第九章 九
孫怜は膝を叩いて一人大きく頷いている。
「なんだ? 知ってるのか?」
「いや、何処かで見た事がある様な気がしてたんだ。何処でかは思い出せんが」
「で? 誰だよ」
「あの老人、丐幇の狗幇主だ」
孫怜がそう言うと、皆驚いて目を丸くする。
「あれがか? 前歯無かったぞ?」
「それは関係無いでしょ」
劉子旦はすぐに樊樂から孫怜に向き直り、目を輝かせた。
「あの方が狗幇主ですか。噂は聞いていましたが、変わった方の様ですね。あ、確か前幇主でしたね。いやー、こんな所でお見かけするとは……こんな処で何してるんでしょうね?」
確かに丐幇幇主の名は江湖に知れ渡っているが、実際にまみえる事などまず無いと言って良い。劉子旦は興奮気味に声を弾ませるが、樊樂にはその劉子旦があまり良く理解出来ない。
「女はあの格好からして丐幇の者では無さそうだな」
「そうだな」
「その狗幇主は、あの婆さんにやられたりしねぇのか?」
樊樂は孫怜の横に腰を下ろした。
「どういう意味だ?」
「狗幇主って武芸とか出来るのか?」
「何言ってるんですか樊さん。そんな事も知らないんですか?」
劉子旦も横に腰を下ろして話に割り込んで来る。
「丐幇には古くから幇主に相伝される武術があるんですよ。無論、武林中が一目置く程の。だからこそ丐幇は幇主を中心に昔も今も最大の組織なんじゃないですか。子供でも知るところですよ」
劉子旦は益々興奮してくる様で、樊樂に対する物言いに遠慮が無くなってきている。
「へっ、単にこの江湖には乞食が多いだけじゃないのかと思ってたぜ」
「それはあるな」
「孫さん!」
「あのご婦人がお前の言う様に物の怪だったとしたらいくら狗幇主でも無事では居られぬかも知れんが、まぁまずそんな事は無い」
孫怜は樊樂を見てニヤリと笑い、樊樂は首を竦める。胡鉄は可龍、比庸と共に黙って三人の会話を聞いているだけだった。
老人と女の二人連れは茶屋には戻って来なかった。六人は文字通り雑魚寝して休んだが深夜になっても雷は鳴り止まずとても熟睡出来る状況では無く、皆少々寝不足気味で朝を迎えた。
空を覆う雲は幾分白さが増していたが、まだ僅かに雨を落とし続けている。
「んー、仕方ねぇな。雨だからって出ない訳にもいかん」
「随分空も明るくなってきてるし、じきに雨も止むだろう。出るか?」
孫怜は樊樂の指示を待つ。
「よし、行こう」
六人揃って再び北へ。また堯家村に入る事になるのだが、孫怜は呉琳の居る穆家には寄らないと言う。
「別に良いじゃねぇか。呉琳の様子見といた方が良い。元気そうならこの先もきっと大丈夫だし安心出来るってもんだろ?」
樊樂は顔を出していくべきだ言う。しかし孫怜はついこの間見送りを受けたばかりなのにまだ戻れないと言い張った。
「ただ顔を見るだけでは済まんだろう。また穆さんに気を使わせる事になる」
「……まぁお前がそれで良いなら別に良いんだけどよ」
翌日には雨が上がりその後は暫く晴天に恵まれ、咸水を出て三日後の昼、一行は何事も無く再び堯家村に入った。この街から真東の都までは呂州から此処までくらいのの距離であり、普通に行っても十日も掛からない。ただ、今の樊樂らには余り余裕は無い。徐が何処かに落ち着いてゆっくりしていてくれるのなら話は別なのだが。
「咸水行ってなかったらもう都に近い処まで行ってますね」
樊樂は劉子旦が言うのを聞き流して胡鉄の方を振り返り、
「おい、ちょっと見て来いよ」
「何を?」
「呉琳だよ」
孫怜が頑なに拒むので穆家には行かない事にしたが、樊樂は胡鉄に様子を覗いて来る様に言った。
「ばれたら『何で顔を出さない?』って訊かれるに決まってるからな。何事も無さそうならそれで良い。ちょっと見てくるだけな」
すぐに胡鉄は樊樂らと別れて呉琳の居る屋敷へと駆けて行き、樊樂らは進んで来た呂州からの道と都から西へと伸びる道とが交わる街の中心の大通りで待つ。
この堯家村は都から西への道沿いの街の中では大きい方で、中央の通りはかなり賑わっていた。尤もこの西への道には街はそう多くなく、此処より西に暫く行けば砂漠が広がっている。そこからは此処の様な街らしい街は最西端の起離しか無かった。
胡鉄が一刻が経ったか経たないかといった程度で樊樂らの許に戻ってきた。
「えらく早いじゃねぇか。どうだった?」
「何も問題無さそうだったよ。呉琳さん居たよ」
「当たり前だろうが。居なきゃ困る。……って、会ったのか?」
「まさか。あの屋敷の近くまで行ったら表に呉琳さんと、あー、鮑さんだっけか? 一緒に居るのが見えた。何か作業してたな」
「『何か』って何だ?」
「さぁ?」
「さぁって、それぐらい見たら分かるだろうが」
「とにかく、呉琳さんは楽しそうにしてたんだ。言う事無しだ!」
胡鉄はそう言って胸を張り、そして皆一斉に孫怜を見た。
「そうか。言う事無しか」
孫怜は皆を見回してから珍しく微かに、ほんの微かにだが俯き、笑った。
それから一行は咸水への後戻りの分を取り戻すべく真っ直ぐ都へ向かった。都に着けば真武剣派周辺の話や稟施会の動きについても幾らか聞く事が出来る。城南からの知らせが早ければ周維の指示か何かがあるかも知れない。樊樂らの徐の捜索と人質奪還の役目は都からようやく本格的に開始されると言って良く、既に真武剣派は東へ向かっている筈であり、現在の状況を把握してそれらに追いつき追い越さねばならない。何も真武剣派と争わねばならない理由は無いのだが、何故か何となく、皆対抗心を燃やし始めている。
樊樂ら六人は、都に六日と半日で到達した。