第九章 六
樊樂は勿論の事、『刺激しない方が良い』と言っていた劉子旦も即座に剣を向け、胡鉄も慌てて剣を持って体勢を整える。もし老婆がこちらに迫って来るとしたらどれだけの速さなのか想像もつかない。
「待て待て!」
孫怜が慌てながらも即座にその前を遮って老婆の覗く顔に向かって進み出ると、
「突然お騒がせして申し訳ございませぬ。私どもはある者を追っておりまして、此処にその者達が隠れていないかと見に参ったのです」
恭しく礼をし、そのままじっと返事を待つ。すると老婆は草むらからスッと出てこちらに向かって数歩進む。
初めて見せるその姿は、ひどい襤褸を纏う至って普通の、老いた『人』であった。
老婆は草むらから出るには出たが、すぐに立ち止まる。孫怜の位置から五、六間程離れており、そこで互いに無言で相手を観察し合っていた。
老婆の羽織る袍は足の先まで隠してしまう程長く身の丈に合っておらず、そこら中が破れ、擦り切れてほつれた糸が無数に風にたなびいている。淡い黄色というよりは土色の、その辺に落ちていたものを拾って引っ掛けただけの様な、奇妙な風体であった。
「あの……この村にお住まいで?」
孫怜が訊ねてみる。
「徐というのを探しておるのか?」
老婆は孫怜の言葉を無視して質問で返す。それを聞いた四人は驚き、互いに顔を見合わせる。
「おい、知ってるのか?」
樊樂は剣を腰に納めて孫怜の横に立ち更に訊き返す。話せるのなら無用な警戒の色を見せない方が良いと、劉子旦と胡鉄もすぐに剣を戻した。
「そこの大きいの。お前は真武剣派の人間では無かろう?」
老婆の言った『大きいの』というのは樊樂の事らしい。それにしてもこの老婆が『真武剣派』という名を口にするなど思いもよらず、四人に再び警戒心を抱かせる。真武剣派は子供でも知る名だが、何故初めて会った自分達にそんな事を訊くのか。老婆は真武剣派とどういう関わりがあるのか?
「あの時も居らなんだが、あれからも居らん。何度来ても居らん者は居らん」
「前に、真武剣派の者も探しに来たという事ですね?」
孫怜が訊ねると老婆は目を細め、
「お前達は真武剣派ではないのに探しておるのか? 放っておけば良いものを。この江湖で急に消えた者など大抵、既に生きてはおらぬわ」
吐き捨てる様に言い、また四人を睨め廻す。
「あなたは……ずっと一人で此処に居られるのか?」
樊樂は心持ち丁寧な言葉を選び、老婆に話しかける。それを聞いた胡鉄が、どんな顔で言ってるのかと樊樂の表情を窺っていた。
「此処に居る事を許されておるのはこの私だけだよ。お前達は早々に去れ」
「……誰の許可が要るってんだ?」
『頭が悪いね。お前は』
不意に老婆の両手が跳ね上がり、二つの小さな礫が音を立てて樊樂に迫る。
「くっ!」
樊樂が体を捻ると同時に横の孫怜が再び腰の剣を抜き、礫の一つを叩き落す。さすがに二つ同時には捉えられず、もう一方は樊樂には当たらなかったが後方の何処かへと消え去った。
「速いね。お前は中々良いね。頭も賢そうだ」
老婆は孫怜に視線を移してそう褒めるが、その目は相変わらず鋭く睨めつける。
「私はこの村の住人さ。昔からね。お前達は違うだろう。見た事が無いからね」
「ではあなたも、生存者……四人目の……?」
孫怜はまた腰に剣を戻し、老婆に尋ねた。
「四人目? もっと居る。死にぞこないはね。でももう皆此処には戻りたがらないさ。私くらいのもの……この村を守らないとね。お前達からね」
生き残った者が多く居るというのは孫怜にも初耳だった。二十年前の事件で有名になったのは洪破天、傅千尽、殷汪の三名。たった三人だけが生き残り、その内の殷汪がただ一人で百槍寨へ乗り込んで八百人余りを切って報復を成し遂げたという事で江湖に名が広まったのであり、孫怜も噂の通り咸水で生き残ったのは三人だけと思い込んでいた。しかし考えてみれば村が襲われた時に村人は全て此処に居たというのも十分有り得る事だがそうでなかった可能性も同様だ。他所へ出掛けていた者もあるだろう。何年か前に孫怜が此処を訪れた際には誰も居なかったのだから、老婆は難を逃れてからそのまま他所で暮らし、後に村に戻ってきたのかも知れない。
「用は済んだね? さあもう去ね。そして二度と来てはならん。此処は村人達のもの……」
老婆は言いながらゆっくり目を閉じ、微かに頭を前後に揺らす。咸水の、昔の賑やかだった頃を思い出しているかの様に。
「怜……もう行こう。あの婆さんは気味が悪いぜ」
二度も石で狙われた怒りをなんとか腹に収め、樊樂は険しい視線を老婆に向けつつ、孫怜に言う。
「……」
孫怜は老婆をじっと見つめたまま答えない。
「おい、怜」
「待って! 樊さん、あそこです! 孫さん!」
急に劉子旦が樊樂と孫怜の傍に駆け寄り、視線で老婆の後方、山へ少し上がった辺りを示す。
「あれは……?」
揃ってその方向を向いた樊樂と孫怜は目を見開いて注視する。そこにあったのは、確かに人影である。
立ち木で体を半分隠すように人が立っている。黒装束である事とその立っている雰囲気から男であろうという事は判る。肩の辺りまで伸びている黒い髪が顔を覆い隠しており、また遠い事もあって表情等は窺い知れない。
樊樂と孫怜は老婆に視線を戻す。すると老婆は一層強く睨みつけてきた。
『お前達は今、死人を見ている。関われば命は無い』
声が再び樊樂らの耳に纏わり付く。新たに攻撃を仕掛けて来るかも知れないと、老婆に意識を集中させる。
そんな中、孫怜が老婆に向かって数歩進み出た。
「私は、この村と無関係という訳ではありませぬ」
「……ほう? 一応、聞いてみようかね。お前と、この咸水の関係とやら」
老婆の表情は一貫して変わらない。本当に一人で居て誰か来ると必ずこうして睨みつけているのならば、この老婆は普段微笑んだりする事は皆無ではないのかと思える。
樊樂が時折、山の人影に目を遣る。向こうはじっとして動こうとはしなかった。