テンプレートな転校生イベント
「転校生が来ます」
と、簡潔に述べた僕たちの担任の教師、東印度 鐘千代女はカルピスの原液を全身から滴らせながら教室のドアを開けた。さっきからひどく甘い匂いが教室中を漂っているが、それは転校生が発するものなのだろうか。
僕は割と得意な香りであったが、その匂いが苦手な生徒もいるようで、僕の後ろに座る男は口から泡を吹き、痙攣しながら白目を剥いてエロ本を読んでいる。
鐘千代女先生がまるで自慢するかのように小指の先で開けた扉から入ってきたのは、朝に出会った少女だった。
著しく食欲を減退させる青色の髪に、葉の上を這いまわる芋虫を連想させる緑の瞳。そんな美の化身のような彼女はまさしく僕が朝にぶつかった少女である。
「あ、」
と声が漏れたのはどちらが先だろうか。
とにかく、僕も彼女も思わず両手で中国三千年の歴史を象って、相手を指し、そして同時に自然界全体の物理法則も指し示していたのだった。
開いた口が塞がらない、とはつまりこういうことを言うのだろう。僕は以前までその意味を「呆然とする。呆気にとられる。」というような意味で使っていたが、それは大きな間違いであったのだ。僕は一瞬で世界中の書籍に記載された「開いた口が塞がらない」の意味、例文を書き換え、高鳴る鼓動をどうにか鎮めようとリーマン予想を証明した。
この静寂を破ったのは僕たちの担任であった。
鐘千代女先生はニタニタと意地の悪い笑みを浮かべ、僕と彼女をドイツ語で囃し立てた。
「そ、そんな関係じゃありませんから!」
彼女は顔を赤らめ、焦った様子で言い返した。僕は英語が苦手だったからドイツ語はわからなかったし、先生がなぜカルピスの原液を浴びながら教壇に立っているのかもわからなかった。
助けを求めるように、後ろの席の彼をちらりと見やると、彼はいつの間にか「人間失格」を片手に全裸で寝ていた。
なるほど、ね。
転校生の少女は黒板に鋭利な爪で名前を刻み始めた。
愉快な不協和音が響き渡り、僕たちは皆一様に耳を澄ませ、奏でられた宇宙の真理に涙を流した。
そうして、ほんの数時間で名前を刻み終わった彼女は清々しい表情で僕たちに挨拶した。
「初めまして! 私の名前はアーデルハイト・ドルトムル・ヴェルゲンシュタイン、ドイツから来ました! 好きな食虫植物はダーリングトニア・カリフォルニカです! よろしくお願いします!」
その聞きなれない自己紹介に、多くのクラスメイトは驚きの声をあげた。
「ドイツでは自己紹介の時に好きな食虫植物を言うんだねー」
文化の違い、というやつだろう。日本では自己紹介の際に好きな食虫植物を挙げることはなく、たいていは自分の趣味か、もしくは人類の進化に対しての自らの見解を述べるのみだ。
しかし、ドイツ人か・・・。
僕はアメリカ人や火星人、ブラジル人などには会ったことがあるが、ドイツ人と会うのはおそらく初めてである。
僕はドイツ語を喋ることができないから、彼女が日本語に堪能で幸運だった。
古典ヘブライ語ならマスターしているが、やはり外国語って苦手だ。