第九章 二
樊樂がそっと孫怜の背中に近付く。
「怜、そろそろ……」
その声に応じたのは呉琳だった。
「もう、大丈夫。怜さん、しっかりね」
「ああ」
孫怜は何か気の利いた言葉の一つでも掛けてやりたかったのだが咄嗟に思いつく事が出来ず、そう短く答えるのが精一杯だった。呉琳の頬に手を遣り、頷いて見せる。それから杖の老女に向き直った。
「それでは……行って参ります」
杖の老女は何も言わず、ゆっくり目を閉じて頷く。緑衣の老女は呉琳の傍へ行くとその手を取り、並んで孫怜の方を向いた。
「宜しくお願いいたします」
孫怜は緑衣の老女にも礼をした後、劉子旦から馬の手綱を受け取った。
「よし。行こう」
樊樂が言うと皆一斉に馬に乗り、顔を見合わせて頷き合う。
孫怜はもう一度呉琳を見る。今回の仕事は数日で終わる事はまず有り得ない。長引けば数ヶ月は離れる事になるだろう。かつて『孫の幇会』として仕事をしていた頃は呉琳と離れる事を何とも思わなかった。呉琳は留守を預かるのが役目――いつの間にかそう考えていた。一旦表に出れば呉琳を忘れていた。
孫怜は馬上から呉琳を見下ろす。呉琳はすぐ傍で顔を思いきり上げてこちらを見て笑っていた。
(琳、これからはお前の為に生きよう)
胸の奥からこみ上げて来たものが目から溢れそうな感覚を覚えたが、呉琳の笑顔のお陰で孫怜も笑顔を返しながら屋敷を後にする事が出来た。
「なんて言うかこう……ただの人探しにしては大袈裟だったな。すぐ済んでも帰りづらいぞ。ハハッ」
「いや、俺は帰るぞ」
先頭を行くのは樊樂と孫怜で、次に胡鉄と比庸、可龍、その後ろに劉子旦が続く。辺りはまだ静まり返っており、樊樂の笑い声がよく響く。
「呉琳、大丈夫そうだったな?」
「……恐らく」
「しかしあの二人の婆さま、本当は何者なんだ? 二人並ぶとなんか奇妙な感じだぜ。姉妹とかか?」
「いや、違う。だが若い頃から一緒に暮らしておられた。俺達夫婦を本当の子供の様に面倒を見てくれてな……穆さんも元は呂州の人だ」
「優しいんだかおっかねえんだか良く分からん。あの杖を持つ手が怪しいな。もし怒りだしたらあれで殴られそうな気がする」
「昔ならそうかもな。しかし今はもう体を悪くされて動くのも大変だ。鮑さんは確か三つほどお若いのだったかな? それでもたった三つだ。お二人とも快く引き受けて下さったが、本当に良かったのか……」
「あの婆さまがまかせろって言うんだから大丈夫なんだろ」
「そうだな」
穆というのが杖の老女の名で、緑衣の老女は鮑といった。孫怜が若い頃に縁あって知り合い、呉琳と夫婦になった後もずっと交流が続いていた。
「で、どうする。まずは都か」
孫怜が訊ねると、
「あー、それなんだが……ちょっと待ってくれ」
樊樂は馬を止め、皆が周りに集まるのを待った。
「子旦、咸水はどうだ? 行ってみねぇか?」
それを聞いた劉子旦は、ぽかんと口を開けたまま樊樂を見た。
「は?」
「は? じゃねぇよ。寝てんのか? 咸水は見て行った方が良くないか? 今は廃墟だろう。隠れるには良い場所じゃねぇか」
「今から、咸水まで戻るんですか?」
「そうだ」
「それなら此処に来る前に寄れば良かったじゃないですか」
劉子旦は呆れ顔で樊樂を見返した。咸水の村は呂州からこの堯家村までの道の丁度中程から西に逸れて山岳地帯に分け入った処にあり、数日前に素通りしている。馬を急がせても二、三日は掛かり、その後に都へ向かうならまたこの堯家村に帰ってくる事になる。
「もう少し計画というものを考えた方が良さそうだな」
孫怜も劉子旦と同様に樊樂を見ている。
「あのなぁ、呉琳が一緒に居たのに行ける訳無いだろ。もし何かあったらどうする? まず此処に呉琳を無事送り届ける。全てはそれからだ。そういう計画なんだよ」
「……」
孫怜は樊樂をまじまじと見つめて黙り込んだ。樊樂がそんな気を使うとは思いも寄らず、呉琳の為を思っての事であったのならば孫怜には何も言えない。
「それはそうですが……」
劉子旦もさすがに異議を唱える事は出来ず、隣の胡鉄に視線を送る。胡鉄は肩を竦め、
「ま、俺達は樊さんの言うとおりに動くのが仕事だし? 俺は良いと思うけどね。ただ、もうあの辺も真武剣が調べてそうだけど」
「真武剣も動いてるが、的の方も常に動いてんだよ。調べられた後に逃げ込む事だって考えられるだろ?」
樊樂は一同を見回しながら力説する。もう誰も反論は無さそうだった。
「そうだな。行ってみよう」
孫怜が言うと、劉子旦らが頷く。樊樂はその様子を見て、
「全く……お前らは俺以外の奴には素直なんだな」
半ば拗ねた様に一人さっさと馬を進め始める。残された者達は一度顔を見合わせてから樊樂を追った。
「樊、……すまんな」
孫怜は再び樊樂の横に付き、ちらっとその横顔を見遣る。
「フン。計画通りだぜ。俺の計画通り、咸水に向かう」
いかつい褐色の顔は真っ直ぐ前を見据え、ほんの暫くだがこちらを向く事は無かった。
堯家村に向かう途中もそうであったが、咸水に向けて引き返す道中も全く何事も無く、新たな情報を耳にする事も無い。咸水までの数日、樊樂はひたすら『暇』を連呼していた。
「暇というのはおかしいでしょう? こうして捜索してるじゃないですか。この後東に向かう事になれば遥かに長い日数をこうして過ごさないといけない訳ですから、今からそんな事言ってたんじゃ、やってられませんよ」
咸水のすぐ手前まで戻ってきた一行は、表に『茶』とだけ書かれた古い店に入って体を休めていた。ずっと歩いていたのは馬の方だが、その上でじっとし続けるのも長時間になれば苦痛になってくる。
「そうだな……早々に徐の奴にお出まし願ってだな、ずっと追いかけて行けりゃあ『暇』じゃねぇだろ?」
「暇つぶしに追いかけるんなんておかしいでしょ。出てきたんならさっさと捕まえて終わりにしたほうが良いに決まってます」
劉子旦はそう言い捨てると茶を呷り、長い息をついた。