第4話「月光の里にて」
山間の細い道を進む馬車が、ゆっくりと速度を緩めていく。
窓の外に広がる景色は、アイリスの記憶とは大きく異なっていた。
「これが...月光の里」
かつて母と訪れた時は、活気に満ちた温泉街だった。
華やかな旅館が立ち並び、観光客で賑わう通りには、色とりどりの提灯が揺れていた。
しかし今──。
「戦禍の影響は大きかったようですね」
ライアンが、静かに呟く。
通りの両側には、かつての繁栄を物語る建物が、今は朽ち果てたように並んでいる。
提灯の代わりに、色褪せた布が風に揺られていた。
「でも...」
アイリスは、ふと目を細める。
「人の気配がします」
馬車が曲がり角を回ると、思いがけない光景が広がっていた。
小さな広場で、エルフの薬屋が薬草を売っている。
その隣では、ドワーフの職人が大きな槌を振るう。
通りの片隅では、獣人の商人が籠を編んでいた。
「これは...」
アイリスの目の前で、人族の子供が駆け抜けていく。
その後を、エルフの子供が追いかけ、じゃれ合う声が響く。
「意外な光景ですね」
ライアンも、静かな驚きを隠せない様子だった。
確かに意外だった。
辺境の街で、異なる種族が共生している──。
父の言葉からは、もっと深刻な対立を想像していたのに。
「殿下、宿の準備が整いました」
護衛の騎士が報告する。
「ありがとう。ところで...」
アイリスは、通りの奥を見つめながら問いかける。
「かつての『月光の湯』は、どうなっているのでしょう?」
「申し訳ありません。そちらは廃業したままと」
その言葉に、アイリスの胸が僅かに痛んだ。
母との思い出の場所。温泉の持つ不思議な力を、初めて知った場所。
「一度、見に行ってもいいでしょうか」
「殿下、本日の視察予定が...」
「分かっています。でも、少しだけ」
アイリスの決意に満ちた瞳に、ライアンは小さく溜息をつく。
「...承知しました。ご案内いたしましょう」
***
石畳の道を登っていくと、街の喧騒が徐々に遠ざかっていく。
木々の間から漏れる夕陽が、懐かしい風景を、淡い金色に染めていた。
「あれが...」
道の先に、大きな建物の影が見えてきた。
朽ち果てた門柱に、かすかに文字が読み取れる。
「月光の湯」
アイリスは、思わず足を止めた。
廃墟となった建物は、確かに寂しい姿だった。
しかし──。
「この湯けむりは...」
「ええ、源泉は今でも湧いているようです」
ライアンの言葉に、アイリスは建物の向こうに目を向けた。
夕陽に照らされて立ち昇る湯気が、まるで天に向かう道のように見える。
(母上が見た景色は、きっとこんな風だったのね)
「どうかなさいましたか?」
「いえ...」
返事をしながら、アイリスは不思議な感覚に包まれていた。
荒廃した建物なのに、どこか心が温かくなる。
まるで、ずっと探していた何かが、ここにあるような──。
「まあ、お客様でしょうか?」
突然、老婆の声が響く。
振り向くと、そこにはエルフとは思えない年齢を感じさせる女性が立っていた。
「私は、このあたりの古老、エルシアと申します」
「古老...ですか?」
「ええ。この温泉の、最後の守り手でもありますよ」
エルシアと名乗る老女の瞳が、不思議な光を宿している。
まるで、アイリスの心の中を見透かすように。
「もしよろしければ、お茶でもいかがですか?
この温泉には、まだまだ語るべき物語が残っているのです」
その言葉に、アイリスは何かに導かれるように頷いていた。
予定は既に狂っている。でも──。
「ご一緒させてください」
夕陽は徐々に山の端に沈もうとしていた。
しかし、アイリスの心の中では、
何か大切なものが、静かに、だが確実に目覚め始めていた。