第1話「戦後の重圧」
アストラル王国の執務室に、夕暮れの影が長く伸びていた。
「これで今日の報告書は以上です、姫様」
秘書官が恭しく一礼する。机の上に残された書類の山を見つめながら、アイリス・ルミエールは小さくため息をつく。戦後処理の文書、各地の復興計画、そして次期女王としての政策提言──。かつて剣を振るっていた手で、今はペンを執る日々。
「ご苦労様でした」
立ち去る秘書官を見送り、ようやく一人になったアイリスは、窓際まで歩を進める。王都の灯火が、一つ、また一つと灯りはじめていた。平和な夜の風景。彼女が剣を振るって守り抜いた、その証。
でも──。
「本当に、これでいいのでしょうか」
誰もいない執務室に、小さな呟きが漏れる。
五年前、魔王を倒し、世界に平和をもたらした英雄。"氷華姫"の異名を持つ最強の剣士にして、次期女王候補。完璧な王女として、周囲からの期待と称賛を一身に受けながら、アイリスの心には確実に、ある感情が芽生えていた。
それは、言い知れぬ空虚感。
「殿下」
物思いに沈んでいた背中越しに、懐かしい声が響く。
「ライアン」
振り返ると、近衛騎士団副団長のライアン・グレイブが、気遣わしげな表情を浮かべていた。かつての戦場で、常に彼女の右腕として共に戦った男性だ。
「また執務室に籠りきりですか」
「ええ。まだ目を通すべき書類が山ほど...」
「無理なさらないでください」
ライアンの言葉に、アイリスは微かに微笑む。彼はいつも、こうして自分のことを気にかけてくれる。戦場でも、今でも。
「平気です。これくらい、私には──」
その時、執務室の扉が勢いよく開かれた。
「殿下!大変です!」
「どうしました?」
「北部辺境で、魔物の大規模な出現が!」
報告する兵士の声に、一瞬、アイリスの瞳が鋭く光る。それは、戦場で見せた氷華姫の眼差し。しかし、すぐに我に返ったように、静かに頷いた。
「対応部隊は?」
「すでに現地に向かっておりますが...」
「分かりました。では、私からの指示を──」
机に向かい、的確な指示を次々と書き記していく。戦術、部隊配置、後方支援。かつての戦場の経験が、今はこんな形で活きている。
(私に必要なのは、この力だけなのでしょうか)
文面を書きながら、どこか遠くを見るような目をしていることに、ライアンだけが気付いていた。
「殿下...」
夜が更けていく王都の空に、まだ見ぬ運命の予感が、静かに漂っていた。
***
翌朝。いつもより早く目覚めたアイリスは、王宮の庭園を歩いていた。
露の滴る花々、清々しい朝の空気。平和な時間が流れている。でも、どこか心が落ち着かない。
(母上は、あの時何を想っていたのでしょう)
ふと、十年以上も前の記憶が蘇る。重い病に臥していた母が、温泉療養から戻ってきた時の、あの柔らかな笑顔。
「殿下、今朝の視察会議の準備が」
側近の声に、記憶の糸は途切れた。
「はい、すぐに」
公務の時間が、また始まる。
だが、この日のアイリスは知らなかった。
この何気ない一日が、彼女の人生を大きく変えることになるとは──。