004−モレキュラー・シーブのの再生 2 <MSDSの不備>
臭いの原因は『有機溶媒を乾燥させたモレキュラーシーブの加温乾燥』であった。揮発した有機溶媒が乾燥機の高温の電熱線に触れて分解し、その分解物が臭ったと推察された。
このとき再生されていたモレキュラーシーブにはN,N-ジメチルホルムアミドが付着していた。N,N-ジメチルホルムアミド、有機化学の世界ではDMFと略称することの許されている有機溶媒は、極性のある非プロトン性の溶媒として有機合成に多用される。しかし、極性が高いために開封後は、蓋をしっかりとしていても、徐々に空気中の湿気、水分を溶媒中に吸収しやすい。そこで、脱水剤である、モレキュラーシーブという多孔質の粘土を焼き固めたものを瓶の中に入れて脱水し乾燥状態を維持させる。そのモレキュラーシーブ3Aには直径3Å(オングストローム:水分子ぎりぎりの大きさ)の穴があいており、水分子を取り込んで離さない。
ある学生がこのモレキュラーシーブを再生利用することを企み、ネットの製造元の試薬屋さんホームページの記載通りに恒温温風乾燥器に入れて140℃で乾かそうとした。しかし、そのホームページの記載は、『一般的な再生法』であり、DMFを乾燥した後のモレキュラーシーブの再生に特化した方法ではなかった。
ここから先は推測であるが、モレキュラーシーブから気化したDMFは、高温になっている温風乾燥器の電熱線ヒーターに触れて分解したのだろう。DMFは高温で分解すると、一酸化窒素(NO)と一酸化炭素(CO)を発生する。安野の感知した臭いは窒素酸化物であったと思われる。一酸化窒素は一般に無臭とされている。しかし、全く臭わないモノではない。また、比較的容易に二酸化窒素(NO2)に酸化される。これらの有害性のあるガスは感知できる人と、感知できない人がいる。もしかしたら安野は一酸化炭素も感知していたのかもしれない。しかし、安野は一酸化炭素を意識して嗅いだことが無い。だから、嗅いだにおいの中に一酸化炭素が含まれていたかどうかはわからない。
このインシデントは2つの問題を顕在化させた。
一つ目は臭いに対する個人の感受性の違いである。安野と一人の学生はこの『異臭』に気がついたが、残りの学生は全く気がつかなかった。これはおそらく臭いに対する個人の感度の違いによると思われる。
名探偵コナンをはじめ、多くの推理小説によく出てくる『青酸ガス』は確かにアーモンド臭だ。しかし、『その臭いを感じたらその時点で致命的である』とも言われる。昔、安野が青酸ガスのアーモンド臭を感じたとき、他の近くの学生はその臭いを感知できなかった。つまり、世の中には青酸ガスを死なずに検知できる者と、検知した時には手遅れになっている者がいるということだ。
昭和の前半、まだドラフトなどの局所排気設備の能力の低かった時代、青酸ガスの発生する怖れのある化学実験では、その実験現場のそばにチェーン・スモーカーを配していたそうだ。青酸ガスが漏れ出ると、タバコの味が極端に変化するので、カナリヤ代わりにチェーン・スモーカーが必要だった、と安野の父親の世代の先生から聞いた。本当かな? 実験室でタバコを吸うための言い訳のような気もする。
二つ目は試薬会社がネットに公開していたモレキュラー・シーブ再生マニュアルの『ある意味の不備』である。確かに、記載の手順でモレキュラー・シーブを再生できる。しかし、その手順による吸着されている有機溶媒の分解はに配慮していない。 残念だ。そこまで配慮しろというのは酷であろうか?
以前、アメリカ化学会のC&E Newsにトリホスゲン(CCl3O-CO-OCCl3)という化学物質のMSDSに対するクレームが記載されていた。トリホスゲンそのものは揮発性に乏しい化学物質である。しかし、水に触れたり常温で長期間保存すると分解して毒ガスのホスゲン(Cl-CO-Cl)を発生する。しかし、この化合物のMSDSには水との反応で毒ガスが発生するとの記載が無い、とのクレームであった。その分解物についてまで注意喚起をするべきだろうか? 使用側からすれば、ぜひ配慮してほしい。
トラブルの感知から1時間後、換気の終わった部屋の中で、安野はコーヒーを飲んでいた。そして、安野はヒヤリハット報告書を作成し、それをモレキュラーシーブの再生法をネットで公開している2つの試薬会社の営業部にメールの添付文章として送付した。
試薬会社の対応は誠実であった。K社は1週間後にアポをとり、大学へやって来た。30分ほどの建設的なディスカッションが行われた。 遠地に本社を構えるN社はメールで返答して来た。「より安全に使用していただくため、注釈の記載について社内検討いたします。」とのことであった。




