第4話「明日への一歩」
夜が明けた温泉街に、早朝の湯けむりが立ち昇っていた。
「本気なのですね」
宿の一室で、ライアンがアイリスに向かって話しかける。
机の上には、昨夜から書き続けた企画書の束が積まれている。
(父上への説明には、これくらいの準備が必要でしょう)
アイリスは黙って頷きながら、さらにペンを走らせる。
温泉街再建の具体的な計画、予算、人員配置、種族間の調整まで。
戦場で培った采配の才が、今は違う形で活きていた。
「王都の反応は、相当厳しいものになると思います」
ライアンの声には懸念が滲む。
「特に重臣たちは...」
「分かっています」
アイリスは顔を上げ、静かに告げた。
「でも、この決断には意味があるはず」
(だって、そうでしょう?)
王族である自分が温泉街の再建を志すことで、
この地への注目も集まる。
それは単なる一温泉街の復興以上の意味を持つ。
「おや、もうお目覚めでしたか」
部屋の窓の外から、エルシアの声が聞こえる。
早朝の薬草摘みの途中らしく、籠を手に立っていた。
「エルシアさん、ご相談があります」
アイリスは窓際まで歩み寄る。
「街の人々に、私の決意を伝えたい」
「まあ」
エルシアの目が細くなる。
「随分と早い決断ですね」
「はい。噂だけが独り歩きするより、
私から直接、想いを伝えたいのです」
街の人々の不安や懸念は当然あるだろう。
元・無敵王女が突然、温泉街の再建を志す。
しかも、種族共生を前提として。
(だからこそ、私の言葉で)
「では、市場の広場はいかがでしょう」
エルシアが提案する。
「今日は市の立つ日。様々な種族が集まります」
アイリスは一瞬考え、すぐに頷いた。
「お願いします」
「殿下」
ライアンが心配そうに声をかける。
「警護の準備を」
「いいえ」
アイリスは首を振る。
「私一人で行きます」
「しかし」
「この決意を伝えるのに、武力は必要ありません」
アイリスの声は柔らかいが、芯が通っていた。
「これは...私が選んだ、新しい戦い方なのです」
その言葉に、ライアンは何か言いかけて、結局黙り込んだ。
彼の目には、複雑な感情が浮かんでいる。
(ごめんなさい、ライアン)
(でも、これが私の...)
「殿下」
意を決したように、ライアンが歩み寄ってくる。
「せめて、これを」
差し出されたのは、小さな銀の鈴。
かつて戦場で、緊急時の合図に使っていたものだった。
「もし何かあれば」
「...ありがとう」
鈴を受け取りながら、アイリスは微かに微笑む。
この男は、いつも自分なりの形で支えてくれる。
「行ってきます」
部屋を出るアイリスを、エルシアが待っていた。
「準備はよろしいですか?」
(準備...?)
街の人々に何を伝えるか、
どう理解を得るか、
具体的な計画をどう示すか。
全て考えているつもりだった。
でも──。
(本当の準備は、きっと)
アイリスは胸の内で静かに問いかける。
温泉の精霊に。
そして、自分自身に。
「はい。これが私の、本当に選んだ道です」
朝日が街を照らし始め、
新しい一日が、静かに動き出そうとしていた。
***
市場の広場は、既に活気に満ちていた。
露店が立ち並び、様々な種族が行き交う。
エルフの薬草店、ドワーフの鍛冶道具、人族の織物、
獣人の革細工──。
(不思議な光景)
戦後の混乱の中、こうして種族が交わる場所が
自然に生まれていることに、アイリスは改めて心を打たれる。
(この街には、確かに可能性が)
広場の中央に立つと、
周囲の視線が一斉にアイリスに集まった。
氷華姫の存在は、誰もが知っている。
英雄であり、次期女王候補であるその人物が、
なぜここに──。
アイリスは深く息を吸い、そして──。