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プロローグ

 私は昔から、聞き分けのいい子どもだ。


「いいかい、地下室の扉は絶対に開けてはいけないよ」


 父の言いつけにこくりと頷く。地下室の出入り口は重い鉄の扉になっていて、鍵がなくたって私のようなもやしっ子には開けられそうにない。にもかかわらず、父は念を押すようにほとんど毎朝確認してから仕事に出かけていく。

 そのあとを追うように、母も出発の準備を整えていく。


「あれっ、お母さんもお仕事?」

「ごめんね。ひとり来られなくなったから、お母さん行かなくちゃいけなくなったの。夕方には帰ってくるからお留守番お願いね。それから、お父さんは帰りが遅くになっちゃうって言ってたから、今夜は先に寝ていようね」


 伸びてきた髪の毛をさらりと撫でて、頬にキスをしてくれる。


「わかった。気をつけていってらっしゃい」

「ええ、いってきます」


 私に向かって小さく手を振った母はも出勤していく。ひとりぼっちになった家の中はどこかすかすかで、いつも寒く感じる。暖かい布団にくるまっても、やっぱり寒い。両親がいないといつもこうだ。

 進みの緩やかな時計は意地悪だ。両親がいるときは早く針を進めるくせに、こうして時間を待っているときにはいやにゆっくりと進むんだ。


「夕方ってことは、五時すぎか六時かな」


 短針はまだ八時のところを指したばかり。腹立たしく思うけれど、壊してしまったら時間が止まって、二度と動かなくなってしまうかもしれない。仕方なく慣れ親しんだ肌寒さに寄り添って、さて、今日は何をしよう。



 ・



「……!……お……っ…………ろ!!」


 ガシャン、ドシン!

 突然響いた音と床の揺れにびっくりして、まどろみから一気に覚醒する。かなり重さのあるものが倒れたらしい。床の揺れは一瞬だけだった。言い争っているような声がする。慌てて時計を確認すると六時。両親のどちらかが帰ってきている時間だ。もしくは、両親が喧嘩しているのか?

 そろりそろりと移動してちょっとした階段をのぼる。そっと扉に耳を当ててようすを窺った。


「……か……ティ……ム……差し金か! この×××……」


 声を荒げているのは父のように聞こえる。私の前では一度だって怒ったことのない父の怒号が、びりびりとこちらに伝わってくる。


「ぐあうっ!!」


 怒号は突如として意味を成さない発声へと変わった。まるで絵本に登場する魔物のような醜い声。父は怒っているのかと思っていた。でも、これではまるで、苦しそう。


「ぐうううぅ」


 悪い獣の唸り声。これは悪魔の声に違いない。

 ……ちがう。父はこんな声じゃない。これは父じゃない。どうしよう、お父さんが悪魔に乗っ取られてしまう。どうにか、どうにかして、助けないと。まずは、この部屋を出ないと。

 クローゼットの奥、色とりどり形もさまざま。たくさんの洋服が収められているその陰に、針金よりもすこしだけ丈夫な細長い金属の棒が鈍色に光る。頑張って手を伸ばして取り出すとそれは相棒のように手に馴染む。左足に取り付けられている鉄の輪っか。じゃらじゃらと長い鎖がベッドの脚とつながっている。それが拘束具と呼ばれるものであることは、かなり後になってから知ることになる。輪っかについている鍵を相棒で外して音をたてないように置く。跡にならないようにと輪っかの間にはさまれていたタオルがはらりと落ちた。もやしっ子で体力はなくとも、手先の器用さはちょっとした自慢だ。

 続いて扉。母が家を出るときに鍵をかけてしまっているので、これを開かなくてはならない。扉の向こうでは何かを破壊している音がする。急がなくては。取り返しのつかないことになってしまいそうな気がして、焦っていく。焦りは手を震わせ、汗を流す。思うように動かない手を叱咤した。


 開け、開け、開け、開け開け開け……!



 かちゃり。

 大奮闘の末に解錠の音が成果を教えてくれた。ほっとする余裕もなく取っ手を掴んでぐっと引っ張る。重い扉はそうやすやすと開いてくれない。


「ぬ、う……ぐぐ」


 体重をかけて、ぐっと腰を落とし――。扉は向こう側から、呆気なく開かれた。


「わ……!」


 扉を開けることに全身全霊を込めていた。それがあっさりと開かれたことで、引っ張る力は体に返ってきてしまう。容易くバランスを崩した体は宙に浮き、階段の下へと、落ちていく。自然の摂理、即ち重力に従った場合はそうなる。二秒後にはごろごろと転がり、床に突っ伏して打ち付けた痛みに悶えていることだろう。数秒後の痛みを想像してきゅっと目を閉じる。


 がしり。


 結果からいえば、私は落ちなかった。厚くて重い鉄の扉の向こうから伸びてきた手が落ちそうになった体を捕らえて、階段の上へと引き戻したからだ。そうと目を開けて様子を窺えば、知らない人がいた。父よりも細く、母よりも若く、私よりも大きな人。その人は目を大きく開いてぱくりと口を開いていた。後から知ったことだけれど、この表情は”驚いて”いたのだそうだ。ぱくぱくと気泡でも吐きそうな口の動きをしたあとに、ぐっと迫ってきた。

 思えば、父と母以外の人に会うのは初めてだった。


「……あ、ありがとう。助けてくれて」


 冒頭で私は昔から聞き分けのいい子どもだと自己紹介したけれど、訂正。昔は聞き分けのいい子どもだった。





 この日の私は、初めて言いつけを破って”地下室の扉”を開け、あまつさえ外に出た。

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