第3話「温泉の秘密」
「この温泉には、精霊が宿っているのです」
エルシアの言葉に、アイリスは息を呑む。
夜の静けさの中、湯けむりがより神秘的に見えた。
「精霊、ですか?」
「ええ。ただの温泉ではありません」
エルシアは湯けむりに手を伸ばし、それはまるで応えるように、ふわりと指先に絡みついた。
「この精霊は、人の心を見通す力を持つ。
傷ついた心、疲れた体、種族の違い──そういったものを見抜き、
それぞれに最適な癒やしをもたらすのです」
(だから母上は...)
アイリスの胸の中で、小さな確信が灯る。
病の苦しみだけでなく、王妃としての重圧に疲れていた母の心も、この温泉は癒やしていたのだ。
「でも、それだけではありません」
エルシアの声が、より深い響きを帯びる。
「ここの精霊には、もう一つ特別な力があります」
「もう一つ?」
「人と人との縁を紡ぐ力です」
月光を浴びたエルシアの瞳が、不思議な輝きを放つ。
「かつてこの場所で、様々な種族が自然と打ち解けあえたのは、
精霊の力が彼らの心の壁を溶かしていたから」
(心の壁を...溶かす)
アイリスは、今日見た街の光景を思い出していた。
人族とエルフの子供たちが一緒に遊ぶ姿。
ドワーフと人族の職人が技を競い合う様子。
本来なら簡単には交わらないはずの種族たちが、
この街では不思議と自然に共存している。
「では、街全体に影響が?」
「ええ。源泉から流れ出る湯けむりが、街中に精霊の力を運んでいるのです」
(だとすれば...)
アイリスの心に、一つの可能性が浮かぶ。
「でも、なぜ私に?」
「あなたにはその資格がある」
エルシアは静かに、しかし確信を持って告げる。
「戦場で剣を振るい、人を傷つける力を知った者だからこそ、
人を癒やすことの尊さが分かる。
高い身分にありながら、人の心の機微を理解できる。
そして何より──」
エルシアは、アイリスの瞳をまっすぐに見つめた。
「この温泉に、最初に癒やされた方の娘だから」
その言葉に、アイリスの目に涙が浮かぶ。
決して人前では見せない弱さが、この場所では自然と溢れ出てくる。
(母上...私、やっと分かったのかもしれません)
(あなたがあの時、本当に取り戻したものが)
「殿下」
突然の声に、アイリスは我に返る。
振り返ると、そこにはライアンが立っていた。
「申し訳ありません。心配になって...」
月明かりに照らされた彼の表情には、深い忠誠と、そしてどこか切ない色が混じっていた。
「ライアン...」
アイリスは決意を込めて告げる。
「私、この温泉街を再建したい」
「殿下...それは」
「次期女王の座を辞して」
その言葉に、ライアンの表情が凍る。
しかし、アイリスの瞳には迷いがなかった。
「私には、守るべき場所が見つかった。
剣でも、王笏でもなく、
この温泉の力で、人々を本当の意味で救いたい」
ライアンは長い間、黙っていた。
そして、ようやく静かに口を開く。
「...お供させていただけますか」
「え?」
「私の剣は、殿下だけのものです。
それがたとえ、温泉旅館であっても」
その言葉に、アイリスは思わず微笑む。
目尻に涙が滲んでいたことに、自分でも気付かなかった。
「ありがとう、ライアン」
エルシアは、その様子を温かく見守っていた。
湯けむりは、相変わらず月に向かって立ち昇っている。
まるで、新しい物語の始まりを祝福するように。
「では」
エルシアが、意味ありげな微笑みを浮かべる。
「温泉の力を、本当の意味で引き出す方法をお教えしましょう」
夜は、まだ長かった。