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第2話「月夜の決意」

宿の窓から見える月が、異常なほど大きく感じられた。


「殿下、本日の視察報告書です」


ライアンが差し出す書類に、アイリスは軽く目を通す。

種族共生の実態、街の復興状況、住民たちの声...。

全て、的確にまとめられていた。


しかし──。


(何か、足りない)


形式的な報告書には収まらない何かが、この街にはある。

エルシアの言葉が、まだ心の中で響いていた。


「ライアン、少し出てきます」

「この時間に?」

「月光の湯へ」


「殿下...」

心配そうな表情を浮かべるライアンに、アイリスは微かに微笑みかける。


「大丈夫です。護衛は必要ありません」

「しかし」

「この街で、私を狙う者はいないでしょう」


その確信に満ちた声に、ライアンは静かに頭を下げた。

「...お気をつけて」


***


月明かりに照らされた石畳を歩く。

夜の温泉街は不思議なほど静かで、湯けむりだけが月光に揺らめいていた。


(この道を、あの日母上と歩いた)


記憶の中の賑わいは消えていても、空気に満ちる温かさは、十年経った今も変わらない。


廃れた月光の湯に近づくと、アイリスは思いがけない光景を目にする。


「あれは...」


建物の裏手から、小さな明かりが漏れていた。

近づいてみると、それは露天風呂から立ち上る湯けむりに反射する月明かりだと分かった。


「エルシアさん」


「まあ」

石の縁に腰掛けていたエルシアが、ゆっくりと振り返る。

「来るとは思っていましたよ」


「この時間に、まだ」

「ええ、毎晩の日課なのです。源泉の様子を見に」


差し出された湯飲みには、さっきと同じ香りのお茶が入っていた。

「どうぞ」


アイリスは黙って受け取り、エルシアの隣に腰を下ろす。

月が湯けむりを銀色に染め上げ、まるで天界への道のように見えた。


「懐かしいものが見つかりました」

エルシアが、古びた本を取り出す。

「十年以上前の宿帳です」


開かれたページには、見覚えのある文字があった。

《アストラル王国 王妃付き添い 王女》


「母の」

「ええ。このページには、こんな書き込みが」


欄外には、小さな文字で記されていた。

《湯の力で、王妃様の笑顔が戻る。この温泉には、確かに奇跡がある》


(奇跡...)


その言葉が、アイリスの心を強く揺さぶった。


戦場では、彼女は奇跡を起こす存在だった。

剣を振るい、魔法を放ち、戦況を一変させる。

でも、それは時として破壊を伴う奇跡。


(本当の奇跡とは...)


目の前で立ち昇る湯けむりを見つめる。

かつてここには、様々な種族が集い、心を癒やしていった。

争いではなく、分断でもなく、ただ温かく人々を包み込む場所。


(私に何ができるのだろう)


戦場では剣を振るい、王都では政務をこなす。

それが、自分に与えられた役割。

そう思い込んでいた。


(でも、本当にそれだけ...?)


アイリスの胸の中で、長い間眠っていた何かが、静かに、だが確かに目覚めていく。

幼い頃からの夢。戦場でさえ忘れられなかった、ある願い。


(人を守ることは、傷つけることだけじゃない)

(温かく包み込むことも、きっと守り方の一つ)


氷華姫の異名を持つ者が、温泉街の再興を志す。

次期女王候補が、種族共生の場所を作る。

その事実自体が、きっと大きな意味を持つ。


(私にしかできないこと)

(いいえ、私だからこそできること)


アイリスの中で、迷いが確信へと変わっていく。

それは、戦場で感じた覚悟に似ていて、でも何か根本的に違うものだった。


剣ではなく、温かさで人を守る。

破壊ではなく、癒やしを。

それは、新しい形の強さなのかもしれない。


「エルシアさん」

アイリスの声が、夜空に響く。

「私はこの場所を...守りたいのです」


「殿下?」

「剣ではなく、この温泉の力で。

種族を超えて、人々の心を癒やせる場所として」


月光に照らされたアイリスの瞳が、強い光を宿していた。

それは、戦場で見せた鋭さとは違う、温かな輝きだった。


「…覚悟はおありですか?」

エルシアの問いかけに、アイリスは迷いなく答える。


「はい。これが、私の選んだ道です」


湯けむりが月に向かって立ち昇り、

新しい物語の始まりを、静かに見守っているようだった。


「では、もう一つ大切なお話があります」

エルシアは、どこか安堵したような表情を浮かべる。

「この温泉の、本当の力について...」


夜風が、アイリスの銀色の髪を優しく揺らしていた。

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