苦労人な公子
話は少しさかのぼって、姫。
どこもかしこも広い宮殿に迷いそうになりながら、姫は緋毛氈を滑るように進んでいた。
廊下も長々として幅が広いから、竜宮独特の裾を長く引きずる正装でも移動が苦にならないし、誰かとすれ違っても距離があるため会話を聞かれる心配もない。
……姫の両脇に侍るお付きが明らかに不機嫌でも、咎める者もいなかった。
「まったく、無礼千万ですわ。こちらは遠い深海から到着したばかりだというのに、いたわりの言葉一つなくあのような仕打ち。……龍神様に報告しましょう! 国交断絶ですわ!」
「おいたわしや、姫様。竜宮は海底なれど、資源豊かな大国です。あんな男に侮られるいわれはありません!」
怒りを現すように、お付きの魚人のエラとヒレがぴちぴち動く。
当事者の姫が却って冷静になるくらい、二人は言いたい放題だ。
「二人ともおよしなさい。お父様にも余計なことを言わなくていいわ。縁談は破談になった、それでおしまいでいいじゃないの……」
「姫様っ」
「こんな侮辱を許せますの!?」
竜宮を軽んじられたようでいい気はしないが、龍とはそういう生き物なのだと割り切っている。
国の成り立ちとは、ただ自分の縄張りを守っていた龍に、庇護を求めて人々が集ったことが切っ掛けだ。
もともとが群れる生き物ではないので、龍は領土は守っても、民を守ったり統率することに興味がない。
そういった面を補佐するのが伴侶や重臣の役目だと、姫は母から教わってきた。
孤高と言えば聞こえは良いが、要は視野の狭い個人主義。
それが龍の本質なのだから、どうしようもないのに。
忠誠心の高さゆえに怒り心頭のお付きに、龍の幻想を壊さないよう、どう説明しようかと姫が悩んでいると、遠くから名を呼ばれた。
「ナミ姫さま~!」
「あら、ミズチ殿」
姫を呼び止めたのは純真そうな少年だ。
兄そっくりな金髪碧眼だが、地龍のような冷たさはなく、幼さの残る愛くるしい顔立ちをしている。
小ぶりな角も可愛いミズチは、姫を実の姉のように慕っていて、今も子犬のよう駆け寄って来てくれた。
……地龍様に未練はないけど、可愛いミズチ殿と会えなくなるのは辛いわね。
姫は悲しげに眉を曇らせる。
「何だか、淋しそうな笑顔ですね……。姫さま、何かあったのですか? てっきり兄上と面会中かと思ってました」
「ふふ、あなたの兄上様にはフラれてしまったの。このまま帰るのも忍びないから、お世話になったあなたたちにはお礼を言おうと思って、探していたところだったのよ」
姫の言葉で、初めて地龍の仕打ちを知ることとなったミズチは顔色を変える。
「兄上がごめんなさい!! こちらが持ちかけた縁談なのに、呼びつけて一方的に断って放置なんて……兄上がそんな非常識な真似をするとは思わなくて!」
「ミズチ殿、顔を上げて。まだ龍の本能に目覚めていないから、わからないのね。番いに選ばれなかった女性の対応なんてそんなものなのよ。
────いっそここまで脈がないなら、わたしもスッパリ諦めて次に行けるわ」
晴れやかに笑う姫に偽りの影はなく、見切りをつけられたのは兄の方だとミズチは悟った。
「……あの、ナミ姫さま」
覚悟を決めた顔のミズチが口を開きかけた瞬間、轟音とともに地面が揺れる。
片膝をついたミズチに姫はとっさに手を差しのべるが、追い打ちをかけるように激震が連続し、天井にまで達する亀裂が二人の間を引き裂いた。
「何なのこれ……天変地異!?」
体の芯に突き刺さるような大音量も、普通なら立っていられないほどの地震も、深海には無縁だった。
恐怖よりも大きな驚きに、姫はお付きたちと抱き合って耐える。
「ミ、ミズチ様、大変です。地龍様と雷龍様がいがみ合って、宮殿がめちゃくちゃに!!」
「お二方を止められるのは、ミズチ様しかおりませぬ!!」
翼を広げた鳥人の一人が、滑空してミズチの小柄な体を引っさらう。
平時なら不敬罪もいいところだが、相当焦っているようだ。
「……ナミ姫さま! 重ね重ねごめんなさい。ぼくは、兄上たちを止めてきます。一人従者を残しますから、姫さまとお付きの方々は、安全なところに避難してくださ────」
一瞬のうちに遠ざかるミズチを呆然と見送ってから、姫はハッと正気に返る。
────龍同士のケンカを、ミズチ殿が止めると言ったの?
「まだ子どものミズチ殿に何をさせるのよ!?」
「ああ、ナミ姫様っ、どちらに参りまする!?」
「お戻りください!!」
「姫様ーーーー!?」
足下の覚束ないお付きたちを振りほどき、長い裾の上着を脱ぎ捨て、姫はミズチの向かった方向……フラれたばかりの地龍の元へ逆戻りする。
ゴテゴテした正装が動きにくいだけで、姫は本来なら悪路でもスムーズに移動が出来る。
さらに全速力を出したおかげか、残された鳥人に連れ戻されることもなく、ミズチにどうにか追いつくことが出来た。
だが、そのミズチは家臣ともども天井の下敷きになる寸前で。
「危ない!!!!」
姫は本性を解き放つと、自ら渦中に飛びこんで行く。