五頁目 新生活〇年目のある一日
プロローグから前回までのあらすじ
・両親殺された
・スチュアートについてった
・共同生活スタート
いきなり年月飛びます
薬物の話とかでてくるので注意
少女の朝は太陽の光とともに訪れる。瞼を透過する太陽の眩しさと朝の空気で目が覚める。のそりと起き上がると同時に伸びをする。くあ、と大きなあくびをひとつ。
ちち、ぴちちちち。
高く愛らしい声。窓の外では早くも鳥が活動を始めている。まだ暖かい布団に包まれて柔らかなまどろみを楽しんでいたい誘惑に駆られるが、ぐっと我慢。えいやとベッドから降りて靴を履く。同居人の男はまだきっと眠っていることだろう。
今日の服装はどうしようか……あまり動きまわる予定もないのだからワンピースにしよう。クローゼットからワンピースを取り出す。手持ちの服のほとんどは同居人やその友人がおさがりをくれたり、同居人の上司が貰い物だけど、と譲ってくれたものだ。地下室で生活していたころは両親が愛らしい、白くてフリフリでレースがたっぷりとした衣装を好んでいたため、洋服の六割近くは似たようなワンピースだった。着る服に迷ったときはいつも白にしていた。どんな服装でいても両親はよく似合う、可愛い、天使のようだと褒めてくれるが、白は特に喜んでくれた。そんな思い出があるためか、白いワンピースは嫌いではないが、どちらかといえば喜んでもらうためのツールとして着用していた節がある。ハリネズミの柄が入っているパジャマを脱ぎ、着替える。茶色のワンピースは全体的に落ち着いた雰囲気で、要所要所にあしらわれた刺繍がポイントだ。
そっと静かに自室から脱衣所へと移動する。オンボロ……いや、少々年季の入ったこの家はちょっと乱暴に進むだけでもすぐにぎしぎしと抗議の声を上げるのだ。もう何度も同じ朝を迎えているノエルは慣れたもので、比較的音が鳴りにくい場所を選びながら歩く。
同居人の穏やかな眠りを妨げるわけにはいかない。昨日もたくさん働いて疲れているだろうから。
脱衣所に置いてある洗濯カゴには昨日二人が着ていた衣類が入っている。それを洗濯機に放り込んでまわすだけの簡単な作業だ。注意すべき点といえば、同居人のポケットには変わったものが入ったままになっていることが多いので、洗濯機に入れる前に余計なものが入っていないかのチェックが必要になることだ。洗濯機をまわしている間に顔を洗い、髪形を整える。
次にキッチンへ。ノエルは小食で、特に朝はあまり食べられない。けれど朝は食欲がなくてもなにか口にしておけという同居人の教えを守って毎朝頑張ってパン一切れだけでも食べるようにしている。湯を沸かし、冷蔵庫からジャムの瓶と牛乳をとりだす。常温で置いてあるパンのなかから小ぶりのものを取り出し、ジャムをつけて食べる。ママレードの酸味と甘みがパンの素朴な味わいに華を添えている。立ち食いは行儀が悪いと知らないわけではないが、誰も見ていないところなので多少のことはセーフということにしている。よく噛みながらゆっくりと朝食のメインを食べきり、牛乳を飲み干す。少し物足りなさを感じて、冷蔵庫の中で眠っていたドライクランベリーをつまむ。
ピュウ、と湯が沸いたことを知らせる音が鳴る前に火を止め、コーヒーを淹れる。インスタントだが、味が濃くて美味しいと評判である。ノエルは飲まないが同居人が愛飲している。耐熱のマグカップにフタをしておけば、あと一時間程度は淹れたての熱を保持してくれることだろう。同居人は朝、起きぬけによくコーヒーを飲んでいる。いつもの調子なら、一時間後に目覚めて温かいコーヒーを飲むことだろう。
脱衣所に戻ると、洗濯はもう終わっていた。洗濯カゴにすべて取り出し、外に出る。この家は敷地を広くとっているが、物干しと駐車場くらいにしか使っていないのがもったいないところだ。雑草を刈り取って庭でもつくれば、ちょっとした家庭菜園やガーデニングはできそうなものだが……世話をしきれなくなる未来がくっきりと見えたのでこの案はなかったことにしよう。
二人分の洗濯物はそう多くはなく、干す時間も労力もそれほど必要ない。さらに、同居人は仕事に使った服をすぐに捨ててしまうことも少なくないため、実際には一人分と半分の量だ。それをぱんぱんとシワにならないようにしてから物干し竿に干していく。
「よし」
空になった洗濯カゴと風になびく洗濯物。もうすっかり顔を出している太陽の光は強く、今日もよく乾きそうだ。満足して頷く。朝の仕事は終わりだ。
自室に戻ると身支度の仕上げにかかる。するすると二つの三つ編みをつくり、ゴムで留める。一定以上の長さのある髪は結んでしまう方が楽だ。小さいころなどは同居人に結ってもらっていた。髪の毛を弄ってもらうと気持ちよくて、自然に近い距離でいられるので好きだったが、この年になってまでしてもらうのは恥ずかしい。いつからか髪の毛は自分で結い上げるようになっていた。置きっぱなしになっているいつものカバンを肩に提げる。ちらりと横目で時計を確認すればいつもの時間。そろそろ出発しなくてはならない。
玄関へと向かう前に、同居人の部屋へ入る。こんもりと盛り上がっている掛布団の下では健やかに眠っている姿があることだろう。部屋主を起こさぬように侵入したノエルはまだ夢の中だろう同居人に向かって小声で「いってきます」と声をかけた。
・
スチュアートとともに引っ越してきたこの町は、かつて貿易で栄華を極めていたらしい。整備された港を商人が行き交い、郊外には計画的に設計された住宅地が建ち並び、物も人も最高級のモノが集まる理想郷。幾人もの若者が夢を追い求めてこの街へとやってきていた。美しく整えられた街並みはちょっとした名物で、ここに別荘を持つことは一種のステータスだったとか。
その誇りが今や過去のものへとなってしまったのは、悪しき薬が蔓延ったことが原因とされている。悪しき薬――いわゆる、ドラッグだ。刺激を求めてやってきた人々の中には、さらなる強い刺激を求めてそういったものに手を出す者たちが現れる。人の行き来がさかんな場所で行われる取引は逆に絶好の隠れ蓑となった。人から人へ、中毒者が健康な者を強引に誘ったこともあっただろう。パーティと名のついた怪しい集会が度々行われた。たくさんの人が集まることで栄えていた街は健康的だった姿を失い、一番の強みだった交易は薬物の密輸が為されていると禁止されてしまった。
産業がなくなればもう魅力のない町に残る人などいない。出稼ぎに来た者、夢を追って来た者は地元へと帰り、商人は貿易相手を変え、元から街に住んでいた者も町を見限り他の土地へと移住した。荒れてしまった土地に残ったのは、それでも土地から離れられなかった地元の者と、帰れなくなった者だ。他に居場所がない人間がたどり着く終着地点、名前を失った町、それがここだ。多くの人が見向きもしなくなった町で偽名を使う人は決して少なくない。だってこの町に、ワケアリは多すぎる。
「ディーノ先生、さようなら」
「さようなら」
にこにこと学び舎の唯一の教師、ディーノ先生が小さく手を振った。都会の有名な学校で教師をしていた先生は、病を患ってしまったお父さんの世話をするために故郷に戻ってきたらしい。言葉を覚えるのは早くとも、その意味がなかなか実感として理解できなかったノエルに付き合って熱心に指導してくれた恩師だ。
「ノエル! 一緒に帰ろ」
「うん」
ノエルと同じく勉学に励む同い年の少女、サディア。金色の髪に海のように深い青の目。後ろ姿は女性らしい丸みを帯びた大人っぽくみえるスタイルなのに、あどけなく愛くるしい笑顔と頬のそばかすが彼女を年相応にさせる。彼女に苗字はない。手紙と一緒に段ボールに入れられていたところを拾ってくれた娼婦が母親代わりになってくれているんだと教えてもらった。
娼婦がいるということは、お金を出す男性がいるということ。落ちぶれてしまったこの町には、花形だった交易の代わりに薬物の売買の場として非常に有用に機能している。怪しいものだらけの町だ。そういう町に堕ちてしまった悲しい街だ。
「今日はねー、魚が安いんだってお向かいさんが言ってたんだ!」
「そうなんだ。私も今晩はお魚にしようかな」
帰り道をサディアと連れ立って歩く。レンガで建てられた施設、白い道。管理するものを失っていくらかの劣化や雑草が見受けられるが、寂れて静かな町の景観は好きだ。
スチュアートとともに引っ越してきてはや幾年月。地下室で両親と三人だけの完結した世界で生きていたノエルはその閉鎖的に生きてきた時間をうっすらと思い出すくらいにしか思わなくなってきていた。当時はわからなかったことだが、さまざまな知識を蓄え、人としてあるべき感性というものを身につけたノエルには、あの日部屋で転がっていた不可解な人型を死んだ両親と認めることができるようになっていた。生命活動を停止した人間は、あらゆる筋肉が緩むし皮膚も伸びるのだ。そして、家族ではない第三者たるスチュアートがノエルの家で行ったであろう殺戮行為についてわからないほど、もう子どもではない。
スチュアートは両親を殺した。仕事として。お金を稼ぐために。そこに思うところがないといえば嘘になる。けれど仕事として成立しているということは、お金を払うことで安全な場所から両親の殺害を依頼してきた人間もいるということだ。スチュアートは仕事のことについてノエルになにかを教えてくれることはない。所属している組織の名称すらノエルは知らないし、普段のスチュアートがどんな仕事をしているだといか、その内容がどんなに非情で恐ろしいものなのか……スチュアートは明らかに意図的に、ノエルが知らずに済むような立ち回りをしている。共に暮らすようになってからかなり経つが、ノエルがスチュアートについて知っていることはそう多くない。彼の生い立ちであるとか、どういうつもりでノエルを生かしたのか、とか。
「あんれ、サディアちゃん。久しぶりだね」
「おじさんこんにちは。魚が安いって聞いたから来ちゃった! 大漁だったんだね」
「こんにちは」
「ノエルちゃんも、こんにちは。そうなんだよここ数年で一番の漁獲量になってんじゃねえか? ……獲れすぎたせいで売り捌くのが大変さ」
「先月の台風が影響してるんだっけ」
「そうさなあ、水温が変化したんだろうな。今日一番仕入れたやつなんかは本来ならもうちと寒くなってきてから獲れるんだが……ま、そういう年もあるさ。今日はどうするんだい? こいつとかこいつは脂がのってて旨いぞ」
魚屋のおじさんがおすすめしてくれたアジを二人で購入して家路につく。学び舎を出たときよりも伸びた影が二人のあとをついてくる。
「昨日ね、月がよく見えてきれいだったからずーっと空を見てたんだ」
「私もみたよ。満月にはまだちょっと遠いけど、きれいだったよね」
「そう! もう魅入っちゃって。そしたら流れ星がね」
「流れ星みれたの? いいなあ」
「そうなんだ。惜しいことしたねー、三個くらい連続できたんだよ」
「そんなに!?」
「ね。すごいよね」
「すごい!」
なにかと不穏な空気を纏う町だが、この町で多くの時間を生きて平凡に暮らすノエルやサディアにとっては、過ぎていく日々は穏やかな日常だ。怪しい取引だとか薬物の売買だとか、殺伐としたことがこの町のどこかでは行われているのだろう。けれどそれは、直接的にはノエルにもサディアにも関係のない事だ。
健全な女子学生の雑談には怪しげな話題など上らない。今日買った魚の調理をどうするだとか、誰が誰を好きだとか。今日も今日とて、彼女たちの日常は平和であるのだ。
「それじゃ、ばいばーい!」
「また明日」
白い看板が右を示している分かれ道が、ノエルとサディアが別れるポイントだ。看板の示す方へ行くと繁華街、逆の方向へ行けば住宅地だ。サディアと道の途中で別れると、元気よく走って行ってしまった。彼女の家は繁華街のすぐ裏なので、あまり帰りが遅くなると道が混雑してしまう。あのあたりは夕方以降、太陽が眠り月の時間になってからが稼ぎ時だ。混雑を避けるため、買い物などでゆっくりしてしまった後には必ず彼女はノエルと別れてからの道を走っていくのだ。
見送りはほどほどにしてノエルも自宅への道を早足で帰る。あの白い看板はノエルが越してくるよりもっとずっと前からあるものだ。住宅地といってもそれは町がまだ栄えていたころの話で、建ち並ぶ家々でも空き家は少なくない。ノエルとスチュアートのように事情があって家を借りている者もいるが、そうした人は姿を見せたがらない人が多い。ご近所さんでも、ノエルが顔を知らない人はいる。
「ただいま」
家の鍵を開けて帰宅の挨拶。しんと静かな自宅に人の気配はなく、答える声もない。スチュアートが帰ってくるのはもう少し日が暮れてからになるはずだ。買ってきたばかりの魚の鮮度が落ちてしまう前に、調理してしまおう。通学カバンはリビングのソファに置いて、キッチンへと直行する。冷蔵庫にアジをしまいこむ。常温で放置する魚は怖いのだ。
脱衣所に置いてある洗濯カゴを掴むと、干してあった洗濯物を取り込む。玄関から一番近いリビングに一度運び込み、丁寧に畳んでいく。畳んだ服はスチュアートのものならスチュアートの自室のベッドに置き、ノエルのものはそのままクローゼットにお片付けだ。そういえば、洗濯するときはスチュアートとノエルのものを一緒にして洗ったり、スチュアートがノエルの物を干したりしているが、年齢を鑑みるとそろそろ気恥ずかしい。だが今更下着を見られるのが恥ずかしいというのも変な話だ。スチュアートは気にしていないのに、ノエルだけが意識しているように思われるのは嫌なので、やっぱり洗濯は二人で行うのだろう。洗濯カゴを脱衣所に戻して、キッチンへ戻る。
気を取り直そう。最近、アジの捌き方を教えてもらったおかげで、一尾まるっと捌ける気がする。魚が安いと聞いた時から試してみたいと思っていたのだ。まずはウロコを包丁でとってしまう。頭を切り落とし、内臓を抜いて血などを洗い流す。内臓を引き抜く感覚や絵面はどぎついが、血合いなどを洗い流してしまうとすっきりカラッポになってしまうのはなかなかに達成感がある。水洗いを済ませたら、いよいよ三枚におろしていく。包丁が魚の骨を切るぱきぺきという音が小気味よくて面白い。まだ上手く切れないせいで、中骨にかなり身がくっついてしまっている。上手くなるためにはもっと数をこなす必要があるだろう。三枚におろした身の皮をとり、内臓を守っていた骨を剥ぎとれば残った身は切り分けて刺身にする。
頭と尾は捨ててしまい、残った部分は小麦粉をつけて油でじっくり揚げる。高温にせずに低温からじわじわと火を通せば骨も煎餅のように食べられるよ、とはカンナギに教えてもらった。同じ文化で育った仲間が少ないせいか、カンナギは故郷の食べ物だとか遊びだとか伝承だとか、そういった話をするのが好きらしい。煎餅と緑茶を気に入ったノエルの味覚にもっと故郷の味を仕込みたいと思ったのか、時折送られてくる手紙や品には東の国の食べ物やその調理法について書かれたものが多い。そうしたものを目にしては、次はこれを試そうあれをつくろうとノエルの心は踊るのだ。
揚がったアジを皿に盛っていきながら残りのメニューをどうするか考える。先日つくった残りのポテトサラダと……あとはスープでも用意しておけば、今夜の食事は完成でいいだろう。主食はもちろんパンだ。どっしりと重く、酸味のある噛みごたえのある素朴なライ麦パン。あっでもやっぱり肉も欲しい。
「ただいま」
安定した低い声。鬼頭家の大黒柱のご帰宅だ。火を止めて玄関に迎え出てみればスチュアートがパーカーを脱いでいた。
「おかえりなさい」
すん、とスチュアートが鼻を鳴らした。職業柄、匂いや音といった環境の変化には敏い。
「おう……油っぽい匂い。なにか揚げてるのか?」
「うん。安かったから、アジを」
「なんか、日を追うごとに料理のレパートリー増やしてるな」
ノエルを引き取り、保護者代わりに面倒をみるつもりだったスチュアート。しかし彼は諸事情あってまともに教育を受けていなかったため、ノエルの子育ては難航すると予想していた。ノエルがこうして家事を進んでしたり、あまつさえスチュアートと”普通に”接するなんて、数年前のスチュアートなら想像もできなかっただろう。むしろ今でも、夢みたいに都合のいいノエルの態度を信じられない思いでいる。
「シャワーだけしてくる。飯、ありがとう」
ぽんぽんと、まだスチュアートの肩までしかない高さの頭を撫でる。そういえば、背が伸びた。一緒に生活しているとなかなか気づく機会がないが……。
ノエルはもうスチュアートが両親になにをしたか、知っているはずだ。もっと邪険に扱われてもいいはずだが……一緒に暮らし始めてから徐々に築いてきた関係や好意的な態度を崩す様子は見られない。ノエルの心中を察することができずにいる。あの頃の予感は外れてしまったのだろうか。否、もっと力をつけるまで油断させておこうという腹かもしれない。
「……うん」
嬉しそうに頷くノエルはそこだけを見れば愛らしい少女である。和やかな表情につられてスチュアートも微笑み、そのままシャワーを浴びるべく浴室へと向かう。
……こちらに越してきた頃などは本当に力のない幼女だった。それが――身長もそうだが、まろい頬は頬骨にそってシャープな輪郭を描くようになった。胸まで伸びた髪をおさげにまとめて、指はピアノ奏者のように長い。向こう側の景色が透けて見えそうなくらいに白かった肌は、日常生活の中で日光に当たったおかげか、白は白でも、人の肌らしい存在感を得た。アメジストの瞳だけは変わらず見る者を深淵の縁に誘い込むような危うさと怪しさが漂っている。少女に成長したノエルは実に美しくなっていた。成長期もまだ半ばだ。きっとこの子は今にもっと美しく成長するだろう。
腹の中に一物抱えているのだとしたら、それを隠し続けているのだとしたら――大したものだ、とスチュアートは思う。
「褒められた」
スチュアートが去った後、そっと触れられたところを撫でる。彼の生い立ちだとか、どういうつもりでノエルを生かしたのか、今も家族ごっこを続けている理由だとか。そのあたりのことはノエルにはわからないし、スチュアートも教えてくれない。けれども、今ここにある平穏が証明してくれている。スチュアートは縁あってノエルと出逢い、ノエルを生かすために保護者役を買って出、そしてノエルとの共同生活を――少なくとも当面の間は――継続するつもりであること。イコール、ノエルと生活することを悪くないと思ってくれていること。例えばその事実が真実であったなら、嬉しいな。
「あっ、お皿だしてない」
キッチンに戻り、食卓の準備を整える。シャワーだけならすぐに出てきてしまう。殿方のシャワータイムはどうしてああも短いのだろう。浴びるような量の血に濡れておきながら気にも留めないのだから……。風呂上りでも、時折鉄臭さがとれていないときだってある。嗅覚に優れているのに、唯一血の臭いだけは感覚が鈍るようだ。そういう臭いに慣れきってしまう仕事内容ということだろうか。血は洗濯してもなかなか落ちないのだから、もう少し血に汚れない工夫をしてから仕事をしてくれないだろうか。
……他人の命よりも、洗濯の面倒臭さをメインで考えてしまうあたり、ノエルも相当血生臭さに染まってしまっているようである。
「刺身? カンナギさんところで食べたっきりだなあ」
背後、頭の上から降ってくる。スチュアートを振り返れば、水が滴っている髪の毛が目に入る。肩にかけたタオルが落ちてくる水滴を辛うじて受け止め、吸収している。
「カンナギさんにやり方を教えてもらったの。……スチュアート、座って」
「お? おう」
素直に椅子を引いて座ったスチュアートの肩からタオルを引き抜き、頭にふわりとかぶせる。上から指の腹で撫でるように拭いていく。
「髪、濡れてる」
「悪いな」
たまに、髪の毛からぽたぽたと水滴が落ちているのにシャワーから戻ってくることがある。それを発見する度に、問答無用で拭うのがノエルのやり方だ。
スチュアートは髪が短い。オレンジに近い赤髪はざっと拭うだけでも、粗方の水分はタオルが吸ってくれる。
「終わり」
「さんきゅ」
使い終わったタオルをスチュアートが受け取り、脱衣所へ向かう。タオルを洗濯カゴに入れてすぐに戻ってきた。
「またせた」
「いえいえ。それでは」
感謝の祈りを捧げる。この食事を与え賜うた主に、父に。
やや冷め気味になってしまった食事だが、味は安定していた。捌く段階で上手くできなかったアジは期待した弾力がなく、やはり練習を積む必要があるようだ。一方で、揚げただけの骨煎餅が美味だったことが少し悔しい。アジの旨みが逃げることなく衣の中に閉じ込められている。パンを食べながら……うむ、しかし東洋料理にライ麦パンは合わないな、と思った。米にするべきだったか。
「ご馳走様」
食べるのが早いスチュアートが食器をさげる。少し遅れてノエルも食事を終える。シンクまで運べば、スチュアートが後片付けを引き継いだ。同居生活を開始した当初、スチュアートはもとから家事もすべて自分がするつもりでいたらしい。以前、一時期ハロルドと生活したことがあるそうだ。家事は当番制だったが、互いにその仕事ぶりに満足いかずに喧嘩が絶えなかったのだとか。エスカレートしていった家事問題は相棒解消の危機にまで発達したが、結局はスチュアートがひとり暮らしを開始することで事なきを得たのだとか。故に家事は自分が納得いくまでできるというスチュアートにノエルが次々と”お手伝い”を申し出、家事スキルを身につけたことにより家事をすることを認めた。そして現在、家事は手が空いている者がすることになっている。ノエルの家事スキルは今やスチュアートのお墨付きだ。
スチュアートが洗い物をしてくれているので、ノエルもシャワーを浴びた。手についた魚のニオイがなかなか取れず、長風呂になってしまった。
シャワーからあがると、リビングでスチュアートが新聞をひろげていた。紙面とにらめっこしながら首を傾げている。
「……に…………ぶ、きたる」
「飛行機発明! 人類に空飛ぶ未来きたる! ……実用化はまだ先みたい」
「飛行? 空を飛ぶのか」
「車が陸を走るように、空を走るための機械ができるんだって」
「へぇ、てことは、こっちの絵が」
「飛行機の完成予想図」
「へぇ」
しきりにへぇと感心するスチュアート。
「こっちは? こっちはなんて書いてあるんだ?」
「近い未来に実現可能そうな物事を書いてあるよ。ペットと会話ができるとか、宇宙に行けるとか、一日で世界一周できるようになるとか」
「できるのか」
「可能性の話だから……、でも飛行機が飛ぶようになったら宇宙も行けるようになるかもしれないね」
他愛もない話。だが、この国の闇がここにはある。スチュアートは文字の読み書きがあやふやだ。教育を受けるよりも働いて日銭を稼ぐ必要があったのだろう。一通りの読み書きができないのだ。簡単な単語なら拾って読むことができるが、熟語となってくるとさっぱりだ。書く方はてんで駄目。ペンの握り方もめちゃくちゃだ。自分の名前のサインだけはカンナギから教わっていると胸を張っていたが、逆に言えば名前のサインしかできない。計算に至っては、数字の順番しかわからない。例えば買い物に出かけるとスチュアートは一店舗あたりひとつしかものを買わない。計算がわからないのだから、五ドルと書かれていたら五ドルちょうどを出すしかないのだ。ただでさえ治安の良くないこの町で計算もできないとわかれば、絶対に金額をちょろまかされる。
対してノエルは地下室生活の間、暇だろうと両親から与えられた書物や落書き帳のおかげで大抵の読み書きと簡単な計算はできた。学び舎に通い始めてからはさらに知識を身につけてきている。
「この字が飛ぶ」
「飛……ぶ」
「そうそう、上手に書けてる」
ノエルが唯一、スチュアートに提供できるものは知識だ。スチュアートには必要最低限の学が備わっていない。それが判明したのはつい最近だ。”頼れる大人”としてのポジションを確立していたスチュアートが、弱みをみせたのだ。成長し、さまざまな事柄に対して聡くなったノエルを相手に隠しきれなくなったともいう。就寝の少し前、それはノエル先生とスチュアート学徒のマンツーマンでの勉強の時間だ。カリカリとペンが紙を引っ掻く音と教科書代わりの新聞をめくる音。ひとつの記事に登場する言葉を一通り解説とともに書き取りを終わらせれば、次は計算だ。足し算と引き算をマスターできれば、まどろっこしい買い物の仕方になることはないだろう。
ポン、ポンと軽やかな時報が夜の九時を告げる。就寝時間だ。
「今日はここまで」
「ありがとうございましたー」
学び舎の真似事にくすりと笑みがこぼれる。ノエルの解説に真剣に耳を傾け、ノートの書き取りをするスチュアートは――こういってはなんだが――ひどく幼い感じがした。大きな生徒は明日も仕事がある。机の上の片付けを手早く終わらせるとまっすぐ自室に向かう。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
就寝の挨拶を交わし、ノエルも自室のベッドへと沈み込む。しばらくごろごろと転がり、まどろみに意識を攫われかけて、はっとして起き上がる。いけない、忘れていた。
ノエルの習慣、日記だ。父もよくものを書いていた。ノエルも書くことが好きだ。書ければなんでもいいが、日々の記録を残すというテーマがある点において、日記は実に優秀な趣味である。日付とともに、今日はあれを学んだ、差ディアとこんな話をした、魚が安かった、飛行機の記事で書き取りをした等々。なにもない日々を文字に起こして一日の記録をつけていると、明日はなにがしたいかを考えてしまう。なんといってもノエルは自由だ。寒い地下室にひとりでいることはないのだ。
靴を脱いで布団に入る。目を閉じる直前、部屋の入口に白い影が立っていたのを視界の端で捉える。小さな女の子のように見えたそれは一瞬が魅せた幻覚だった。……あれ、この家は幽霊がでるのだろうか。気づかぬ間に幽霊とともに共同生活を営んでいたとは驚きだ。驚きだが、今日はもう眠たい。朝がきたら、朝になっても覚えていたら、学び舎の帰りに大家さんのところへ寄って、幽霊が住み着いていないか聞いてみよう。ひょっとしたら以前住んでいたゴミ屋敷の住人はゴミのなかで幽霊になってしまったのかもしれない。
眠さのあまりゆるゆるに溶けてしまった頭で、つらつらと幽霊について考えていたらいつの間にかすとんと深い眠りの海へと沈んでいた。
おやすみなさい、良い夢を。