第2話「癒やしの記憶」
朝の執務室に差し込む陽光が、机の上の一枚の書類を照らしていた。
辺境視察の日程表。その中に、ある地名を見つけて、アイリスは思わず手を止めた。
「月光の里...」
十年以上前の記憶が、突然鮮やかに蘇る。
***
白い湯気の向こうで、母が柔らかな笑顔を見せていた。
「お母様、お加減はいかがですか?」
幼いアイリスは、母の傍らにしっかりと寄り添っていた。それは、母の病が重くなってから初めての転地療養。主治医が勧める温泉での静養を、父も最後の望みをかけて許可したのだった。
「ええ、不思議なくらい体が軽くなるわ」
母の声には、久しぶりの活気が感じられた。
病のために青ざめていた頬にも、わずかながら血色が戻り始めている。
露天風呂から見上げる空は、深い藍色。
立ち昇る湯気が、まるで天に向かって伸びる道のように見えた。
「この温泉には、不思議な力があるのよ」
母の言葉に、幼いアイリスは首を傾げる。
「不思議な力、ですか?」
「ええ。体の疲れだけじゃなく、心の疲れも癒やしてくれる。
まるで、優しく包み込まれるような──」
その時の母の表情を、アイリスは今でも鮮明に覚えている。
それは、病の影に怯えることのない、心から安らかな笑顔だった。
***
「殿下」
記憶の糸を手繰るアイリスの耳に、ライアンの声が届く。
「視察の準備が整いました」
「ありがとう。それで、最初の訪問地は?」
「はい。まずは北部の要塞都市から入り、その後...」
ライアンの説明を聞きながら、アイリスは窓の外を見つめる。
春の柔らかな日差しが、王都の街並みを温かく照らしていた。
(月光の里...あの温泉街は、今どうなっているのでしょうか)
戦争の影響は、辺境の街々により深い傷を残していた。
かつて母と訪れたあの場所も、きっと大きく様変わりしているに違いない。
「殿下?」
「...ごめんなさい。考え事をしていました」
「気になることでも?」
「ええ。母が療養していた温泉街が、視察地に含まれているの」
その言葉に、ライアンの表情が僅かに柔らかくなる。
彼は、アイリスの母の死に際し、まだ幼かった彼女がどれほどの悲しみを抱えていたか、よく知っている。
「是非、立ち寄らせていただきましょう」
「ええ。...でも変ね」
「何がですか?」
「こんなにも懐かしく思い出すなんて。戦場では、一度も振り返ることのなかった記憶なのに」
静かに告げる言葉に、どこか困惑したような響きが混じっている。
平和な日々の中で、少しずつ形を変えていく記憶。
それは、彼女の心に何かを語りかけようとしているようだった。
「では、出発の準備を」
「はい。私から護衛の配置を──」
その時、執務室の扉が軽くノックされた。
「殿下、陛下がお呼びです」
侍従の声に、アイリスは一瞬、眉を寄せる。
父が、この時間に?
「分かりました。すぐに参ります」
立ち上がりながら、アイリスは再び窓の外を見やる。
遥か彼方の地平線の向こうに、まだ見ぬ運命が待っているような予感がした。
春風が、アイリスの銀色の髪を静かに揺らしていた。