終章〈3〉
まだ体調の万全とは云えないぼくは2~3日、野球部を休ませてもらうことにした。
放課後、学校帰りのぼくがバスでむかったのは、かつて宗重さんのお屋敷のあった麻蒜間市の南へ位置する図書館だった。
郷土資料室のコーナーで全8巻のブ厚い『麻蒜間市史』をひもとき、宗重さんたちのことを調べた。
『麻蒜間市史』の前に『S県の歴史』と云う本にもあたってみたのだが、犬山伏宗重と云う名前はどこにも載っていなかったからだ。
細かい文字がびっしりとならび、読んでいて目の痛くなるような『麻蒜間市史』の中世の歴史のところに数ヶ所だけ、宗重さんの名前があった。
宗重さんの事跡についてはなにも触れられていなかった。
宗重さんの没後、家督相続で宗重さんの子どもたちが骨肉相争う最中、戦国大名・後北条氏によって、大永4(1524)年8月に犬山伏家は滅ぼされ、麻蒜間市一帯もその支配下におかれたそうだ。
『麻蒜間市史』の近世の歴史のところにもざっと目をとおしてみた。
「江戸時代中期、小松川梅痩と云う俳人の下で瑞巌寺(俳句寺と称される)に文人たちのサロンが形成された」とあったが、坂木酔笑と云う俳人の名前を見いだすことはできなかった。
図書館をあとにしたぼくは郷土資料館にもよってみた。学生50円と云う入館料を払って入ると、ぼく以外の入館者はいなかった。郷土資料館にきたのは小学生の遠足以来だ。
さいしょのコーナーには、平台の陳列ケースに土器の破片や動物の骨や黒曜石からけずりだした矢じり、勾玉なんかが展示されていた。
以前だったらなんの感慨もわかなかっただろうけど、2000年前、狩人だったと云うぼくの過去世サウレオタムもこんな矢じりをつかっていたのかな? とか、この勾玉イレンカさんのものだったりして? なんてかんがえるとちょっと楽しかった。
ほかにもよくわからない旗とか、下手くそでボロボロの絵巻とか、ほこりをまとった木製の農機具とか、ガラクタみたいなものがおかれているなか、ぼくの目はあるものに吸いよせられた。
展示室奥おくの大きな陳列ケースに展示されていたひとふりの刀だ。
『脇ざし 十四世紀 戸仲井家蔵 麻蒜間市指定文化財』
説明板にはそれしか書かれていなかったが、みじかい刀身とともに展示されていたのは、うっすらと黄ばんだ鮫肌の白鞘だった。ぼくも刺繍地図でふるった宗重さんの脇ざしだった。
きっともうだれもこの脇ざしが、かつてこの一帯を治めた領主・犬山伏宗重の佩刀だったことを知る者はいないのだろう。
だけど、ぼくは知っている。ぼくだけは知っている。
かつて、まちがいなくこの世界に宗重さんの生きていたことを示す証を見つけた気がして、ぼくは胸が熱くなった。
4
郷土資料館をでたぼくは近くのコンビニでちょっとした買い物をすませると、ふたたびバスにのった。ぼくがむかったのは刺繍地図で邪神クンネセレマクを退治した瑞巌寺だ。
窓の外をながれるうす曇りの空をぼんやりとながめながら、刺繍地図の世界でも似たようなルートをとおったことを思いだした。500年前の麻蒜間市をしのぶよすがはどこにもない。
酔笑さんが云っていたように、室町時代の瑞巌寺と今の瑞巌寺はちょっと趣きがちがっていた。鐘つき堂と本堂の位置はおなじだったけど、本堂は室町時代のものより大きくて立派だった。
あたりまえの話だけど、江戸時代を生きた酔笑さんの見ていた本堂を300年後のぼくも見ているのだと思ったらなんだかふしぎな気がした。
境内の左手に縦長の植えこみがつづいていた。少し地面が盛り上がり、草花の植えられたところどころに30~50cmほどのちいさな句碑がぽこぽこと見えた。〈俳句塚〉だ。
ぼくは〈俳句塚〉へちかづくと酔笑さんの句碑をさがした。赤茶けて小さな山のようなかたちをした句碑のサインが雰囲気で酔笑と読めた。
これが刺繍地図で酔笑さんに見せてもらった句碑の本物だ。
酔笑さんはかなしい人だった。弱い人ではあったが、悪い人ではなかった。
だけど、酔笑さんのもつ心の弱さは、だれしもがもつ心の弱さなのだと思う。なにかほんのちょっとしたきっかけで心がマイナス面へかたむくこともあるだろう。
それを肯定するつもりもないけれど、自分はそうなってはならないと強く思う。
邪神クンネセレマクに喰われてブラックホールへと消えた酔笑さんの魂がどうなったのかはわからない。
邪神クンネセレマクにとらわれていた〈四人目の犠牲者〉安達由佳の魂が解放されたと云うことは、邪神クンネセレマクの力がかぎりなく弱まったことをしめしていた。
しかし、邪神クンネセレマクとともにブラックホールへ呑みこまれた酔笑さんの魂が解放された可能性はほとんどないそうだ。未来永劫ブラックホールの〈特異点〉へとじこめられたままだと云う。




