幻惑と歌声
美しい極彩色の翼を持つ少女は、久方振りに拘束を解かれた。
自身の両手に当たる黄色と橙色の翼を広げ、大きな大きな欠伸をする。
幻想的な水色の鍾乳洞内に咲く色鮮やかな翼に、レントは目を奪われてしまっていた。しかし、すぐに今の急迫した状況を思い出し、その極彩色の少女の顔を覗く。
「お、起きたなら、お前は早く逃げろ! ここは今、危ないから……!」
視線をあちらこちらに移しながら、レントはその少女に鍾乳洞から出るように伝える。だが、少女のそれに対する答えは素っ頓狂なものだった。
「ねぇ……。それより、歌っていい?」
—— — — —
豪快な音と共に地が抉れ、天井まで伸びる石柱が次々と折れていく。狼人族の男は、飛び回りながら逃げるラドを、その足技によって追い詰めていた。
「いい反応だ」
地に降りた瞬間を狙った回し蹴りを、上空に飛んで回避する。
徐々に戦闘に適応していく小竜を見て、狼人族の男は不敵に笑った。戦闘狂の気質があるこの男は、まだ子どもながらにして戦闘の素質を垣間見せるラドを相手に、純粋な愉しみを感じていたのである。
気持ちの高揚に身を任せ、回し蹴り、空中からの踵落とし、蹴り上げ——。
鋭い目つきの中に黒い輝きを散らつかせながら、狼人族の男は次々とラドへと迫っていく。
ラドは全身を駆け巡る吐き気に耐えながら、目の前の男からの攻撃を避けることに全力を注いでいた。
(ハクの元へ行くには、こいつをまずどうにかしないと……)
ほんの十数メートル離れた先で弟が苦しんでいる。蹴り飛ばされて石柱に激突した苦痛で顔を歪ませながら、それでも立ち上がり、必死に闇精族の男を睨みつけている。
ラドは足技の数々を避けながら隙を伺うが、そのたかだか十数メートルを進むことができない。
ラドの前方——狼人族の男の奥で、闇精族の男が短刀を構えて分裂を始める。そしてその数が十人程になったところで、その構えた短刀を振りかざした男達はハクに襲いかかった。
分裂したことは衝撃的だったが、それは些細なもの。にやにやと笑う男に対して込み上げる怒りが、ラドの精神を飽和させていく。
回転蹴りをもって自身へと肉薄する狼人族の男に再び視線を戻す。ラドは意を決し、ついに反撃へと転じた。
「そこを……どけぇー!!」
ラドは叫ぶ。そして飛びながら、男の蹴りに真っ正面から対抗する。
繰り出される男の発達した右足に、ラドはその小さな顎を大きく広げて噛み付いた。小さいながらも頑強な牙が、男の臑に食い込んでいく。
「甘いッ!」
しかし、狼人族の男は噛み付かれたのも気に留めず、その右足を振り抜いた。その発達した足の筋肉は、まだ子どもの竜の牙には負けることはない。
蹴りの衝撃に負け、ラドは後方へと吹き飛ばされる。だが、顎がその右足から離れる瞬間。瞬時に気を練ったラドは、咄嗟の判断で炎を吹いた。
母が吹く炎のブレスと比べれば完全に見劣りするが、ラドは初めて本格的なブレスを吹くことができた。
小さい体から吹き出される炎が男の右足を焦がす。
ラドは蹴られた衝撃に抗うことができず、五メートルほど後方へと吹き飛ばされた。
「ぬぅ……!」
振り抜いた右足を戻した狼人族の男は、酷い火傷の痛みで体をよろめかせる。
「ふふ……。いいぞ……! もっとだ……! もっと竜の力を見せてみろ!!」
鋭い目を見開き、全身の毛を逆立てながら、狼人族の男は叫んだ。そして、顔を綻ばせながら、未だ煙と血が出ている右足を踏み出す。
先ほどよりも加速し、一直線にラドへと向かい襲いかかった。
—— — — —
分裂した闇精族の男達は一斉に嗤った。
「ざぁーんねんッ! こっちだ!」
ハクの右腕に短刀による切れ目が生じる。
自身から見て左側にいた男が襲いかかってきたため、ハクはそれを避けようとした。しかし、その男はハクに触れるか否かの間際に黒い煙と化し、そして逆側にいた本物の男がハクの右腕を切りつけたのである。
闇精族は、生物の精神や意識に干渉する術法を使う。それは、ほとんどの種族に有効であり、動物にもその効果は及ぶ。
しかし、自身の周囲という限られた範囲でしかその効果は無く、個々の身体能力も低いという欠点を持つ。
鋭い痛みと共に、ハクの右腕を鮮やかな赤色が伝っていく。
「……っ!!」
ハクは左手で右腕を抑え涙を堪えて、なおも男を睨み続ける。石柱に激突した痛みに鋭い痛みも加わり、全身から脂汗が噴き出していくのをハクは感じていた。
「いい表情するじゃないかぁ」
闇精族の男は狂気の笑みを湛えたまま、再びハクに向かって短刀を振り下ろす。
左足の太もも、右頬、背中——。
為す術を持たないハクは、ただただ刀傷を増やし、その身に流れる血を流していく。
小さい体に力を込め、突き刺すような痛みに耐えながらも、ハクは懸命に意識を保って涙を堪える。
「いつまで耐えられるかなぁ? そらっ、そらぁっ!!」
右に避けようが、左に避けようが、ハクの行動をまるで読んでいるかのように、闇精族の男は執拗に急所を避けてその短刀を振り下ろす。男は術法をハクの精神に干渉させ、幻惑を見せているのである。
新たに刀傷をいくつか増やしたところで、下卑た表情の男は動きを止め、その口角を少し下げた。
「頑張るねぇ、坊ちゃん。けど、そろそろ終いにしようかねぇ。妖精族のガキも始末しなくちゃいけねぇし——」
(——こいつ……!!)
ハクはその時、何かが自分の中で弾けたのを感じた。
そして、いつか聞こえた自分を呼びかける声が、再び脳内を侵食していく。
——(力が……欲しいか)
低く、力強い声。
(……欲しい)
ハクは心の中で、その問いに答える。
——(何故にそれを欲す)
心を問うような声。
(……みんなを守るために)
ハクは目を閉じ、兄と、友達と、母の姿を思い浮かべる。
——(己が宿命を受け入れるか)
もう目の前で誰かが傷つくのは耐えられない。
もう兄に守られるだけなのは耐えられない。
母を救えなかった悔しさを、誰かを失う苦しみを、もう二度と味あわないために。
そして、何よりも、大切な人を守るために。
ハクは意を決した。
(——受け入れる!!)
目を見開き、ハクは自身の気を解き放つ。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーー!!」
そして、ハクは再び、雄叫びをあげた。
「くくく……。どうした坊ちゃん、怒っちゃったのかなぁ? ……ん?」
ハクの雄叫びを聞いた闇精族の男は、それがただの苦し紛れの叫びだと思った。しかし、徐々に姿を変えていく少年を見て、先ほどまでの嗤いの表情が一気に崩れていく。
以前、人族の兵士達と対峙した時と同じように、ハクはその身体の一部を変貌させる。
目の色が茶色から紫色に変わり、右肩から右手の先にかけてが竜のそれとなる。
「おいおいおい……導師がいるなんざぁ聞いてねぇぞ……!?」
あらゆる種族で語り継がれている導師という存在、伝承でしか聞いたことのない人物が目の前にいる。そのことに闇精族の男は、驚愕と、それ以上の恐怖により心が乱れていくのを感じていた。
—— — — —
「いい? いいよね!? もう……我慢できない!」
極彩色の翼をもつ少女は、レントの制止も聞かず、もはや禁断症状の域の欲望を曝け出した。
そしてそのまま目を閉じ、少女は場違いに美しい歌声で自身の種族に伝わる歌を歌い始める。
鍾乳洞内に、悲しみと喜びが入り混じった旋律が響いていった。




