003—マツカレハ 3 <ケムタンの独り言>
僕はケムタン。ある日話しかけて来た人間のおじさんがそう呼んでいる。
僕は杉の樹のおじいさんのてっぺんの方で仲間達と一緒に生まれた。ここはいやな臭いも無いし、なぜか鳥も襲ってこない。僕たちはひたすら葉っぱを食べて大きくなった。杉のおじいさんの下の方の葉っぱもおいしそうだけど、ある高さよりも下はとてもいやな臭いがする。だから下には降りられない。おじいさんに捕まっている、閉じ込められている、ということだろうか。
人間のおじさんは若い頃に沢山の虫、特にチョウチョウをを殺したそうだ。僕と会話できるのはその殺された虫達の呪いだそうだ。人間は会話できる生き物を殺すことを躊躇するようだ。おじさんは若い頃、遊び…昆虫標本作りで虫を沢山殺し、殺した虫の呪いで虫と会話できるようになり、虫を殺せなくなったそうだ。
人間のおじさんは、杉のおじいちゃんが僕たちを守ってくれることを不思議がっていた。
「生き物は互いに奪い合って食い合って殺しあって生き延びるものだ。」
と言っていた。だから自分の葉っぱを食べる僕たちマツカレハを杉のおじいちゃんが見逃し、それどころか天敵の鳥から守ってくれることは、おかしなことだ、と言っていた。
ある日、人間のおじさんは、近々、殺虫剤が撒かれ僕たちが殺されることを警告して来た。人間は杉の葉っぱを食べる僕たちを害虫と見なすのだそうだ。
「僕たちは人間に悪さをしていないのに。なぜ殺そうとするの?」
「…目障りだからかなぁ。お前さん達も、お前さん達に葉っぱを食われて禿げちょろけた杉の木も。」
おじさんは、それでも僕たちに同情したのか、この杉の樹から脱出することを僕たちに提案した。
でも、僕たちは杉のおじいちゃんが下の方の葉っぱから出すいやな臭いが苦しくて、この杉の樹の下に降りることができない。飛び降りれば下の石畳に体を打ち付けてしまい、ちゃんとした成虫になれなくなるかもしれない。
それに地面に降りてしまうと、鳥に補食されてしまう。他の樹に移ったとしても、その樹が葉っぱを食べる僕たちを受け入れてくれるとは考えられない。いやな臭いで追い払われてしまう。…でも、それならばなぜ、この杉のおじいちゃんが僕たちを受け入れてくれているのか、ますますわからない。
僕たちの間では喧々諤々の議論が繰り返され、無為に時間が過ぎていった。
「この楽園を捨てることなんてできないよ!」
「だいたい、あの人間の言うことが信用できるのか?」「本当に毒がまかれるのか?」
大勢はこの樹に留まる派であった。
あの人間のおじちゃんはある夏の暑い日からここへ来なくなった。
そして、僕たちは運命の日(Doomsday)を迎えた。
「こしゅーこしゅー」という金属の擦れる音、手動ポンプを押す音とともに、毒は霧になって襲いかかって来た。
その霧に触れると、体は動かなくなり、意識が削り取られていく。
僕は樹の枝に掴まっていることができなくなり、下の石畳の上に落ちた。でも、もう、痛みは感じなかった。そこにはもう動かなくなった妹も落ちていた。
薄れ行く意識の中で僕はつぶやいた。
「さよなら、杉のおじいちゃん。残念なことになっちゃったけど、これまでありがとう。感謝しています。さよなら、人間のおじちゃん。警告を活かせなかったよ。」
視界が暗転し、世界は沈黙した。




