第九章 三
まだ正午を過ぎたばかりだったが、外は徐々に暗くなり始めていた。灰色の厚い雲がいつの間にか空を覆い、誰が見ても雨が予想出来る。夏が近付いているこの時期のこんな雲は大抵、かなり激しい雨を降らせてから去って行く。
「今の内に村に行った方が良いな。雨が来るぞ。どのみち今夜はこの近くで泊まる事になる」
孫怜が、触ると取れそうな窓に近付いて空を眺めている。
「村にも一応、壊れてはいるが雨が凌げる家がまだあるがな」
「行った事あるのか? 最近」
樊樂が訊ねると孫怜は席に戻り、
「何年か前だが。あれから誰か移り住んだとも聞かない。今も無人だろう。もし誰か住みだしたらすぐ噂になるぞ。二十年近く経っても、あそこは当時のままで、生きてるのは伸び放題の草と山から下りてきて何も見つけられずに肩を落として戻って行く獣くらいのものだ」
樊樂が言ったなら非常に微妙な冗談だったが、孫怜がこんな言い回しをする事は珍しく、皆思わず笑ってしまう。
「そんな処で野宿なんてごめんだ。一夜にして住人が惨殺された村だからな。気味が悪い」
樊樂が大袈裟に震える様な仕草をして見せると、可龍、比庸の二人は微かに顔を強張らせて固まっていた。孫怜は笑いながら、
「二十年だぞ? もう昔の話だ。無念を抱いて死んだ者達もさすがに他所へ行ってるさ。誰も来ないんだからな。お前じゃないが、『暇』に違いない」
「それに、北辰の殷総監が恨みを晴らした訳ですしねぇ」
劉子旦が言うのを樊樂は目を剥いて睨み、
「分かるもんか。そんな単純じゃねぇだろう……あんな処、徐の奴も行きたがらねぇかもな」
樊樂は真面目な思案顔で、本気でそんな事を考え始めたらしい。
「まさか樊さん、やっぱやめとこうとか言うんじゃないよな? 徐が居るわけ無いから? それとも何となくおっかないから?」
胡鉄が横合いから樊樂の顔を覗きこんでニヤニヤしている。
「行くに決まってんだろうが! よし、もう行こう。遅くならんようにな」
樊樂は膝を打って勢い良く立ち上がり、先程孫怜が居た窓に歩み寄ると同じように空を見る。
「雨も降りそうだしな」
「さっき孫さんが言った」
樊樂がじろりと胡鉄を振り返る。胡鉄は慌てて顔を背け、茶の残りを啜った。
孫怜も脇に置いていた剣を手に取って立ち上がり、可龍と比庸に、
「お前達は、此処で待っていろ。村はもうすぐそこだ。遅くはならんだろう。……何事も無ければ、だが」
若者二人は互いに顔を見合わせる。
「あの、俺達も――」
「そうだな。此処に居ろ。万が一、徐と手下共と出くわせば危険だ。街の中ならともかく、あそこは孤立した場所だし逃げるのも難しくなるかも知れんしな」
樊樂は孫怜の傍に戻り、二人に言う。
「逃げませんよ! 俺達も一緒に行きます!」
可龍が椅子を蹴るようにして勢い良く立ち上がり、比庸も同じく並んで孫怜を見た。
孫怜はゆっくりと頭を振る。
「逃げない奴は尚更連れて行けんな。俺達は逃げる必要があればいつでも逃げるが、お前達をおいて俺達だけ逃げる訳にはいかんだろう?」
孫怜の言葉に可龍と比庸は困惑の表情を浮かべた。劉子旦が可龍の肩に手を置いて笑い掛ける。
「ちょっと変わった場所だし、今回は待っててくれよ。この先お前達にもうんと働いて貰うさ」
「……はぁ」
若いこの二人も、もし何かあったら――と考えない訳ではない。徐の一味やそんな類の輩と一戦交える事になったとしたら、今の自分達には何か出来そうにも無い。
足手纏いと思われるのは我慢ならない。が、やはりどう考えても何の経験もない今の自分達が必ずそうなってしまうのは明らかだった。
「そう気を落とすな。ハハ、これからだ。これから」
樊樂もそう言って笑みを浮かべる。しかし可龍と比庸は再び『はぁ』としか返せなかった。
「念の為だ。金を少し預けておく」
孫怜は懐からいくらか金を取り出し、可龍に持たせる。
「少しの間だが俺達と離れるからな。万が一俺達が戻らなかったら、咸水には絶対に近付くな。すぐに来た道を戻って堯家村の穆さんの処へ行くんだ。或いは……ここからなら一先ず呂州でも良い。お前達が安全だと思う場所に行け。それから堯家村だ。分かったか? 絶対、咸水には行くな」
孫怜は厳しい眼差しを向けながら、そう念を押す。自分達を戻れなくしてしまう様な『何か』は咸水の村にあるのなら、可龍と比庸が様子を見に行くだけですぐにその『何か』の餌食となることだろう。絶対に逃げなければならない。
「まぁ大丈夫だろうけどなぁ」
生唾を飲み込みながら直立不動で居る可龍と比庸を眺めながら(脅かし過ぎだ)と感じた樊樂が空気を和らげようと少し甲高い声を出した。
「無論、俺もそう思うが絶対じゃない。常に最悪の事態も想定しておかんとな。金は預けるだけだぞ? 戻ったら返して貰うからな」
孫怜は硬い表情をようやく元に戻して二人に笑い掛ける。可龍と比庸、どちらも納得した様で、揃って頷いていた。
茶屋を出て暫く進むと、川と交差する。丁度そこから川沿いを西の山の方へ向かう道に入れば、その先が咸水の村である。
横を流れる川は幅二丈あるか無いかといったあたり、とても水が澄んでいる美しい川である。正面の山から流れ出しており、視線を川に沿って先へ遣るとそこは奥深そうな谷になっていた。
「何だか、嫌な感じだよな。この、あの村に向かうだけの一本道を行くってのは」
樊樂はじっと正面を見つめたまま顔を顰めている。
「あの集落で行き止まり……。なんて言うか……」
「この先がこの世の終わり……とでも?」
劉子旦が後ろから声を掛け、冗談の様な事を真面目に訊く。すると、
「着いた途端、この道が消えたりしてな」
胡鉄が冗談を冗談らしく言って笑った。劉子旦も声を出して笑ったが、樊樂は全く反応が無い。相変わらず前方をじっと見ながら黙っていた。
「樊、大丈夫か? まさか……」
孫怜が体を前に倒して横を行く樊樂の顔を覗き込む。まさか本当に怖がっている訳ではあるまいと思いつつ、普段あまり見る事の無い樊樂を観察する。
まだ見えていない咸水の村を注視している様でいて、しかしどこかぼんやりとしている風に見えたりもした。