00-プロローグ 2 <父の異能>
父、全一は「晴れ男」です。大雨のときも父の外出時は小雨になりました。おばあちゃんも晴れ女だそうです。だから,霧雨や小雨で父は傘をさしませんでした。それを母に叱られていました。
「濡れたら風邪を引くでしょ」「雨に濡れるとジャンパーが臭くなるでしょ」
…よく叱られていました。
父、全一は天気をよく当てます。天気予報よりも正確だったかもしれません。これについては:
「中学生の時に1年間、ラジオのNHK第2放送の気象通報を聞きながら、気象台で買ってきた用紙に天気図を描きながら、空を観察していたからだよ。 そういうトレーニングをしていると、だんだん明日の天気が分かるようになってくる。」
と言っていました。本当かなあ?
最近は、ネットで地震の発生状況を調べて、記録しています。地震予知でもするつもりかなあ?
とにかく、父の『予知能力』は後天的に獲得したのだそうです。
父、全一の『嫌な予感』はそこそこ当たりました。『危険な香り・匂い』を感じるそうです。父の母方の祖父、おばあちゃんのお父さんはお医者様だったそうです、そして、そのような『わかる』人だったそうです。1945年に祖母一家は、曾祖父の
「嫌な予感がする」
という根拠で、2週間前に広島から西条に引っ越して被曝を逃れたそうです。でも、お医者さんだった曾祖父は、救護活動の入市被爆で若くして亡くなったそうです。
父,全一は研究室でもしばしば
「嫌な予感がする」
と発言し、学生さんたちにうさんくさがられていたそうです。でも、『何が起こるか、いつ起こるか』はわからないので、事故防止の役に立ちません。学生を不安がらせているだけでした。
本人いわく:
「嫌な予感は、それが当たって事故防止できれば『はずれ』になる。そんでもって『当たった』ってことは事故防止できていないから、役立たずだ。」
と、申していました。
父、全一によると:
「大学で安全に携わっている先生は、多かれ少なかれそのような力を持っているみたいだよ?」
だそうです。
「夜間、(大学で)ボヤが起こる日に、勤務後も帰宅せずにボケーッと訳もなく待機している先生を何人か知っている。」
そうです。でも、それをお互いに指摘したり、話題に出すことはないそうです。
「大学の先生は、そのような『未科学的』な能力を否定してはいけない。しかし、社会的な立場上、それを表立って肯定してはいけない。」
だそうです。父はしばしば、『非科学的』と言わず『未科学的』ということばを使っていました。
「完全に否定できる非科学的なことと、まだ否定されていない未科学的なことをミソクソにしてはいけない。ものごとは◯と×だけではない。△にしておく勇気も必要だ。さもなければ『常識』に囚われてしまう。」
ということばは、何回も、いや何十回も聞かされてきました。耳にタコです。父の教えは押し付けがましく、同じエピソードを何回も繰り返します。そして、やたらと長い。鬱陶しい。例え有益な教えでも、聞かされる者には苦痛でした。
父の父、私の祖父も有機化学者でした。私も博士課程へ進んで、「自分は大学の先生になるのかなあ」、と漠然と考えていました。でも、父は私の博士後期課程進学を許してくれませんでした。
「カエルの子はカエルになるのかなあ。」
とつぶやいた時に、父は
「おこがましいわ!オタマジャクシのくせに。」
と返されてしまいました。私がその評価にふくれていると、
「リオンは要領が良すぎる。大学の教員には向いていない。泥臭い努力を避ける傾向がある。要領よく生きようとする者は大学教員には向いていない。」
と追い打ちを掛けられました。グウの音も出ません。でも、これは無茶な言い分です。手近にこんな父がいればそれを利用しない手はありません。それに祖父や父の保有していた専門書も魅力的です。あれだけの書籍や資料が手元にあれば、私でも化学者としてやっていけそうな気がしたものです。
世間には二代続けて有機化学者になっている親子の例は多いそうです。中には父親の研究室で博士号を取った方もいらっしゃるそうです。要領が良いと言う理由で「向いていない」とされることは、もしかしたらそのとおりなのかもしれないけども、感情的に認めたくありません。
父、全一は研究を「真っ暗な煙突の中をひらすら登るようなもの」と例えます。
「研究はね、真っ暗な出口の見えない煙突を、ただひたすら登り続けるようなものだよ。先は見えない。本当に出口があるのかどうかも分からない。真っ暗で先が見えない。登り切ってもどん詰まりかもしれないという絶望への恐怖を覚える。息苦しい。真っ暗だから登っているうちにどっちが上か下かも分からなくなる。自分が本当に登っているのか、落ちているのかも分からなくなってくる。手を離せば、つまり、その研究をあきらめれば楽になると言う誘惑も襲ってくる。それでもその煙突を登り続ける、そういうものだ。」
父はさらに続けます。
「でもね、ある日突然にその煙突のテッペンに出るんだ。そこからはい出して周りを見ると、今まで自分がどこにいて、どれだけ登ってきたのか、そして、その周りに広がる美しいこの世界のことわりを俯瞰できるんだ。 その煙突は高ければ高いほど、見渡せる世界は広く、そして美しい。その感動は味わったものしか、苦労を克服した者にしか分からない。」
と遠い目をして父は少し涙ぐみながらそのような話しをしてくれました。でも、そんな苦行は嫌だなあ。
父は学部4年生から修士1年の秋までの1年半の間、そのような苦しい時間を過ごしたそうです。精神的に病みかけたそうです。私は、そのような苦労をしたくありません。できれば煙突のドテッ腹に穴をあけて、そこから外に出たいですね。出口が見えない、あるのかどうかも分からない煙突をひたすら登るような苦行はしたくありません。
父の高校時代の同級生はそのような成果の出ない煙突上りを博士後期課程1年生まで、3年以上も行い、成果の出ないままに博士課程へ進学したそうです。チャレンジャーですね。しかし、その後、大きな成果を勝ち取ったそうです。今や押しも押されもせぬ大先生です。父は手元にあるその大先生の修士2年のときの年賀状を見せてくれたことがあります。そこには年賀のことばではなく,『お元気そうで何よりです。こちらは先が見えません』と、その大先生の苦しかった日々の心情を吐露していました。
ところで、そんな昔の年賀状をどうして残していたのだろう? 父曰く
「彼の年賀状には価値が出ると思ったのだよ。」
と、にやりと笑いました。
ここまで書いた文章を見直すと、読む人によっては、私がファザコンであると思われるかもしれません。しかし、声を大にして言いたい、
「そんなことはない!
そんなことはないと思う。
たぶん、そんなことは…」
次回から新章です。
明日更新の予定です。




