第1話「工事の始まり」
朝もやの立ち込める月光の里で、久しぶりに金槌の音が響いていた。
「この柱は、このまま使えそうですな」
グラウスが、古い柱を叩いて確認する。
「ドワーフの技術で作られた骨組みは、まだまだ現役です」
アイリスは、廃墟となった建物の中を歩く。
かつて母と過ごした大広間。
種族を問わず、人々が集った場所。
(ここから、始まるのね)
「殿下、設計図の最終確認を」
ライアンが、広げた図面を指さす。
そこには、新しい月光の湯の姿が描かれていた。
人族の建築技術とドワーフの工法を組み合わせた構造。
エルフの知恵を活かした薬草園。
獣人の感覚で選び抜かれた材料。
そして、魔族の魔力管理による源泉制御。
「面白い設計ですね」
エルシアが、静かに歩み寄る。
「種族それぞれの知恵が、自然と溶け合っている」
その時、予期せぬ来訪者があった。
「これは驚いた」
振り返ると、商務卿のヴィクターが、数人の役人を従えて立っていた。
アイリスの背筋が伸びる。
「ヴィクター卿」
「心配なく」
彼は、穏やかな表情を見せる。
「商務省の正式視察です。むしろ、驚いたのは私の方でして」
ヴィクターは、作業中の職人たちを見渡す。
人族とドワーフが力を合わせて柱を運び、
エルフとの獣人が資材を仕分けし、
魔族が源泉の状態を確認している。
「これほどまでに、自然な協力関係が」
「はい」
アイリスは、誇らしげに答える。
「皆、自分にできることを、当たり前のように」
その時、作業場の片隅で小さな物音が。
振り向くと、運んでいた材木が崩れかけていた。
「危ない!」
咄嗟の判断で、それぞれが動く。
人族の職人が支え、
ドワーフが適切な置き方を指示し、
エルフが怪我人がいないか確認する。
獣人が素早く補強材を運び、
魔族が魔力で一時的に固定する。
わずか数秒の出来事だった。
「見事な連携ですな」
ヴィクターの声に、感心が滲む。
「まるで、昔から一緒に働いていたかのよう」
「温泉の力です」
エルシアが、静かに告げる。
「この湯けむりには、心の壁を溶かす不思議な力が」
アイリスは、水晶を取り出す。
中の湯けむりが、源泉から立ち昇る湯気と共鳴するように揺らめく。
「ヴィクター卿」
彼女は、真っ直ぐに視察団を見つめる。
「どうか、この光景を商務省にも」
「ええ」
ヴィクターは、深く頷く。
「必ず、良い報告を」
視察団が去った後、作業は再び活気を帯びる。
「さて」
グラウスが、図面を広げ直す。
「次は、大浴場の改修を」
アイリスは、朝日に照らされる建物を見上げる。
廃墟は、少しずつその姿を変えようとしていた。
(お母様)
(きっと、素敵な場所にしてみせます)
作業の音が、希望の音色のように響く。
新しい月光の湯は、こうして一歩ずつ、
理想の形へと近づいていくのだ。
湯けむりは、いつものように天に向かって立ち昇っていた。
まるで、この再建の日々を、
優しく見守るように──。