四頁目 大掃除と予感
十秒でわかる前回のあらすじ
・スチュアートとハロルドの上司、カンナギ現る
・ノエル死亡ルート回避
・茶柱たった
ザァアア。
心地良い風が凪ぐ。草が揺れる。踏みしめる土。穏やかな空と、都会では嗅ぐことのない爽やかな自然の香り。一等地にあったノエルの自宅や薄暗いカンナギの事務所があった場所では得られないものばかりだ。
白い柵に囲まれた家。多少年季が入っており決して大きくも立派でもないが、二人で住むには十分な広さと愛着が湧きそうないい家である。新しい入居者となるスチュアートはボストンバッグひとつ。手を繋がれたノエルに至っては私物がないため完全に手ぶらである。
「ここか」
スチュアートがノックすると、ガチャリとドアが開いて腰の曲がった老婆が顔をだす。大家さんは美人だが昔から口下手でとっつきにくいかもしれないとカンナギから聞いているが、もしやこの老婆がそうだというのか。
「今日から住むっていう、鬼頭ってのは、あんたらかい」
……どうやら、老婆が大家で間違いはないらしい。昔から美人という触れ込みだが、愛想のまるでない気難しそうな現在の大家の表情からは”美しい”の”う”の字も当てはまらなさそうだ。大家の若いころを知っているということは、カンナギはいま何歳なのだろうか。東洋人の顔というものは、いまいち年齢がよくわからない。
新居の手配を申し出たのはカンナギからだった。
『どうせならゆっくりできるところがいいよねぇ。有給もためこむ一方だったようだし……そうだ、知り合いに貸し家をしている人がいるから、話をつけておいてあげるよ』
わざわざカンナギが出向き、その際に契約もしてしまったのだろう。カンナギの故郷の苗字を偽名として使ったのは、おそらく偽名とわかるようにするためだろう。もともとこの新居のある町は素性の知れない者や他の土地で居られなくなった者……いわゆるワケアリが多く住んでいる。本名で契約ができる立場の者ではないから不用意に近づかない方がいい、と。ある種の予防線だ。
「ああ、そうだ」
「ふん。契約書は読んだだろうね。家賃さえキッチリ出してくれりゃあ、家を壊しでもしない限りあたしゃ何も口出ししないよ」
「それは都合がいいな」
「そういう物件を選んだのさ。カンナギが部下のために家を用意するっていうからね。どうせガサツな荒くれ者が来るんだろうと思ってたんだが……ちっこいガキがさらにちんまいガキを連れてきたじゃないか。こんなのを構成員にするなんてよほど手駒に困ってるんだろうよ」
ヒヒヒ、と怪しげな声とともに肩を震わせる大家。もしかしなくても笑われている。ムッとしたスチュアートが咎める言葉を口にしようとした瞬間、なぁに老い先短いババアの冗談さと黙らせるように先手を打たれた。
「ざっと掃除はしているが、気に入らないなら自分でやりな」
老婆はスチュアートに鍵を渡す。入居にあたっての説明も面倒なのだろう。早く終わらせて帰りたいという空気がひしひしと伝わってきた。
「お世話に、なります」
「……町の診療所の向こうに岬がある。一本道で迷うこともないだろう。そこがあたしのうちだ。なにかあったら、相談になら乗ってやらんこともない」
来ないのが一番だがね、と老婆は言い捨てると、ノエルとスチュアートが歩いてきた道の――この地方で唯一の街がある――向こうへとさっさと歩いていく。
全体的に嫌味が効いていて無表情なバアさんだ。カンナギはあのバアさんのどこに”美人”な要素を見出したのだろうか。昔は若さで誤魔化せていたかもしれないが、今の感じではただの陰険ババアではないだろうか。辛うじて優しさを垣間見せた最後のバアさんのツンデレに至っては嬉しさだとか感謝りも気味悪さすら感じたなとちょっと遠い眼をしたスチュアート。
それも数秒のことで、新居の確認のため家の中へと入る。この町の建物はどれも似たような色で統一されており、尚且つやや洒落たデザインになっている。計画的な町づくりをしていたそうだが、まるでチェスの盤上のようにきっちりと配置された建物の数々は空から見下ろせば大層壮観なものだろう。これだけこだわってつくられた町であれば、家の中だってきっと期待できるものだ。そして入って一歩目の玄関で足を止めた。スチュアートが立ち止まっているため中に入れないノエルは、不思議そうにスチュアートの背中を見つめた。
「ノエル」
「なに、スチュアート」
「あのバ……大家さん、ざっとだけど掃除してるって言ってなかったか」
「? 言ってたね」
スチュアートは言葉を失った。いっそ頭でも抱えてやろうか。ノエルが背後でもぞもぞと動く気配を背中で感じる。スチュアートの身体を避けて家の中を見ようとしているようだ。少し体を横にずらして家の中を見せてやる。あっと息をのむ小さな声がした。それからスチュアートを気遣うような視線が投げかけられる。
「気に入らないなら自分でやるように、とも言ってたね」
「……あんのババア……!」
力の限り忌々しい気持ちを込めて吐き捨てる。ノエルが怯えるかもしれないという危惧は怒りで打ち消されてしまった。
ざっと掃除もなにも、人ひとり通れるか否かという怪しい動線が残されているだけであとはゴミの山、ホコリの山。ごちゃごちゃと物が乱雑に積み上げられているなかを辛うじて通れそうな隙間。大家が掃除したというのはこの隙間のことだろう。ホコリが積もって白くなっているなかを一筋だけ元の床だろう木目が見えている。足の踏み場もないとはまさにこのことだろう。東の国にはこの惨状を一言で言い表す便利な言葉があるそうだ。ゴミ屋敷、というらしい。
意外にも、スチュアートの地を這うような怒りの声を聞いてもノエルは怯えも動揺もしなかった。その代わりに行動に出る。ノエルは家の外、雑草が生えてやわらかな絨毯のようになっているところにスチュアートが持ってきたボストンバッグを置く。明らかに掃除を必要としている家の中に持ってきた荷物を置いてしまえば、ホコリまみれになってしまう。
「大丈夫、私も掃除できるよ。人が通るところはきれいだから、大家さん、本当に掃除したんだと思う。ほら、ここにホウキもチリトリもあるよ」
大量のゴミを前に怒りを一瞬で通り越して放心状態に突入しているスチュアートを慰めるべく、ノエルは懸命に動く。人が通るところ、と表現したがそれはやや誇張したもので、実際は隙間と呼んだ方が相応しい。
することのなかった地下室では、掃除も立派な娯楽の一つだった。部屋を汚すような生活はしていなかったが、人間が生きていれば汚れというものはどこかに蓄積されていくものだ。そうした小さな汚れの芽を見つけては細かに掃除をしていた。数少ないスキルを活かせる機会に恵まれて内心喜んだ。当然、これほどまでに酷い現場を見たのは初めてで圧倒されたが。
あ。ゴミ袋みっけ。
「……そうだな。前の入居者がこの状態にしたまま出ていって、大家さん一人じゃ片付けができなかったのかもしれないしな」
掃除と片付けが壊滅的に下手な人間は確かにこの世に存在する。そういった人間が一人暮らしを始めた場合、まず家の中が魔界の如くゴミやら趣味の道具やらで埋め尽くされることになる。家主が片付けることができないため、どんどん部屋を侵食していき、ついには生活が困難なレベルに達する。そうなると普通の片付けもできない家主が片付けを遂行することは不可能だ。そうなった家主は、引っ越しをすることで環境をリセットするらしい。スチュアートが仕事をこなしてきた中でも、ターゲットの中にそういった性質の人間はいた。情報として知っていることには知っていたが、次の利用者として目の当たりにすると恐ろしいほどの迷惑をこうむるということが今回で分かった。次からこうした汚部屋の主がターゲットになった場合は容赦なくガンガンいこうと思う。
飛ばしていた意識がようやく戻ってきたスチュアートは外に出、また戻ってくる。その手にはマスク。持ってきていた荷物のひとつのようだ。ノエルと装着して、汚れた空気に備える。
「まずは、ガラクタを全部外に出すぞ。手伝ってくれ」
「うん!」
人の住める空間を求めて発掘作業に入ること二時間。玄関口からリビングまでが人の住める空間としての意義を取り戻した。全て破棄していいものだと思いながらする掃除は必要・不要の区別をすることもなくゴミ袋に突っ込めばいいだけなので、普通に自室の掃除をするよりも遥に捗った。途中で発掘した掃除道具の中でも使えそうなものはどんどん採用していき、掃除が後半に差し掛かってくる頃には慣れてきた二人の洗練された無駄のない動きと効率的な掃除道具の効果でみるみるうちに家としての役目が取り戻されていった。
丈夫そうな机と革張りのソファは水拭きをしただけですぐに息を吹き返してくれた。
「ちょっと休憩挟むか」
「うん。こっちだけ少し片付けたらそうする」
どかりとソファに座り込むスチュアート。……果たしてこのソファはどれくらいぶりに人が座ったことになるのだろうか。良質なものであることは一目瞭然だが、いかんせん家具として眠っていた時間が長そうなのがもったいない。ノエルはここだけ、ここだけと時折口にしながらも黙々と大掃除を続行している。捨てる行為の癖になるような楽しさにハマってしまっているのだろうか。
ノエルのお手伝いを微笑ましく見守っていたスチュアートは少し先のことを考えて背筋を震わせる。この家が異常に汚かったというだけで、スチュアート自身は元来、掃除や部屋を美しく保つことが苦手な方であった。これはいざ生活を開始したら、私物を置きっぱなしにはできないな。片付けと称しながら捨てられてしまうかもしれない。
「潔癖症……とは違うよな? 習慣できれいな状態を保とうとしているだけで。普通にしてたら……大丈夫、だよな?」
そう言いながらも、渋い顔になっていく自らの表情筋を自覚した。
「スチュアート! こっちはキッチンになってるみたい」
ノエルが隣の部屋からひょっこり頭を出してきた。部屋の全容がわかる程度の片付けは粗方終えたのだろう。どれどれと様子を見に行けば、備え付けられていたのだろうと思われるもの以外に物はなかった。
昼休憩と称した食事を軽く済ませ、そこからはまた大掃除を再開した。二人が奮闘したことにより、日が暮れるころにはようやく家としてのその全貌が見えるようになった。一階部分は共同フロア……、リビング、キッチン、バスルーム、トイレ、部屋が二つ。二階は部屋が四つ。一応、屋根裏部屋もあるようだが、そこまでは手が回らなかったし使う予定もないので手を付けていない。外観からは部屋数がそれほどあるようには見えなかったのだが、一つひとつの部屋が広くない代わりに部屋数が多いようだ。それでも冒頭でも言ったように、二人で暮らすだけなら十分の広さだ。生活が落ち着いてきて、ノエルが望むようであればペットを飼ってやることも考えてもいいかもしれない。
「さすがに疲れたね」
新生活初日にしては労働量が尋常でなく、幸先がいいとはいえなかった。しかし効率重視で動いていたためか、交わす言葉は短くよどみないものが多かった――結果、ノエルの話し方が遠慮がちで迷いながらの拙いものから、言いたいことをストレートに伝えるものに変化していた。本日一日の労働はキツかったがこれはひとつ、収穫があったといえるだろう。ノエルがスチュアートに慣れた瞬間だ。
そうして始まった生活だが、スチュアートにとってもノエルにとっても、他人と暮らすのは初めてのことだった。ノエルは昼間、港近くにある元土産物店で近所の子どもたちに混じって勉強をしている。都会で教師をしていた人が教鞭を握っているのだそうだ。その間、スチュアートは組織の仕事をしている。目立った仕事を抑え気味にしている分を裏方仕事で補っている。数日、家に戻れないときもあった。
両親を殺された幼子と殺した張本人である殺人犯との二人きりの身の毛もよだつ共同生活。血塗れた関係にある二人だが、ノエルは未だ、スチュアートが両親を殺したことには気付いていない。地下室を出てすぐに踏みつけた血が父親のものだと知らない。転がっていた肉塊が両親とはわからない。死が、わからない。ノエルが真実を知ってしまえば、二人の関係は大きく変わることとなるだろう。復讐者となって成長したノエルと対峙するであろう未来。それがいつになるかは分からないが、スチュアートは案外遠くない未来に起こるだろうことを予感していた。みすみす殺されてやるつもりは毛頭ないが、怪しくも美しい紫に鋭い殺意の強い意志の光が宿るのはどうにも悪くないように思えた。
本編でアレな書き方してますがスチュアートは別にドMではないです