第九章 一
スッと息を吸うとすぐに体内に満ちてゆく程、近くを薄い靄が漂い、辺りの景色は少し青味がかっていた。冷えた空気が肌に当たると微かにチリッと音を立てて熱を帯びる。
堯家村の夜がもうじき明ける。都から真西に七百里余り。都から東と南へ向かう二本の街道に比べると殆ど手の加えられていない粗末な、しかし西方へ向かう唯一の道沿いにある街である。
昼は賑やかになるこの街もこの時は未だ静寂に包まれており、そんな中で数人、遠慮がちな音を立てながらゆっくりと表に姿を現した。この街の中央の通りから少し奥まった場所にある小さな屋敷。とは言っても広い庭園などは備えていないというだけで建物は周辺にある家々よりも大きく、また、歴史を感じさせる旧家といった風情がある。
その中からまず出てきたのは稟施会の樊樂、劉子旦、胡鉄の三人。その後に続いて歩み出てくるのは二人の老女、そして孫怜であった。
老女の一人は黒衣で右に杖を突き、左手はもう一人の老女に支えられる様にしてゆっくりと歩を進める。支えている方の老女は薄い緑の衣を纏い、まだ足腰がしっかりしているので杖の老女よりは幾らか若い様にも見えるが、それほど大きくは違わないだろう。ようやく表まで出るとその後に呉琳、比庸、可龍が続く。
「ハァ、もう此処まで出てくるだけでも大変。ありがとう、もういいわ」
杖の老女は隣の緑衣の老女に声を掛けると両手を杖の上に重ねて一人で立つ。建物の入り口からほんの数歩出た処だった。
「急に押しかけたうえに私共の我侭をお聞き入れ下さり、有難うございます」
孫怜は杖の老女の正面に立ち、姿勢を正して袍拳する。そのまま恭しく頭を下げると、杖の老女の落ち着いた声が辺りに染み渡るように聞こえてくる。
「怜。何も気兼ねする必要はありませんよ。もっと早くに此処へ来ても良かったのよ? 此処にも何も無いけれど、皆で一緒に居る方が良いに決まっているわ」
続けて緑衣の老女が口を開く。
「年寄り二人だけだと色々不便なのよ。琳が居てくれるならとても助かるわ。怜、あなたは何があろうと、必ず琳の許に帰って来なさい。いいわね?」
「……はい。必ず」
孫怜は暫く頭を上げる事が出来なかった。
すぐ傍に居た呉琳は落ち着かない様子で辺りを見回した後、馬を牽いてやって来る樊樂らの方へと駆け出す。しきりに馬を撫でながら樊樂と何やら話している様だった。
「フフッ。琳は元気じゃないの」
杖の老女は呉琳の様子を目を細めて眺めている。
「そうね。少女時代に戻ったのかしら? 羨ましい事。ホホ」
緑衣の老女も同様に目を細めて笑っていた。孫怜もそちらを見つめながら、
「正直、まだ不安ではあるのですが……。呂州を出てからはとても落ち着いています。ですが私が離れた後の事は、分かりませぬ……」
「私達に任せておきなさい。何の心配も要りません」
杖の老女はゆっくりと首を振り、孫怜に微笑みかける。精神が不安定な状態にある呉琳をうまく扱う自信がある、というよりは、全てを包み込む慈愛に満ちた二人の老女の気――。呉琳だけでなく孫怜までも安心させてしまう、そんな二人であった。
「怜さん。何も忘れてない?」
樊樂らと共に戻ってきた呉琳は孫怜の腕を取り、その全身を眺めて言う。
「大丈夫ね。怜さん、あの二人を守ってあげてね」
「ん?」
「あなた達、来なさい」
呉琳は馬の傍に居た可龍と比庸を呼んだ。二人は呉琳の前まで来ると並んで背筋を伸ばした。
「いい? あなた達はまだ出来る事はとても少ない。でもそれは仕方の無い事だわ。これからこの江湖で自分を鍛えていくの。まずあなた達が覚えなければならない事は、何が何でも生き抜く事よ。あなた達はまだ若い。少々格好がつかなくても何とかして生き延びるの。そして何処までも怜さんに付いて行きなさい。そうすればいつか必ず立派な侠客になるわ!」
呉琳は力強くそう言うと孫怜の顔を見上げる。孫怜は同意を求める様な呉琳の眼差しに思わず言葉に窮してしまった。
「あ、ああ……まぁそう、だな」
「おいおい、お手本とならねばならん孫大侠がそんなで良いのか?」
少し離れて様子を眺めていた樊樂が冷やかす様に声を掛ける。呉琳は樊樂に顔を向け、
「樊さんもちゃんとお手本になって貰わなくちゃ困るわ。この子達が変な事覚えて帰って来たら、樊さんのせいね。怜さんは変な事なんてしないから」
「その通り!」
胡鉄の声が辺りに響く。樊樂はゆっくりと胡鉄の方を振り返って睨みつけ、胡鉄は舌を出して首を竦める。この者達と居ればよく見る光景である。
「ホホ、楽しい旅になりそうね」
緑衣の老女が口元に手を遣って笑う。続けて今度は杖の老女が口を開いた。
「己を軽んじてはならないよ。そこの若い衆も、怜、お前達も」
一同を見渡しながら続ける。
「琳の言う通り、何としても生きなさい。今日生きたら、明日も生きる事を誓いなさい。命を掛けなければならない事というものは確かにあるけれど、本当にそれがそうなのかは簡単には分からないよ。命を掛けるという事は、死ななければならないのとは違う。勘違いをしてはいけない。いいね?」
杖の老女の視線が可龍、比庸の二人に留まる。若者二人は揃って杖の老女に向き直り、威勢の良い返事で応えた。
「良い子だね」
顔の皺を一層深くした老女は微笑み、頷いた。
「怜さん。遅くなるといけないわ。まずは都ね?」
「ああ。そうだ」
不意に呉琳が孫怜の返事と同時にその首に抱きついた。
「怜さん。私はずっと此処に居るから。ずっと此処に……」
人目も憚らず孫怜に頬を寄せる呉琳。孫怜はほんの少し戸惑ったが、ゆっくりとその腕を呉琳の背に廻した。
「……済まぬ」
「家を……守れなくて、ごめんなさい。ごめんなさい……」
孫怜は呉琳のその小さな声に少なからず衝撃を覚えた。家を、幇会を失ってしまったのは自分の責任なのだと、呉琳はずっと悔やみ続けていたのか。
「琳、それは――」
「琳、まだまだやり直せるんだよ。新しい縁がいくらでも生まれて来る。二人で、この子達を育てていくの」
杖の老女の声が、孫怜と呉琳の許へ真っ直ぐ伝わってくる。杖にもたれてじっと立っている老女に呉琳の微かな声が届いていたのかは疑わしい。だが微動だにせずじっとこちらを見つめる老女の眼差しは呉琳の背中にそっと手を置いて優しく撫でる様だった。
呉琳は孫怜の首を離し、今度は手を取ってその甲を頬に押し当てる。孫怜はその愛しい妻を胸に抱き、その髪を撫でた。
「あら、まあまあ」
緑衣の老女がその様子を見ながら楽しそうに笑っていた。