第九章 四
谷の間近まで来ると、既に今居る場所が道なのかそうでないのか分からなくなるほど、背の高い草が生い茂っている。孫怜によれば道は川に沿って村まで続いているらしいので右手に川を眺めながら勘でもって進む。
「人が入った様な跡は無いな……」
馬の足元に目を遣りながら樊樂が言う。この辺りでの生存競争に勝ち抜いた雑草の群れは何者にも邪魔されず奔放に生きている。人に踏まれて倒されている様な者は見当たらなかった。孫怜も辺りを注意深く眺めながら、
「しかし余程多くの人間でも来ない限りその跡は見つけられないだろう。こいつらはあっという間に仲間を増やして何事も無かったかのように再び辺りを覆い尽くすからな」
「孫さん、以前来られた時もこんなだったんですか?」
劉子旦が訊ねると孫怜は大きく頷いた。
「ああ。殆ど同じだな。昔はこの辺りにも民家が点在していたんだが、咸水の事件の後に『村から近すぎる』と言って皆他所へ行った。もう誰も居ない場所だ。見ろ、あそこに殆ど潰れた家が少し見えているだろう?」
孫怜は左手の草原と化しているその先を指し示す。緑の中にポツンと木の色が混ざっており、よく見ればそれが人の手で加工された木材である事が分かる。
「草に食い尽くされてる……」
胡鉄がそれを眺めながら呟いた。
「あれが一箇所に多く集まった場所……それがこの先の咸水の村だ」
左右に山が迫る細い谷に入っていく。その幅の殆どが川であり、すぐ傍の道も所々崩れていて人の通れる幅は僅かしか無い。しかしそれがずっと続く訳では無く、一里も進めば一気に視界が広がった。周囲を完全に山に囲まれた小さな村。道は此処で終わり、後は川が山を登っていくだけである。
村が失われてからも訪ねた事のある孫怜以外は完全に草原となった場所を想像していたが、意外にも地面の見えている処が多かった。朽ちた家々の並びから考えてそれらはかつて住人達によって踏み固められた村の通りであった様だ。道が見えるといっても草むらの中に地肌が見え隠れする、といった程度である。
「此処が咸水ですか……」
一同、村の入り口に身を寄せて辺りを眺める。『無残な廃墟』を通り越して遥か古代の遺物でも眺めている様で、現実との距離を感じずには居られない珍しい風景。既に二十年経った咸水の村には思い描いていた殺戮の生々しさは微塵も無く、文字通り枯れ果てていた。
「此処に、こんな処に何があったんだ? 百槍寨とやらは此処の何を欲しがったんだ?」
樊樂の問いは誰もが思っていた事で、廃墟になる以前を想像してみても賊が大挙して押し寄せる理由が良く分からない。
「それは解ってない。当時此処を襲った人間は誰一人生きてはいない。百槍寨は完全に江湖から消えたからな」
孫怜は目を細めて村を見渡している。
「それにしても……此処で生活する事は不可能ですよ。徐もさすがに此処に身を隠そうとは思わないでしょうね」
「食う物さえ調達出来れば何とか出来るんじゃないか? でも人が来たら気が気じゃないな。逃げられない。入り口塞がれたら山登るしかないぞ」
劉子旦と胡鉄が話しながら馬を進める。
「おい、勝手に行くな。まだ誰も居ないと決まった訳じゃないぞ」
樊樂がすぐに呼び止め、孫怜と一緒に二人の傍まで進む。
「冬は居られないぞ? 雪が深いからな。こんな所では完全に何も出来なくなる。入ってくる事も、出る事も無理だ。雪の無い時期に一時的に隠れるくらいには使えるだろうが……」
「そうですね……」
孫怜の説明に劉子旦らは頷いた。樊樂は真面目な顔で孫怜に訊く。
「じゃあ此処に住んでた奴らはどうなんだ? 冬は他所に行ってたってのか?」
「そんな訳無いだろう。小さな村とはいえ、人手はそれなりにあったのだから、冬には何らかの備えもあったろうし、雪もある程度は動かせる。人が少なければ厳しくなると言ったんだ」
「樊さん、空がいよいよ怪しくなってきましたよ? 一応、一通り見て戻りましょう」
雲が黒ずんでいる。雨に濡れるのは旅をすれば良くある事だが、樊樂は何となくだが(此処で雨に会うのは勘弁して欲しい)と思った。
完全に崩れて土の山の様になっている家や、どうにか形は保っているがかなり危うい角度に傾いた家が混在している。屋根まで雑草に覆われている建物まであり、全く人の居る気配が無い。それでも一箇所から見渡しただけで全体を把握する事が出来るほど狭い村という訳でもなく、樊樂らは辺りを注意深く見回しながら村の奥へと進んでいった。
「……待て」
「どうした?」
孫怜が腕を伸ばして樊樂らを制止する。それから孫怜はゆっくりと顔の向きを左右に変えながら何かに神経を集中させていた。
「声……か?」
「声?」
樊樂らも辺りを探るように見ながら耳を澄ます。風が辺りの雑草や山の木々を揺らす音がそれほど強くは無いが絶えず聞こえている。声と呼べる様なものは聞こえない。
「人の声ですか?」
劉子旦が小声で孫怜に訊く。もし誰かが居るのだとすれば警戒しなければならず、それがどういう者なのか知れるまでこちらも存在を知られない方が良いと思われる。
「ああ。だが、気のせいか……?」
「馬を降りて行きますか?」
「……いや、多分勘違いだ。このまま進もう」
孫怜はそう言い、樊樂は黙って頷いた。
四人は今まで以上に辺りに目を凝らし音にも注意深く進んだが、特に怪しい事は何も無い。そのまま通りの跡を進んで行くと、やがて道が十字に交差している場所に出た。どちらを向いても同じ様な壊れた家が並ぶ通りである。
「意外に民家が多いな。もっと人の少ない村だと思ってたが」
樊樂はいつもよりは声を抑えて皆に届く程度の声を出した。
「襲われる前から空き家は多かったらしいから、この家の数に対して人は少なかった様だ」
劉子旦が孫怜を見ながら、
「もっと昔、此処は何かを山から掘り出す拠点だったなんて話を聞いた事があった様な……何だったか……」
「さすが良く知ってるな。それもかなり前に出なくなったそうだ。その頃は人も多かったんだろうな」
孫怜が山を眺めながら言ったので、樊樂らも同じ方向に目を遣った。
「何が掘れたんだろうな?」
「翡翠だよ。しかもこの国では未だに他に出る処が見つかっていない、硬玉だ」