003—マツカレハ 1 <ケムタン>
少し毛色の違う章です。
「安野先生、困っちゃったんですが…」
研究室の私のデスクの横に実験室の丸椅子を持ちこみそれに勝手に腰掛けてから、橋本君は眉をハの字にして、そう切り出した。今日もアポ無しで突撃してきた。どうぞと勧める前に椅子に座るのはいかがなものか。最近、私に対する彼の対応は雑になってきているのではないかなぁ。
午後いち、3限の講義の準備にこの2限の時間帯を充てるつもりだったわたしは橋本君の態度に少しイラッとした。でも、その感情をあえて抑える。大人の対応だ。
「どうしたの?」
できるだけ柔らかな口調で彼の話の続きを促した。表情や口調は柔らかくても私の目は笑っていないと思う。
「先生、マツケムシの大発生です。」
「マツケムシ!?」
私はゾッとした。小学生の頃に誤って毛虫を触ってかぶれた。それ以来、私は毛虫を苦手としている。トゲトゲとした毛虫を見るだけで、いや、『ケムシ』ということばを聞くだけで怖気をふるう。床に落ちている「試験管ブラシ」でも、視界に入るとビクッと反応してしまうほどだ。
アゲハの幼虫のイモムシは許せる。たとえ7~8 cmほどの大きさでもイモムシならば許せる。大きくても緑色でもイモムシは許せる。一方で、数mmの生まれたての黒くゴツゴツとした小さな幼虫は、毛虫を連想させるそのフォルムゆえに、…許せない。初夏に薄紫色のフジの花を愛でたいと思うけども、藤棚からしばしば降ってくるケムシゆえに近よれない。正直言って、ケムシと聞くだけで、震える。その動揺する自分を橋本君に気取られないように下っ腹に気合いを入れる。
「先生? どうしました? あの、マツケムシの件ですが…。」
「….」
折れそうな心に喝を入れる。耐えろ、耐えるんだ。
「先生? 大丈夫ですか? マツケムシのはなしを続けて良いですか?」
「….」
おそらく私の顔は少し青ざめているのだろう。
「先生、マツケムシの大発生ですが…」
もういやだ。限界だ。この話しを打ち切りたい。橋本君の口元は少し緩み、ニヤッと笑っている様に見える。こいつ、私の毛虫嫌いを察知した上でわざわざ『ケムシ』って言ってやがんだろうか? イヤな奴だ。奴の眉毛すら毛虫に見えてくる。
「それで? マツカレハがどうしたって?」
私は修正するように、わざわざ別名、というかその虫種の和名でその虫の名を呼んだ。
「はい、マツケムシなのですけども…」
ついに私は自分のデスクに突っ伏して撃沈した。
「なあなあ、あのなあ、橋本君、なんか、オレ、君に悪いことしたかなあ?」
「はいしょっちゅう…」
「ゴメン。謝るから、『ケムシ』っていうの、いい加減にやめてくんない?]
「でも先生、マツカレハという呼び方では幼虫か蛾になった後の成虫か分かりにくいですよね。今回問題なのは幼虫なので、マツケムシの方がわかり易いと思いますけど…。」
橋本君よォ! ドヤ顔で取って付けたような理由を言うな!
「わかった。そのケムタンはどこで大発生したの?」
「ケムタン? ああ、なるほど。 …ケムタンねえ。」
くすくすと笑いながら橋本君ははなしを続ける。
「ケムタンの大発生は食堂前のグリーンベルトのヒマラヤ杉です。」
頭の中の地図で4本のヒマラヤ杉のありかを確認する。あそこかぁ。もう食堂に行けないじゃないかぁ。
「他の樹、隣のケヤキには発生していないの?」
「はい、あそこの4本だけです。」
まあ、マツカレハは針葉樹=杉の葉を好む。広葉樹には発生しにくいはずだ。
「グリーンベルトの松の木は?」
「無事です。」
「理学部の裏手のヒマラヤ杉は?」
「あそこにも発生していないようです。」
それはおかしいなあ。基本的に杉の木はフィトンチットという天然の虫の忌避剤で、ケムタンの大発生を防いでいるはずだ。
「ケムタンは…、上から落ちてきた?」
「はぃっ?」
「いや、ケムタンはヒマラヤ杉から下に落ちてくるの?」
「いや、それはないようです。樹のテッペンの方だけにいます。樹の上2割くらいがきれいに食われています。だんだん下の方に広がって来ています。まだ下の方の枝にはいません。だから、まだ学生さんは気がついてないと思います。」
「普通は木の中ほどに取りつくはずだよね。木のテッペンに取りつくって、普通じゃないよな。わざわざ鳥につつかれようとしているみたいだ。」
「そうですね。几帳面なケムタンなんでしょう。」
私は苦笑いするしかなかった。
「橋本君はそのケムタンの大発生をどうやって知ったの?」
「はい。マツケムシの発生は…」
私は橋本君を睨みつけた。
「もう1回『ケムシ』って言ったら、もう相談に乗ってやんない!」
「…失礼しました、ケムタンの発生は、剪定の作業の業者さんから知らされました。ヒマラヤ杉のテッペンがハゲチョロケています。今のところテッペンから50 cmくらいの葉が食い尽くされ枝だけになってます。それで、剪定作業は中断しています。まず一度現場を見て下さい。」
「いやだ! 現場に行きたくない! 見たくない!」
私は橋本君に現場まで引きずられて行った。樹のそばには寄らずに少し離れたところからヒマラヤ杉を眺めた。遠すぎてここからはケムタンを目視・視認できない。よかった。たすかった。樹下の石畳にも特段の汚れは見えない。でも、これ以上樹に近づきたくない。
「確かに上の方の葉がなくなっているねえ。」
「でしょぉ?」
「下には落ちてきていないようだねえ。」
「それ、ほんとうに幸いです。」
樹の上から毛虫が落ちてくれば、人通りの多いグリーンベルト下の石畳やベンチに、踏みつぶされたケムタンの遺体と緑色の体液が張り付いていることであろう。見た目も悪いし、私だけではなく女子学生も悲鳴を上げるだろう。…あげるよね?
「で、橋本君。どうするの?」
「えーと、殺虫剤を撒いて駆除、…しかないですかねえ。」
「あんな高いとこに殺虫剤を撒くのは骨だよな。」
「そうですね。」
「それに、薬剤が広く周囲に撒き散るな。」
「そうですねえ。」
橋本君は作業の大変さを想像して、肩を落とし、くらい表情になる。
「駆除すると、ぽとぽと落ちてくるよねえ…。」
「間違いなく、落ちてきます。」
「…いつやるの?」
「前期試験が終わって、学生さんが減るころですかねえ。8月のオープンキャンパスの前でしょうねえ。」
私はその頃に有給を取ろうと心に決めた。
「まだ2か月くらいあるなぁ。樹は大丈夫?」
「そうですねえ。葉はさらに食べられてしまうと思います。」
「だよなあ。」
「ですよねぇ。」
私と橋本君は深くため息をついた。
「ところで殺虫剤は何を使う予定なん?」
「リン酸系の殺虫剤が倉庫に残っているので、あの系統でしょうか。」
「リン酸系ねえ。フェニトロチオンかな? 周囲への影響は気になるねえ。」
「影響といいうと?」
「ほら、リン酸系は虫だけでなくほ乳類や鳥類にも悪影響があるだろう? それに樹や植物にも若干の影響があるだろう?
「へえ〜」
「『へえ〜』じゃ無くて、使用上の注意をよく読んでおけよな。よく効く農薬はほ乳類の毒になるんだよ。」
サリンやソマンやタブンなどのアセチルコリンエステラーゼ阻害剤=神経毒はみなリン酸系の殺虫剤に少し似た分子構造を持つ。
「ふむふむ。」
「10年ほど前に地下鉄で多くの人を殺傷したサリンは、もともと殺虫剤の開発研究中にできたものだよ。」
「フッ、ソゥですか。」
「駄洒落かよ。ソマンやタブンも同じような経緯で開発された毒ガスだよ。」
「意にソマンかったんで、使い方をシアンしたわけですね。」
「その駄洒落は苦しいし、不謹慎だぞ。」
こいつは関西港大学工学部の応用化学科の出身だった。生粋の関西人だ。 漫才をしている場合でもない。
「あと、理学部と農学部に確認した方が良い。」
「というと?」
「蚕なんかの虫を飼っていると、もろ影響を受けるぞ。」
「飼っている虫がそんなに簡単に死にますかねえ?。」
「小学生の頃、玄関で蚕を飼ったんだけどね、居間でたいた蚊取り線香で全滅したぞ。」
「先生、ケムタンはこわいくせに蚕は大丈夫なんですか?。」
「イモタンは刺さないからなあ。」
「私にはケムタンもイモタンも同じようなもんですが…。」
「…あとは任せたよ。」
私はグリーンベルトの休憩所から一目散に研究室へと逃げ帰った。
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