マオロンの超戦士
中原では、もう千年近く戦乱が続いており、様々な国が現れては消え、消えてはまた別の国が興され、栄枯盛衰を繰り返していた。
そうした中、激流に飲み込まれずに浮かぶ泡沫のように、どこの国にも属さない自由都市が幾つもあった。
有名なところでは、すでに滅んだ魔道師の都エイサ、商人が造った商業都市サイカなどであるが、ここに、全く異質な自由都市があった。
その名はマオロン。
いや、マオロンが自由都市というのは表向きの話。
実態は、東方の暗黒帝国マオールの植民都市である。
住民もマオール人が半数以上を占めている。
マオールが暗黒帝国と呼ばれるのは、中原では禁じられている奴隷貿易を未だに行っているからであり、マオロンは、その隠れ蓑になっていると噂されていた。
そしてまた、マオロンは大規模な擬闘試合を連日行っていることでも有名であった。
グラップルとは、木剣や刃引きした剣を使って行う試合を、見物料を取って見せるものである。
賭けの対象ともなるが、八百長が多いとされている。
マオロンの中央にある、巨大な擂鉢状の円形闘技場は、今日も中原中から集まった観客の興奮に包まれていた。
その試合を待つ擬闘士の控室に、首輪を着けられ、そこから鎖で壁に繋がれた大柄な男がいた。
殆ど半裸で、薄汚れた下帯ぐらいしか身に着けていない。
髪はやや茶色がかった金髪で、瞳の色は珍しいアクアマリンであった。
その目の焦点は定まらず、酷く疲れているように見える。
そこに、馬に使う短めの鞭を持った人相の悪い男が入って来た。
顔に大きな刀創がある。
「おい、ガイアック、もうすぐ試合だ。準備しろ!」
だが、ガイアックと呼ばれた首輪の男は、「ガイアック? それが、われの名か?」と呟いている。
すると、刀創の男がツカツカと歩み寄り、持っていた馬用の鞭で、ピシリとガイアックの裸の背中を打った。
「いい加減、自分の名前を覚えやがれ! おまえは、このリゲスさまに金で買われたんだ! おまえはグラップラのガイアックだ!」
リゲスは叫びながら、更に何度も鞭で打った。
ガイアックは呻きながらそれに耐えている。
鞭で打たれたガイアックの背中には真っ赤な蚯蚓腫れが何本も走ったが、リゲスが手を止めると、みるみるスーッと消えていった。
リゲスは慣れているのか驚きもせず、「ふん。化け物め」と吐き捨てるように言った。
「いいか、ガイアック、よく聞けよ。おまえは今日まで八戦負けなしだ。賭け金は途轍もなく跳ね上がってる。おれも、おまえがここまで勝つとは思ってなかった。だが、今日の相手は今迄とは違う。去年から無敗の王者ウパンジャだ。どうすればいいか、わかるな?」
「われの覚悟は決まっている。向かって来る相手は、全力で倒すのみだ」
「この、阿呆!」
リゲスは激昂し、ガイアックの背中を力任せに何度も鞭で打った。
仕舞いには、打ち疲れて、ハアハアと肩で息をした。
「空気を読め! ウパンジャは、この闘技場お抱えのグラップラだぞ! 勝っていい相手かどうか、考えればわかるだろう!」
鞭打ちの痛みに、歯を喰い縛って耐えていたガイアックが、初めて正面からリゲスの顔を見た。
「八百長しろ、と言うのか?」
だが、リゲスは狡そうな笑顔で、フンと鼻を鳴らした。
「おれは何も言っちゃいねえよ。状況を説明してやっただけさ」
「八百長は、しない。それは、われの矜持に反する」
また鞭で打とうとしたが、ガイアックの背中がもう綺麗な状態に戻っているのを見て、リゲスは舌打ちした。
「おれは親切で言ってやってるんだぜ。この闘技場は、マオロン太守チャナール閣下の持ち物だ。しかも、ウパンジャは一番のお気に入りだそうだ。自分の大事にしてるグラップラの戦歴に傷がつくようなことを、閣下が許すはずがねえ。おまえも、生きて年季明けを迎えたいなら、精々考えるこった」
「その、年季のことだが、本当なのか? われには何の記憶もないのだが」
リゲスは、惚けたような顔をした。
「勿論だ。おまえの元の持ち主のバポロって親爺から買い取る際、ちゃんと年季も確認した。ただ、おまえはバポロんとこにいる時、試合中に何度も頭を打ったらしいぜ。それで記憶がねえんだろうさ。さあ、もう御託を並べてねえで、サッサと試合の準備をしやがれ!」
リゲスは、ガイアックの首輪から鎖を外すと、パッと距離をとった。
内心では怖れているのは明らかであった。
ガイアックはそれ以上反論もせず、大人しく闘技場の中に向かった。
途中、武器庫に寄って、木剣を二本取り、両手に一本ずつ持った。
ガイアックが会場に姿を見せると大歓声が上がった。
八連勝で人気も鰻登りのようだ。
対するウパンジャは、ガイアックより頭二つは大きな男で、身長が高いだけでなく、体重もガイアックの三倍はありそうであった。
髪の毛は一本もなく、厳つい大きな顔には、短刀で切り込みを入れたような細い目が光っている。
マオール人と巨人族の混血との噂であった。
手にしている得物は、子供の拳大の鉄球の穂先を付けた、長柄の槍である。
柄の長さだけで、ウパンジャの身長を超えている。
それを軽々と頭上で回して見せた。
ガイアックの時以上の歓声が上がる。
因みに、刃のある槍は違反だが、鉄球は認められていた。
二人が近づき、審判役が試合上の注意をしている間中、ウパンジャは薄気味悪いニヤニヤ笑いを浮かべてガイアックを見ていた。
「始めよ!」
審判役の声が掛かった瞬間、鈍重そうに見えていたウパンジャが、猛烈な勢いで突きを入れて来た。
ガイアックはピクリとも動かない。
あわや穂先の鉄球で顔面が砕かれるかと見えた刹那、ガイアックの身体がフッと沈んだ。
髪の毛を数本引き千切られながら、ギリギリのところで鉄球を躱すと同時に、ガイアックの二本の木剣が一度に投じられた。
顔に向かって飛んでくる二本の木剣の内、辛くも一本は避けたウパンジャも、もう一本は真面に鼻に当たり、盛大に鼻血が噴き出した。
「ふぁめるな!」
恐らく、舐めるな、と言いたかったのであろうウパンジャは、突き出していた長槍をブンと横に振った。
ガイアックは横っ跳びにそれを避けたが、ウパンジャは巨体に似合わぬ素早さで、第二撃、第三撃と息も吐かせない。
木剣を二本とも投げてしまったガイアックは、只管逃げ回っている。
観客席からも不満の声が上がった。
ウパンジャも、鼻血を流しながら再びニヤニヤ笑いを浮かべている。
「ふぁふぉうめ、ぶひをふてるふぁらだ!」
阿呆め、武器を捨てるからだ、ということであろう。
ガイアックは逃げながらもニヤリと笑い、「武器に拘らぬのが、われの流儀でな!」と言い返した。
その時、ウパンジャの身体がよろめいた。
ガイアックの投げた木剣の一本を踏んでしまったのだ。
一旦仰け反り、慌てて上体を曲げて長槍の先を地面に着けた。
と、ガイアックがポーンと跳躍して長槍の柄を踏み、その反動で更に大きく跳んで、両足でウパンジャの鼻血塗れの顔面を蹴り上げた。
「ふがっ!」
仰向けに倒れたウパンジャに馬乗りになって、ガイアックは顔面をガンガン殴りつける。
忽ち、ウパンジャの顔が腫れ上がる。
既に気絶しているようだ。
「もう、やめろ!」
そう叫んだのはウパンジャではなかった。
審判役である。
手に短剣を持っていたが、ベットリ血が付いている。
その時になって、初めてガイアックは背中に激しい痛みを感じたらしく、顔を顰めた。
審判役は、更に何度も短剣で突いた。
「な、何故だ……」
出血で朦朧としながら問いかけるガイアックを、審判役は「ウパンジャに大金を賭けてるんだ!」と狂ったような目で睨んだ。
会場中が、何事が起ったのかとザワついている時、大声で呼び掛ける声が聞こえた。
「ゾイア将軍! お気を確かに! あなたは記憶と変身を封印されているのです!」
ガイアックが声の方を見ると、前を切り揃えた銀色の髪に、薄いブルーの瞳をし、耳がやや尖っている男が、周囲の人間から取り押さえられていた。
「ゾイア、それが、われの、本当の名なのか」
ガイアックは、いや、ゾイアはそう呟くと、グッと身体に力を籠めた。
刺された背中の血が止まり、スーッと傷口が閉じる。
腕や肩の筋肉が岩のように盛り上がり、首も太くなって、ブチッという音と共に首輪が切れた。
すると、肌に細かな黒点が多数生じ、見る間に剛毛となって全身を覆った。
髪の毛の部分も焦げ茶色に変わり、鬣のようになる。
指先からは鉤爪が伸びてきた。
それに並行するように、顔がボコボコと膨らみ、顎がヌーッと伸びると、唇の隙間から大きな牙が生え出てきた。
その口が開くと、闘技場中に響き渡る猛獣の咆哮が上がった。
恐慌状態に陥った会場を駆け抜け、獣人と化したゾイアは、銀色の髪の男を助け出し、そのまま疾風のように去って行った。