いです。怖いですぅ。」
と返事が返ってきた。
「液体窒素は?」
「汲みに行こうとしたところです。」
「デュワー瓶は空なんだな。」
「はい。」
良かった。液体窒素の気化による窒息の恐れはなさそうだ。
マイナス196℃の液体窒素は寒剤として化学実験でよく使われる。彼の持ち出した10Lのデュワー瓶、つまり液体窒素汲み出し用の真空魔法瓶は、きっちり蓋のできない構造になっている。きっちり蓋をすると、瓶の中の液体窒素の気化による内圧上昇で破裂するおそれがあり危険である。このデュワー瓶内の液体窒素は静置した状態で、48時間くらいかけて気化していく。
空のデュワー瓶で本当に良かった。汲み出した直後の10Lのデュワー瓶の中の液体窒素はおおよそ7Kg、窒素の分子量は28なので、250mol量だ。モル(mol)という単位については高校の化学教科書に記載されている。これが気化すると標準状態で5600Lの窒素ガスになる。結構な量だ。エレベーターの内容量はおおよそ15000L。空気中の酸素濃度は20%だ。ここで7Kgの液体窒素が気化すると、酸素濃度が15%にまで下がってしまう。元々の空気の酸素濃度20%から15%に下がる程度3/4程度なら危険はないと思うかもしれない。しかし、そこまで酸素濃度が下がると、集中力の低下や脱力感などの身体症状が現れる。
酸欠は怖い。意識を刈り取る。意識を急激に失い動けなくなる。安野も学生時代に核磁気共鳴装置の超伝導マグネットの液体ヘリウム充填作業中に、気化して放出されるヘリウムを吸い込んで喋ると音程が高くなるという遊びをした時に、気を失った。ボイスチェンジ用の市販のヘリウムガスは酸素を入れてあるので、酸欠にならない。しかし、超伝導磁石から放出されたヘリウムガスは高純度であったため、一息吸っただけで酸欠になってしまった。安野は作業台から転がり落ち、背中を強く打ち付けて息を吹き返した。でも、銭湯でオシリに大きな青あざがついていることを見つけたときは…恥ずかしかった。
そして、本当に怖いのは、真っ暗なエレベーター内であわててそのようなデュワー瓶を倒してしまうことだ。急激な酸素濃度の低下も恐ろしいけど、液体窒素がズボンなどの衣類にかかってしまい皮膚に触れると深い凍傷をおこす。
安野も学生時代にワイシャツの袖に液体窒素を掛けてしまい、その液体窒素が衣服を伝い袖口に集まり、手首に島帰りの入れ墨のような黒色の環状の凍傷を作ったことがある。その凍傷は深く、一部はケロイドになり皮膚の皺が消え、30年以上もその跡が白く残っている。
デュワー瓶が空であったことは、本当に、本当に良かった。不幸中の幸いであった。
停電はかなり広域のものであったらしく、復旧までに20分かかった。電気を電力会社から直接買っている場合、停電は電力会社の復電と同時に解消する。しかし、大学によっては独自のコジェネなどによる電気システムを持っている場合がある。その場合は、地域の停電が復旧した後も数時間以上停電が継続する場合がある。もっとも、そのような給電システムでは、多くの場合非常用電源によりエレベーターはしばらくの間稼働する。
翌日、液体窒素を汲みにいく時にエレベーターを使ってはいけない。液体窒素と人間が同乗しては絶対にいけないことを、徹底的に『指導した』ことは言うまでもない。