初恋のあなた
────兄上たちは一体何をやっているんだ!?
這いつくばって鱗をあさる地龍(現皇帝)と雷龍(隣国公子)を、死んだ魚のような目で見下ろす姫。
この何とも言いがたい状況から、いち早く立ち直ったのはミズチだ。
固まったままの側仕えも浅ましい兄たちもスルーして、白魚のような姫の手を握りしめる。
「……ミズチ殿?」
「興奮した龍は何をしでかすかわかりません。とにかく逃げましょう! 姫さま、ぼくを信じてついてきてください!」
……こんな時じゃなかったら、どんなに良かったか……。
心臓の鼓動が伝わらないよう祈りながら、ミズチは姫の手を引いて駆け出した。
ミズチにとって、姫は初恋の女性である。
しかし、兄の縁談の相手だからと諦めた恋だった。
地龍は個人主義な龍族の中でも特に世界が狭く、龍以外の種族を無意識に見下していた。
昔から大切なのは家族と数少ない友だけ、ごく一部にしか心を開かない地龍のことが、ミズチは心配で仕方なかった。
竜宮のナミ姫は、そんな地龍が噂とはいえ初めて興味を持った女性だ。
ミズチや家臣が全面的に協力して、ようやく顔合わせまでこぎ着けて。
地龍のため国のため、最後の一押しのために参加した園遊会で、ミズチは初めて姫と言葉を交わす。
「ナミ姫さまは女性なのに角があるのですか!」
艶やかな黒髪にさした珊瑚を角と勘違いして、素っ頓狂なことを叫んだミズチにあきれることなく、姫は笑顔で説明してくれた。
「海の龍も地上の龍と一緒で、雌の龍は生まれません。わたしは母と同じ海蛇です。この簪は珊瑚という海の宝石で、こうやって角のように飾るのが竜宮の正装なのですよ」
「ぼく、珊瑚のことは知っていたんです。でもこんな立派な珊瑚を見るのは初めてで……無神経でした。ごめんなさい」
顔を真っ赤にして言い訳し、しゅんと頭を垂れるミズチに姫は優しかった。
「わたしも“梅”がわからなくて笑われてしまいましたの。お揃いですね」
地龍が好む華美さはないが、ころころと笑う姫は可愛いらしい。
ミズチと姫が親しくなるのに時間はかからなかった。
「わたしね、地龍様に海底にはない美しい花々を、自慢の庭園を楽しんでくれって言われて、そのまま放置されたのよ」
「……ごめんなさい。兄弟そろってやらかしてたんですね」
すっかり打ち解けた気やすさから、砕けた口調で姫は語る。
「放って置かれたのは別にいいの。でも、わたしはともかく、故郷まで期待はずれだと思われているのがね……確かに海底に花はないし、可愛くさえずる小鳥だっていないわ。だけど、この庭園に負けないくらい美しいものはあるのよ?
満開の花のようないそぎんちゃくでしょう。深海を漂うくらげの群れ。それに海の中から見上げる空の蒼さは格別なの。
わたしの一番のお気に入りの場所は、珊瑚の入り江ね。赤、桃色、白に緑、鮮やかな珊瑚の森に、網目のように差しこんだ陽の光。色とりどりの小魚の鱗が光を反射して、それはそれは綺麗なんだから」
姫の染みいるような声、語り口は心地よく、美しい海の光景が目に浮かぶ。
────もっと聞いていたいな。
地龍のフォローのために姫に近づいたはずなのに、ミズチはすっかり目的を忘れていた。
「こんなに立派な珊瑚がいっぱい生えてるんですか? それは壮観でしょうね。見てみたいです。……ぼくの角も、その珊瑚みたいに大きくなってくれないかなぁ」
小さい角や年の割に小柄な体はミズチのコンプレックスの元、ついぼやいてしまう。
面と向かって言われることはないが、影で出来損ないだと囁く者もいるのだと言うと、姫は眉をひそめる。
「あなたの角が小さくても大きくても、影でこそこそ言う人は言うのよ。まったく嫌になるわよね……」
やけに実感のこもった言葉だった。
「知ってる? 角って、その人の個性が出るのよ。地龍様の角は大きくて威厳たっぷりで派手、ちょっとトゲトゲしいわ。
ミズチ殿の角は小さいけど、まっすぐ天を目指している。純粋で、水晶みたいに綺麗な角よ。いずれ大人になる時に生え替わってしまうから、子どもの時だけの美しさ。……わたしは好きよ」
姫がミズチの角を、ちょんと突く。
龍は角や逆鱗を触れられるのを嫌うが、ミズチは姫に触れられるのが嫌ではなかった。
「地龍様の手紙にはよく家族のことが書いてあった。特に頑張り屋で可愛い弟、ミズチ殿のことが多かったわね」
「……兄上っ、恋文に何を書いてるの!?」
地龍の手紙や贈り物にはよく助言をしていたが……ミズチのことを書いているとは思わなかった。
羞恥や色んな感情で顔を赤くするミズチを、姫は微笑ましく見つめている。
「わたし、ミズチ殿に会えてよかった。地龍様はまともに取りあってくれなかったけど、こうやってミズチ殿と海の話が出来て、嬉しいわ」
姫の屈託のない笑顔が、ミズチの胸に突き刺さる。
姫は海のように包容力があって視野が広い女性だから、きっと地龍の狭い世界を変えてくれる。
今は興味が無くても交流を重ねて行けば、地龍はいずれ姫の美徳に、内面の美しさに気付くに違いない。
…………望んでいたはずなのに、姫を義姉上と呼ぶのが嫌になった。