第1話「語り部の言葉」
エルシアの住まいは、廃れた月光の湯のすぐ近く、小さな薬草園に囲まれた家だった。
「お茶が入りました」
差し出された湯呑から、優しい香りが立ち上る。
薬草を調合したという独特のブレンドは、不思議と心を落ち着かせる効果があった。
「懐かしい香りですね」
思わずアイリスは呟く。
「おや?」
エルシアが、穏やかな笑みを浮かべる。
「以前、この里を訪れたことが?」
「はい。母と一緒に...」
「まさか」
エルシアの瞳が、かすかに輝く。
「あなたが、あの時の王女様...」
窓の外では、夕暮れの湯けむりが金色に染まっていた。
アイリスは静かに頷く。
「十年以上前になりますが、母が療養で」
「ええ、よく覚えています」
エルシアは遠い目をして続けた。
「あの頃の月光の湯は、まだ活気に満ちていました。
人族、エルフ、ドワーフ、獣人...様々な種族が集う場所でした」
「なぜ、そのように...?」
アイリスが問いかける。
父の言葉によれば、種族間の軋轢は深刻なはずだった。
「この温泉には、不思議な力があるのです」
エルシアは、窓の外の湯けむりを見つめながら語り始めた。
「種族それぞれに、体質の違いがある。
でも、この源泉は不思議なことに、全ての種族に心地よい効果をもたらす。
エルフには魔力の回復を、ドワーフには疲労の回復を...」
「まるで、それぞれの種族のことを理解しているかのように...」
「そう、まるで意思を持っているかのようにね」
エルシアの言葉に、アイリスは思わず息を呑む。
母が言っていた「不思議な力」とは、これだったのか。
「戦争が始まる前は、この街は種族共生の象徴でした。
しかし戦火が街を襲い、多くの者が離れていった。
それでも今、ご覧の通り...」
「少しずつ、戻ってきているのですね」
「ええ。温泉の力に惹かれるように」
その時、外から子供たちの笑い声が聞こえてきた。
人族とエルフの子供が、まるで種族の違いなど気にもせずに追いかけっこをしている。
「彼らは、まだ偏見を知らない」
エルシアの声が柔らかくなる。
「だからこそ、こうして自然に交わることができる」
アイリスは黙って聞いていた。
父が言った「種族間の軋轢」。
確かにそれは存在する。でも、それを超える何かが、ここにはある。
「なぜ、月光の湯は再建されないのでしょうか?」
「残念ながら...」
エルシアは少し寂しそうに微笑む。
「戦後の混乱で、元の当主は行方知れず。
建物も傷み、資金も必要です。
何より、全ての種族を受け入れる覚悟と、それを実現する力を持つ者が...」
その言葉が、アイリスの心に強く響いた。
全ての種族を受け入れる覚悟。
それを実現する力。
「エルシアさん」
アイリスが静かに問いかける。
「この温泉には、まだ守るべき何かが残っているのですか?」
「ええ」
エルシアの瞳が、不思議な光を宿す。
「この湯けむりの向こうには、まだ多くの可能性が眠っています。
ただ、それを見出す者を待っているだけ...」
夜風が窓を通り抜け、薬草の香りが部屋に漂う。
アイリスの心の中で、何かが確かに動き始めていた。
「殿下」
外で待機していたライアンが、静かに声をかける。
「そろそろ宿への出発を」
「ええ」
立ち上がりながら、アイリスはエルシアに向き直る。
「貴重なお話を、ありがとうございました」
「いいえ」
エルシアは、アイリスを見つめながら微笑む。
「むしろ、私の方こそ...久しぶりに、希望を見た気がします」
その言葉の意味を、アイリスはまだ理解していなかった。
ただ、この日の出会いが、彼女の人生を大きく変えることになるとは、
誰も予想していなかったのだ。