第五章 二
二十一
「師父」
部屋の扉が静かに開いて白千風が入ってきた。李小絹はすぐに立ち上がり、鄭志均は部屋に入って来た時からずっと立ったままだった。先程屋敷に忍び込んだ少年、劉馳方も連れて来られて李小絹の横で身を縮めている。
「師妹、あれは何だ?」
白千風は脇目も振らずに真っ直ぐ郭斐林の傍に立ち、座っている郭斐林を見下ろした。
「兄さん、……さっき変な男が入ってきて塀を壊して出て行ったわ」
「何だと? どういうことだ? そいつは今何処に?」
「……さぁ? 別に物盗りとかそう言う類では無さそうだった。もう……来ないと思うわ」
「おい、師妹、どうしたんだ? お前変だぞ?」
郭斐林はまた何かを考え込んでいるようで、手許に視線を落としている。その手には古びた冊子が乗っていた。
「それは?」
白千風がその冊子に目を向ける。
「兄さん、きっとただのゴロツキよ。心配ないわ。塀以外何も被害は無いし、……関わる事自体煩わしいわ」
「しかし、あの塀をどうやってあんな風に壊したというのだ?」
白千風がそう言いながら古びた冊子を手に取った。
「それより兄さん、それ――」
「何だ? これは」
白千風が冊子をめくるがかなりボロボロでうまく開けず指先で一枚づつ摘んでゆっくりと開いている。郭斐林は何も言わずにその様子をじっと見ていた。
「古い文字だな……」
「兄さん。それ黄龍門の秘伝よ」
「何?」
白千風は一瞬まるで睨みつけるかのように郭斐林を見たが、すぐに視線を戻してもう一度冊子の表を凝視する。
「黄龍門? 秘伝書の類が存在するなど聞いたことが無いが……?」
再び表紙をめくる。
「私もちゃんとは読めないけど、それ、洪淑華の手によるものだと言うの」
「洪淑華? 東涼のか? 誰がそう言った?」
郭斐林は答える代わりに劉馳方を振り返った。
「ん? お前は?」
どうやら白千風は今始めて見た事の無い少年が部屋に居る事に気付いた様で、眉根を寄せて少年を観察する。
「小絹の知り合いらしいわ」
「あ、あの、私は別にこの子とは……」
李小絹が慌てた様に口を開くが、言葉が続かず何が言いたいのか分からない。
「友達なんでしょ? それで良いじゃないの」
郭斐林が優しく声を掛けた。
「で? この書は?」
白千風が郭斐林に訊ねる。
「この子が持ってたのよ。で、見せて貰ってたところよ」
郭斐林は劉馳方が塀を乗り越えて忍び込んで来た事は白千風には告げなかった。
「ふむ。そなたはこの街の者か? 名は?」
白千風が今度は少年に訊ねる。
「劉馳方と言います。あの、招寧寺の南門の傍に住んでいます」
招寧寺というのは北東にある古刹で、かなり有名な寺である。
「それで? これはそなたの……」
「それは……私の祖父は行商人なんですけど、祖父が持っていた物なんです」
「ほう。名は何と申される?」
「劉建碩と言います。その、店も構えてませんし、ご存知無いかも」
白千風は黙って頷いた。
二十二
白千風は何度もぼろぼろになった冊子の中身を見返しながら徐々に胸が高鳴っていくのを感じていた。読める文字が少ないので郭斐林の言葉が当たっているかどうかはまだ分からないが、そう言われると見れば見るほど洪淑華が遺した秘伝書に思えてくる。陸皓や白千雲に見せれば何か解ってくるかも知れない。
「何故此処へこれを持ってきたのだ?」
再び劉馳方に訊いた。
「えっと、あの……」
劉馳方はちらっと李小絹を見たが、李小絹はまるで何も知らないといった様子で下を向いていた。
「それをうちで見つけたので……小絹に見せようと思って」
劉馳方はその冊子を今日初めて持ってきたのだという様に、ただそれだけ言った。
「ふむ。これは売り物かな? 本物の秘伝書ならばとても値が付けられる代物では無いと思うが」
「あー、どうなんでしょう? それは結構長くうちの蔵にあったみたいで……蔵と言ってもちょっと大き目の小屋ですけど。いずれは行商に持って出るのかもしれません」
白千風は冊子を閉じて劉馳方に真っ直ぐ体を向けた。
「出来れば、しばらくこれを貸してもらえぬか? これの中身を吟味して値打ち物だと分かれば是非買わせて頂きたいのだが」
白千風はじっと少年を見つめていた。白千風が言った事は何でも無い事の様ではあるが、もし聞いていたのが商人である劉馳方の祖父だったら即座に断るだろう。怒り出すかも知れない。売り物は書物で、しかも秘伝の武芸書という事なら金を貰う前に中身を見せるなど出来る訳が無かった。吟味などされれば最早、秘伝書では無くなってしまう。
客にしてみれば本物かどうかはっきりしないと金を出す訳にはいかない。しかし売り手の方も恐らく、本物だと証明する事は出来ないと思われた。劉馳方の祖父が黄龍門の人間でしかもその中で身分の高い者であったか、或いは洪淑華と繋がりがあるか、或いはその秘伝書の武芸を体得しているか――。物が物だけに通常の取引の様にはいかない筈である。
しかし、劉馳方はすぐに拒否をする訳でも無く、思案する様子を見せた。
「祖父は今、都へ行ってるんです。だからすぐに必要にはなりません。というか、恐らく祖父はその書の存在を忘れてるかも知れないんです。あの、ちゃんと返して貰えるのならお貸しします」
その言葉を聞いて白千風の表情に一瞬喜色が浮かんだがすぐに消された。
「勿論約束する。そうだな……小絹の知り合いという事ならまた此処に来る事もあろう? それほど時間は掛かるまい。ともかくお借りしよう」
白千風はそう言って郭斐林の方に振り返った。
「師妹、儂は今から真武観に行って来る」
そう言うと劉馳方から借りた書を持って表に向かい歩き出し、入り口の手前でまた振り返る。
「師妹、あの壁を破ったという者、放って置く訳にはいかんぞ?」
「……そうね。調べておくわ」
白千風は表に出て行った。
「あなたはさっきの男と関係は無いのね?」
「さっきの男……? ああ、ありませんありません」
劉馳方は郭斐林の急な質問に戸惑ったがすぐに慌てたように答える。少し声が大きくなっていた。
「あの、急にあの人が現れて……で、すぐにあの……お、奥様に見つかって」
郭斐林を奥様と呼んだところで急に声が小さくなった。
「わかったわ。じゃああなたは今度からはちゃんと門から入る事。いいわね?」
劉馳方は首を縮めて頷いた。
二十三
「あなたの持ってたあの本、ちゃんと返すからまた来なさい。小絹、此処の弟子達は皆一緒に暮らしてるけれど、別に隔離してる訳じゃないわ。出掛けたって構わないし、知り合いが訪ねて来るのも普通の事よ。隠れる必要も無いわ」
「……すみません」
李小絹は小声で答えたが心の中では、
(私があいつと隠れて逢う? 冗談じゃないわよ! 勘違いしないで! あいつなんてこの先一生会わなくたってどうってことないんだから!)
と、叫んでいる。しかし劉馳方は咎められて出入り禁止にもならずにあろうことか白千風にまた来いなどと言われている。李小絹の顔が怒りで紅潮してきていたが、周りの者の目にはまた別な意味にとられてしまっていた。
その日の夕刻、一人の女が屋敷を訪れた。
「奥様、環龍客桟の紅玉麗が来ております」
家僕の男が郭斐林に告げる。
「紅玉麗?」
紅玉麗という女は環龍客桟の女主人である。
「何かしら?」
郭斐林は怪訝な面持ちで呟く様に言う。
「奥様にお渡ししたいものがあると申しておりましたが……」
「分かったわ」
郭斐林が表に出て門を見遣ると、派手な真紅の衫を身に纏った女が柱に持たれかかって腕を組んでこちらを眺めていた。得体の知れない男共が頻繁に出入りする環龍客桟を長年取り仕切ってきた紅玉麗には常に宜しくない噂ばかりが流れ、まず普通の人々は近付きたがらない。紅玉麗という名は本名ではなく、自分で付けたらしい。いつも派手な格好で胸元を開いて白い肌を見せている。そんなには若くないが心持ちの良からぬ男達を引き付けるには十分なのだろう。しかし艶というよりだらしが無い様にも見える。
(はぁ、一体何の用かしら? 今日は……厄日ね)
郭斐林が門の方へ歩いて行くと、紅玉麗はニヤッと笑ってからその薄い唇を開いた。
「こんにちわ、奥様」
紅玉麗は柱にもたれたままの姿勢で言う。
「……お久しぶりね。今日は何の用かしら?」
「奥様。そんな、あんまりじゃありませんか。そんな、突っ返すように言わなくても」
郭斐林は普通に言ったつもりだが、案の定、この女はいちいち細かく絡んでくる。
「そんなつもりは無いけど。相変わらずあなたのお店は繁盛しているようね?」
「おかげさまで。色んな所から来ていただいてましてねぇ。こちらのお屋敷の方にも来ていただける位ですから」
郭斐林はその言葉を聞いて眉を顰めた。
(まさかうちの弟子がこの女の所へ?)
泊まり客でもないのにこの女の店に行くという事はもうやる事は決まっている。博打もしくは女買いである。紅玉麗は認めないだろうが、環龍客桟の商いは賭場に女郎屋を引っ付けたものだとこの街の誰もが思っている。そしてそれはほぼ間違いなかった。
「……どういう事かしら? うちの者があなたのお世話に?」
「お相手したのは私じゃありませんけどねぇ」
紅玉麗はニヤニヤしながら郭斐林の顔を眺めている。郭斐林は涼しい顔で見返していたが内心穏やかではない。
「こちらのお弟子さんがねぇ……もう腰が立たなくなっちまって帰れない様なんでお連れしたんですよ。私も暇じゃありませんけど、名高い真武剣派のお弟子さんですからわざわざ私が付き添って来たんですよ」
紅玉麗はそう言って口元に手をやり笑っている。郭斐林は込み上げてくる怒りを抑えて拳を握り締めた。
二十四
「入りな」
紅玉麗は柱にもたれていた体を起こして門の外に声を掛けた。すると表の通りから数人の男が戸板を寝かせた状態で運びながら門の中に入ってきた。その戸板の上には若い男が横たわっており、薄汚い麻袋を開いた様な布が腰のあたりに掛けられている。
郭斐林は目を見張った。横たわっている男は弟子の孔秦ではないか。腰より下は布で見えないが上半身は裸である。郭斐林の怒りが一気に噴出す。
「秦! 起きなさい!」
郭斐林はすぐに駆け寄って孔秦の肩を掴み激しく揺さぶった。裸で眠っているように見える孔秦が紅玉麗の店で一体何をしていたのか、想像に難くない。こんなことが街中に知れ渡ればどうなる事か――紅玉麗がこうして街中を運んできたのだからもう噂になっているかもしれない。真武剣派の、しかも自分の家からそんな恥知らずな不肖の弟子を出してしまうとは。
「秦!」
郭斐林は殆ど叫びに近い声を上げ、その声で再び屋敷中の弟子達が飛び出してくる事となった。
「あっ! 孔師兄!」
駆け寄ってきた弟子達が横たわる孔秦の姿を見て驚いている。紅玉麗はその様子を見ながら相変わらずニヤついていた。
「……秦? ……これは」
郭斐林が目を閉じたままの孔秦の顔を覗き込む。良く見れば口元に血が滲んでおり左の頬が少し紫がかっている。他には特に外傷らしきものは無いが、どうやら何者かと争った跡の様である。
「一体何があったの? 笑ってないで言いなさい!」
郭斐林は紅玉麗に詰め寄った。
「そんな大声で怒鳴らなくったっていいじゃありませんか。私はねぇ。この人がうちの店から一人で帰れない様だから運んであげたんですよ。さっきも言ったでしょう?」
「どうして帰れなくなったのかを聞いてるのよ? 何故、秦は怪我をしてるの?」
「さぁ? 最初は機嫌よくしてらしたんじゃないですか? 遊びのお相手を怒らせてしまったのかも知れませんねぇ。私はそんなトコまで関知しませんよ。あ、そうそう。服もお渡ししないとねぇ」
紅玉麗がそう言うと、傍にいた男が孔秦の服を乗せた腕を郭斐林の前に伸ばした。郭斐林はそれを少し乱暴に掴み取り、一瞬紅玉麗を見てから踵を返した。
「秦を部屋に連れて行きなさい」
他の弟子達にそう言うと一人先に部屋へ戻って行った。
「おいあんた! 孔の兄貴に何しやがった!?」
鄭志均が紅玉麗に向かって言う。
「私は何もしやしないさ。うちにきたそいつに聞けば良いじゃないか。時期に目も覚めるだろうよ。じゃ、ちゃんとあんたらのお仲間はお返ししたからねぇ」
紅玉麗がそう言って表に出ると、孔秦を運んできた男達も黙って続く。
「お、おい待て! まさかあんたら……」
「何なのさ?」
紅玉麗が面倒そうに首だけ回して鄭志均を振り返った。
「……あんたの所に木……木傀風様と仰る方が泊まってる筈だ。その方はどうした? まさか無礼を働いたんじゃないだろうな?」
「誰だって? うちにそんなお偉いさんが泊まってたかねぇ? 私に聞いてもいちいち客の名前なんて覚えちゃいないよ。そのなんとか様の様子が知りたいならあんたもうちに来たらどうだい?ついでに遊んでいきなさいな。先に言っておいてくれればいい娘を用意しとくからねぇ。ああそうだ、その何とか様ってのが女が嫌いじゃないならあんた奢ってやれば喜んで貰えるんじゃないの?」
そう言って紅玉麗はまた笑った。
二十五
「なっ! 何だと!?」
「鄭兄貴! 戻りましょう。あんなの相手してても仕方ないですよ。孔師兄に聞けば事情は分かるんですから」
「じゃ、もういいんだね? 遠慮せずに何時でもおいでなさいな」
紅玉麗は男達を引き連れて通りの真ん中を歩いていく。
「あばずれ女!」
鄭志均は紅玉麗を罵りながらその背中を睨みつけていたが、その声は彼女に届くほど大きくは無かった。
それから暫く鄭志均達は孔秦を見守るように集まっていたが、一向に目覚める気配は無かった。他に外傷がないか体をあらためて見たが、気を失ってしまうような強い衝撃を受けた痕跡も無い。呼吸も脈もしっかりしており、とりあえず様子を見るしかない。
「どう?」
郭斐林が部屋に入ってきて孔秦を囲んでいる弟子達に声を掛け、静かに扉を閉めた。
「師娘、孔師兄は環龍に遊びに行ったんじゃありません。本当です」
鄭志均が言う。郭斐林は軽く頷いて孔秦を見た。
「……きっとそうね。秦がそんな事する訳が無いわねぇ……」
見つめながら呟く。
「で? 何しに行ったのかしら?」
「あー、それはですね……」
「志均、あなた、あの壁を破った男も知ってる様な事言ってたわね。それも合わせて教えて貰いましょうか」
郭斐林は真っ直ぐ鄭志均に向き直る。
「はぁ」
(もう隠せない)
と、思ったがすぐに、
(隠すって何だ? 大した話でも無いじゃないか。そもそも木道長があんな所に居るからいけないんだ。師娘に言って師娘の指示を仰げば何の問題も無い。このままほっといたらあの武大とかいうおっさんとか、もっといろいろ仕出かしそうだ)
そう考えて顔を上げた。
「何ですって!?」
鄭志均がまず初めに清稜派の木傀風道長が環龍客桟に滞在している事を告げると、郭斐林は椅子から跳ね起きて身を乗り出した。
「木道長が……志均! 何故それをすぐ言わなかったの!? 誰が道長をあそこへお連れしたの!?」
鄭志均はうろたえた。
「いや、道長様は街に着いてすぐに環龍に入られた様で……誰がって事は無いみたいで……」
「誰から聞いたの? 他の清稜派の方々も御一緒なの? あんな所、まともな客が入れる部屋なんてあるのかしら? 真武観へはもう行かれたの? ……そんな筈無いわね……もしそうなら師父がきっと私達にお世話をするように言われる筈ね……」
郭斐林は次から次へと独り言のように疑問を呟きながら視線を泳がせていたので鄭志均は口を挟めず、暫く間が空いた。
「秦も知っていたのね?」
「ええ。最初にあの武大って男を見つけたのは孔師兄ですから」
「武大?」
「あの、壁を壊した奴ですよ。この前あの男、金も無いのに飯を――」
「どういうことなの!?」
急に郭斐林は鄭志均を睨みつけるように見て詰問する。
二十六
「あなた達、あの男と何かあったのね!? まさかそれで今日あの男は此処に忍び込んで何か仕返しを――」
「違います違います!」
鄭志均は両の手を突き出した。
「あの武大って男は道長様に付いて清稜山から来たらしいんですが、着いてすぐ金も無いのに料理屋に入って飯食ってたところを孔師兄が見付けたんです。でも別に悶着を起こしたって程ではありません。結局他の人間が金を持ってきて払って、それで……終わりです」
「清稜派の人間が無銭飲食? そんな事する訳無いでしょう?」
「いや、道長様はご存知無かったと思います。あの武大って男は門人では無いようです。本人が言っていたらしいですから。それに料理屋に行ったのも道長様をほったらかして勝手に来ていたみたいです」
「木道長の知り合い……あの技……」
郭斐林は呟いて宙を見つめた。
「師娘?」
「とにかく」
郭斐林は顔を上げて周りの弟子達を見回した。
「一刻も早く木傀風様をお迎えに行かないといけないわ。……秦は木道長に会いに行ったのかしら?」
「それは……どうなんでしょう? ただ、ごろつきの溜まり場ですし何かあってはいけないという事で時々様子を見に行ってました」
「分かったわ。環龍客桟に行きます。志均、それから程青、一緒に来なさい。他はいいわ。そうね……此処に来ていただく事になるでしょうから、王さんにそう伝えて準備をしておきなさい」
「分かりました」
弟子達は揃って答えた。王というのはこの屋敷に長年仕えている小間使いの女だが屋敷に人が多くなり李小絹のように新たに雇い入れた家人達を取り仕切る立場にあった。
陽が傾き冷たい風が強くなってきている。流石にこの南方の街武慶でも完全に陽が暮れれば冬を実感する。しかし木傀風達清稜山の住人にとっては冬とは思えない程の暖かさと感じている事だろう。清稜山は北方に位置するという訳では無いが中原とは違ってかなりの高地でもありその険しい地形によって冬は降雪量も多く殆ど他の土地と隔離されると言って良い。きっと木傀風一行はかなり前から山を降りて来たに違いなかった。
郭斐林と弟子二人は環龍客桟の前までやって来た。此処の女主人、紅玉麗はいつも派手な服を身に纏って華美な風情だが、この店は質素というよりぼろ宿と言った方が相応しい程荒れ果てている。無論、出入りする客もそれ相応である。木傀風が気に入るなどという事があるだろうか。それほど酔狂な人物では無かった筈だが――郭斐林は店先を眺めながら思った。
「おっ、今度は何だ? 孔秦の奴が泣きついてきたのか?」
店の前にたむろしていた三人の男の内の一人が、店の前に立った郭斐林に声を掛ける。
「これはこれは師娘様。勘違いしてもらっては困るぜ? 孔秦の奴をぶっ飛ばしたのは俺達じゃないんだからな。名門真武剣派のお弟子さんを俺達がどうこう出来る訳が無いしなぁ」
別な男が言い、三人ともにやにやしながら郭斐林らを眺めていた。
「程青、たまにゃ俺達と遊んでくれよ。お前も剣ばかりじゃ飽きないか?たまにゃあもっと違うもん握りたいだろ? へへッ」
男は腰帯の端を振り回しながら下品に歪めた口元を呉程青に向けて突き出した。
「な……何を」
「ふざけるな! 許さんぞ!」
呉程青の顔が凍りつき、同時に鄭志均が怒声を上げて男の前に飛び出す。
「ほう、許さなけりゃあ、どうするんだ?」
男は先程の緩んだ顔を一変させ、鄭志均に向かって凄んだ。
二十七
「どうもしないわ。あなた達に用があって来たんじゃないの。通して貰えるかしら?」
郭斐林が代わって答える。その平坦な声と見る物を突き通す様な鋭い視線が男達に向かって放たれた。
「フン、好きにすりゃいいんじゃねえか? 俺たちゃ関係ねぇ」
男達は語気は強いが塞いでいた店の入り口の前から離れて行く。郭斐林にへつらうつもりは毛頭無いが、本気で怒らせて敵う相手では無い事は良く知っている。それでも真武剣派高弟の一人である郭斐林に対して不遜な態度を取るのは此処にたむろする男達くらいのものだろう。
郭斐林を先頭に店に入ると、中には十数人の男達が居り一斉に入り口に顔を向けた。郭斐林は男達には目もくれずに真っ直ぐ奥に向かって進み、二人の弟子達は横目で男達の様子を窺いつつ後に続く。
「誰か。居ないの?」
店の奥を覗くが店の者が誰も見当たらない。店に居るのはじっと三人の方を窺っている男達だけの様で、客が居る様にも見えない。
「可愛い弟子の仇討ちかい?」
男達の中から声が掛かる。郭斐林はゆっくりと振り返った。
「そのつもりは無いけれど、此処に今その「仇」とやらが居るのならそれもいいわね」
「居るぜ」
郭斐林に声を掛けた男は髪も髭も伸び放題の痩せた男で頬と眼窩がひどく窪んでいる。夜道でいきなり出くわせば思わず悲鳴を上げてしまいそうな不気味な顔だ。老けて見えるが実際は若いらしい。郭斐林も二人の弟子もこの男の事は見知っていた。この店に集まる男達はどういう繋がりの者達なのかは知らないが、この骸骨のような男が常に中心に居る。男は徐と名乗っていた。
「あなたかしら?」
「ハッ、まさか」
徐は細い腕を顔の前まで持ち上げて、すぐに戻す。
「俺とやってあんな程度で済むかな?」
「……」
郭斐林は黙って徐を真っ直ぐ見ている。徐は目を伏せ、暫くしてから鼻を鳴らして微かに笑う。
「いや、あんな風にはならないと言った方が良いな。こっちにもやられた奴が居る。まだ目は覚めてない。あんたの弟子と一緒に仲良くぶっ飛ばされちまったのさ」
郭斐林は意味が解らず眉を顰めた。徐は続ける。
「あんたが来てくれて良かったよ。あんたの弟子とうちのを遣りやがった奴はすぐ傍に居るんだが、どうにも手が出せそうに無い。あんたなら何とかしてくれそうだ」
「……用事が済んだら是非会ってみたいものね。此処の人は何処に行ったのかご存知かしら?」
「知らないな。いつかは戻って来るだろうよ。まぁ待つんだな」
徐を取り囲むように集まっている男達は全く動かず無言のまま郭斐林達を見ている。まるで徐がしゃべるのを邪魔しない様に気を使っているかの様だ。明らかに徐がこの男達を仕切っている様だが、何故こんな痩せこけて一見弱々しそうにも見える男に皆従うのかは解らない。周りには徐よりも遥かに体格も良く腕っ節の強そうな男は何人も居た。
「師娘、部屋を見てきましょうか? こんな所で待ってる訳にもいきませんよ」
鄭志均が言う。
「そうね……行ってみましょう」
郭斐林の言葉に呉程青も頷き、三人は部屋の並んでいる二階へ上がる階段に向かって歩き出す。すると丁度その時、入り口の扉が開いた。
「大人しく此処でじっとしてるの。いいわね?」
「ただでさえこの街は退屈だというのにこんなぼろ宿に閉じ込める気か? 勘弁してくれ」
声を聞いて郭斐林達は足を止めて振り返った。最初に入ってきたのは女だったが、次に姿を見せたのは昼間屋敷にやって来た武大であった。
二十八
中に居る男達は皆揃って今度は今入ってきた武大と女を見ている。その中で徐だけが薄ら笑いを浮かべながら酒の入った椀に視線を落としていた。
「師娘、あれ――」
鄭志均が言うのを郭斐林はサッと手を上げて遮った。
「私の言う事はもう聞いてくれないの?」
「そんな事あるか」
「そう? もう少しの辛抱よ。道長様が真武観に行くって仰ったら出られるわ」
会話を聞いた郭斐林は静かに二人に歩み寄って拱手する。
「清稜派の方々ですね? 真武剣派、郭斐林と申します」
「えっ」
女は少し驚いた様に目を見開き、武大の方は口まで大きく開けて郭斐林を見つめている。
「先程は失礼を致しました」
郭斐林はにこやかな表情を作って武大に話しかけた。
「こっ、こんな所まで来て儂をどうするつもりだ? あれはあんたが――」
「木傀風様と共に参られたそうですね。お待ちしておりました。先刻のご無礼お許し下さいませ」
郭斐林の態度が一変しているのを見て武大は少しばかり混乱してしまった。
「お、あ、ああ」
女が郭斐林に向かい拱手して返す。
「常施慧と申します。私共は清稜派の門人ではございませんが、木道長様のお供をして参りました」
郭斐林は笑みを絶やさず小さく頷いた。
「まだ道長様は真武観に行かれていないそうですね。我が師は道長様がお越し下さるのを心待ちにしております。是非すぐにでもお越し頂きたいのですが……」
「私も道長様に申し上げているのですが、まだ早いと仰っておられまして」
「そんな事はございませんわ。もうそろそろ他のお客様もこの武慶に着かれる頃。此処では何かと不自由でしょう? 私共がお世話させて頂きますので是非私共の屋敷にお越し下さい」
常施慧は頭を下げる。
「有難うございます。あの、道長様にお会いになりますか? あなた様から言って頂ければ道長様もお聞き届け下さると思います」
「それは是非。今お部屋に?」
「はい。こちらでございます」
常施慧は少し腰を屈めて郭斐林に付いてくる様に促しながら歩き出す。すぐに郭斐林も続いたが、武大はその場に立ち尽くして後姿を眺めていた。
「道長って誰の事だ?」
不意に徐が声を発した。郭斐林と常施慧の顔を交互に見遣って答えを待っている。常施慧が徐に向かって口を開こうとするのを郭斐林は押し留めて一歩前へ出る。
「こちらの話。あなたには関係ないわ」
「……ここに泊まってる爺だな? そうだろう?」
「我々の大切なお客様よ。あなたはお会いしたの?」
「フフッ、お客様か。それはまたややこしい事になったな。その爺があんたの弟子に手をかけたんだがな」
郭斐林は驚いて徐を睨みつける様に見たが声は出さない。代わりに常施慧が口を開いた。
「そんな事……道長様がそんな事なさる筈がありません! あなた達一体何を……」
「構わないで。行きましょう」
郭斐林が常施慧に向かって言う。郭斐林達四人は武大を残して二階への階段を上がって行った。
二十九
階段を上がると常施慧は真っ直ぐ木傀風の泊まっている部屋へ向かい静かに扉を開く。後に続いた郭斐林は背筋を伸ばして常施慧が入るのを待った。
「道長様、只今戻りました」
常施慧がそう言って頭を下げたのですぐ後ろの郭斐林にも部屋の中が見えた。質素を通り越して粗末な部屋で、置いてある調度品は近寄って眺めるまでも無く壊れかかっている。
正面の古い寝台の上で、こちらに向けた背を真っ直ぐ伸ばし足を組んで端座している人物が居る。
「んん」
常施慧の言葉に答えたのだろうか、唸る様な小さい声が聞こえた。鄭志均達は会うのは初めてかもしれないが郭斐林はその人物の後姿にも見覚えがあった。この人物が清稜派掌門、木傀風である。
「道長様、真武剣派の方々が参られました」
常施慧はそう言ってから郭斐林を招き入れる。木傀風はまだこちらに背を向けたままだったが、郭斐林は頭を下げて一歩入り、再び低頭した。
「道長様。真武剣派、郭斐林が参りました」
他に音は無く、郭斐林の声は先程までと違い少し低く僅かに力を込めてあり、後ろで聞いていた呉程青は狭い部屋に師娘の声がゆっくりと満ちていくかのような感覚を覚えた。
ほんの少し間が空いて、寝台の上の木傀風がゆっくりとした動作で体ごと振り返った。
(……ずいぶん痩せられたわ。お体は大丈夫かしら?)
郭斐林は木傀風の気息が弱くなっているのを感じ取り、密かに顔色を窺う。木傀風は郭斐林を見たが何も言わずに頬を緩めていた。老人であるから痩せているのは普通で、長く会っていないのだから不自然という程でもない。其処彼処に繕った跡のある薄いねずみ色の古い上着を纏っている。白い髪は少なくなってきていた。、
「お久しぶりでございます」
「うん」
木傀風は短く声を発して微笑み、また郭斐林を眺めている。
「道長様、ご気分は如何です?」
常施慧が木傀風の傍に寄って声を掛けた。
「うん。すこぶる良いぞ」
「それは宜しゅうございました」
この二人の間に流れる時間は他所よりも遅いのだろうか。微妙な間を挟みながらやり取りが行われ、郭斐林達には少し変わった感覚だった。
「斐林、そなたは幾つになったかな?」
不意に年を訊かれて郭斐林は戸惑う。随分長くそんな質問を聞いていない。
「もう四十一になってしまいました」
そう言って目を細めて微笑する。
「ほう、儂はそなたが陸の弟子になってすぐの頃を今でも覚えておる」
木傀風の口から緩やかに言葉が流れ出る。
「私も道長様に初めてお会いした時の事ははっきりと覚えております」
郭斐林はそう応じながら、
(何故そんな昔の話を? あれから何度もお会いしてるのに……)
と、不思議に思った。
「結局、陸はそなたの後に弟子は取らなんだのう。何故かな?」
「……それは今まで師父は仰った事がありませんわ。私にも解りません」
「後ろのはそなたの弟子かな?」
「この者達は兄弟子白千風の弟子でございます」
ここで初めて鄭志均と呉程青の二人が拱手して挨拶する。
「うん」
木傀風は柔らかい表情のまま頷く。また少し間が空いて、
「都に行ってのう」
話が飛んだ。
「え?」
急に話が変わるので郭斐林は思わず声を出して聞き直した。
三十
木傀風は組んでいた足を解いて寝台から下ろし、素足を床に付けて座り直す。両手で顔をさすってからまた郭斐林を見た。
「中原へ足を運ぶのはもう最後になるやも知れんでな」
「そんな……お元気そうではございませぬか」
「そう見えるか?」
「はい」
郭斐林は間を空けず即答する。
「この歳になると明日があるかどうかも怪しくなる。まあ若くても同じかもしれんが少なくともそんな事は忘れて居られる」
木傀風はそう言って再び顔をさすった。
「そなたは若いのう」
「そのように仰って下さるのは道長様だけですわ」
郭斐林は少しおどけた様言って笑みを浮かべた。
「都でそなたの兄弟子に会った」
「丁常源師兄でしょうか?」
「うん。中々やり手だのう。若い弟子が増えておるな」
「正式に弟子入りしている訳ではありません。我が派の武芸を通じて心身を鍛える場を提供するという総帥のお考えなのです。特に都は誘惑も多く若者達の暮らしは堕落しがちの様ですから、入った当人達よりその親の方が熱が入っているそうです」
「ま、結構な事だ。剣の扱い方も碌に知らんのに腰にぶら下げて、何かあればすぐに抜いて振り回す輩も多い。剣とは何ぞや? 武とは何ぞや? ハハ、儂にも難しいが、若い連中が今から頭をひねっておればいずれ悟ることであろうな」
どうやら木傀風はまだまだ喋り続ける様子である。郭斐林もこの老道長と話したいことは多々あるが、今である必要は無い。木傀風はこの先当分この武慶に滞在する事になるので話す機会は十分にあった。
「道長様、もう陽が暮れます。どうか私と一緒に屋敷にお越し下さい。そうでなければ私が師父に叱られます」
「その師父が言うた日取りはまだ先だろう? 儂は勘違いしておってな。早う着いてしもうた。もう日数もまともに数えられんようになったかと笑われてしまうなぁ」
そう言って木傀風は溜息をついた。
郭斐林は木傀風が冗談を言ったのかと思ったが、どうやら本気でそんな事を気にしているようである。
いつの間にか常施慧は部屋の隅で身の回りの荷物を整理していた。まだ木傀風は此処を出るとは言っていないが、全く気にしていない様子である。
「道長様、あまり遅くなってはお迎え下さる皆様にご迷惑となりましょう。宿の人に言って参りますので」
常施慧は丁寧な口調ではあったが一方的に言って部屋を出て行ってしまった。郭斐林にはとても従順そうな女性に見えていたのだが少し意外な気がした。
「はぁ。行くしかないか。そうだなぁ、行くか」
木傀風の言葉に郭斐林は微笑みながら頭を下げた。
「店の者は居りましたか?」
暫くして戻ってきた常施慧に郭斐林が尋ねる。
「誰も居られないようですわ。どう致しましょう」
「後でうちの者に託けさせましょう」
「お手数をお掛けして申し訳御座いません」
そう言って腰を折る常施慧は柔和そのもので、そんな女性がこの環龍客桟に居る事が不自然に思える程である。
「あれはどうした? 何処へ行った?」
木傀風が常施慧を見遣った。
三十一
「大さんなら先程一緒に戻りました。弟達は……まだ戻ってませんが、大さんに呼びに行って貰いましょう」
「うん」
木傀風は立ち上がる。
「それでは私達は下でお待ち致しますので」
郭斐林と二人の弟子は部屋を出た。
階下に下りると近くの椅子に武大が腰掛けて何をする訳でもなくぼんやりとしていたが、郭斐林達の姿を見ると顔を逸らして縮こまった。
「木道長様は我が屋敷に来て頂く事になりましたので」
郭斐林が話しかけると武大はチラッと振り返ってほんの少し頷いただけだった。
郭斐林達は入り口の近くまで来て立ったまま木傀風が降りてくるのを待つ。再び徐が話しかけてきた。
「あんたらは清稜派と喧嘩はしたくないのかい?」
郭斐林は眉を顰めて徐の方へ顔を向ける。
「ついさっきあんたらが「道長」って呼ぶのを聞いて思い出した。あの爺さんが清稜派の道長なんだな。道理でお強い訳だ」
「お前ら、爺さんに何をした?」
郭斐林に背を向けて座っていた武大が立ち上がり徐の方を向いた。
「何もしてない。出来る訳が無いしな。いきなりあの爺さんがうちの奴と真武剣派の弟子に手を掛けた」
「フン、信じられん。爺さんがお前ら如きに関わるものか」
「ハハ、そうだな。俺ら如きをいたぶるとは清稜派道長とは思えん所業だ」
「あなた達はまだそんな事を言っているのですか」
常施慧が荷物を持って階段を下りてくる。下に着くと荷物を置いて徐の方へ体を向ける。
「何があったか知りませんが、道長様が何の理由も無しにあなた方のお相手をなさる筈がありません」
常施慧は、絶対に在り得ないという様に断言する。
「何があったのか知らないんだろ? 知らん事に口出ししない方が良いな」
徐はそう言って常施慧を睨んだ。しかし常施慧は相変わらず涼しげな顔で徐を見つめている。 徐をはじめ、柄の悪い男達が皆一様に常施慧を睨みつけていたが、意に介さない様子だった。
(この人、見かけに寄らず相当腹が据わってるわね)
郭斐林は黙って常施慧を見つめながらそんな事を考えていた。
「私は長年、道長様にお仕えしてますから分かります。何かあったとしたらそちらに非があるのは明らかです」
流石にこの物言いには徐達でなくとも腹を立てるに違い無かった。
「ケッ、清稜派ってのは随分勝手な奴らの集まりなんだな」
徐は窪んだ眼窩の奥で目をぎょろつかせて吐き捨てる様に言う。
「さぁ? あなた達とどちらが――」
常施慧が応じようとしたその時、徐が目の前に置いていた椀に手を伸ばした。次の瞬間、椀が卓を離れ、一直線に常施慧に向かって飛んだ。
(危ない!)
郭斐林が即座に常施慧めがけて飛ぶ椀に向かって跳躍しようと身を僅かに屈めた瞬間、脇から大きな影が凄まじい勢いで追い越して行くのが見えた。常施慧に向かっていた椀は大きく反れて壁に叩きつけられ粉々に飛び散る。武大が常施慧の前に立ち、椀を払い除けたのだ。常施慧はと言えば微動だにせずじっと徐を見ている。
三十二
郭斐林は一瞬の出来事に目を見張った。
(この男、木道長の弟子なのかしら? あの体躯であの速さは尋常じゃない。でもあの時の技は……。あの常さんも武芸を修めているのかしら?)
常施慧は全く動いていないが、椀に何の反応もしていないのは、出来なかったからなのか、武大がそれを退ける事を分かっていたのか――。今の態度は自信の表れとも取れるが、微動だにしておらず武大が間に合わなければ椀は確実に常施慧まで到達していた筈である。
「お前、何の真似だ?」
武大が常施慧の前に仁王立ちになり、徐を睨み返す。徐は椅子の背に体を預けて言う。
「フン、俺達は見ての通りただのゴロツキだ。あんたらに用など無い。そっちから突っかかって来ない限りはな。清稜派だろうが真武剣だろうが知った事か」
徐は今度は身を乗り出して続ける。
「相手が誰だろうが例外は無い。今日、清稜派の木という爺さんが俺達の仲間を傷付けた。意識が戻らねぇ程の重症だ。こっちは爺さんに対して何もしてないのに、だ」
「出鱈目だわ。その意識を失った人は何処に居るのかしら?」
「こんな所に置いとく訳無いだろうが。すぐ医者に運んだ」
「医者は何と言ってるんだ?」
武大が訊ねる。
「手に負えんらしいな。爺さんにやられたのは確実だ。此処に居る奴ら全員が見てるんだからな。勿論俺もだ。だが外傷が無い」
「……それで、どうしたいのだ?」
「そうだな。清稜派道長に俺達の前で土下座でもしてだな、きっちり詫びを入れてもらおうか。そうだ、真武観に行くんだろう?そこが良いな。それと奴を医者に見せるのはタダじゃない。金だ。もしもの事があれば奴の家族は困り果てるだろうな」
「ハハッ!」
武大は急に笑い声を上げる。
「何とも稚拙な脅し文句だな! それに世間知らず……ちょっと違うか。爺さんに土下座しろと? あんな爺さんでも清稜派の道長だぞ? 武林屈指の使い手だ。お前らとは格に雲泥の差があるのだ。爺さんとまともに渡り合える者は少ない。何があったか知らんがもし爺さんがぶち切れたら、お前ら全員皆殺しだ!」
「何だと!?」
「何を言うの!? 馬鹿なこと言わないで!」
武大の言に気色ばんだ男達と後ろの常施慧が同時に声を上げた。
「道長様がそんな事なさる筈が無いでしょう!」
男達の中には既に腰の剣に手を掛けている者も居る。徐は表情を変えていないがその場の空気は一気に張り詰めた。郭斐林の体にも少しばかり緊張が増した。
(この武大って人、意外にまともな事言いそうだったけど、結局煽ってやっぱり期待出来ないわ)
「徐さん。木傀風道長があなたが言う様な乱暴を働くなど考えられない。あなた達は一体何をしていたの?」
郭斐林は徐にそう訊ねながら常施慧と武大の傍に歩み寄った。
「……帰って孔に聞け。意識が戻ったらな」
徐は言った後顔を上げて不敵な、不気味な笑みを浮かべた。
「……皆殺しか。いいか、俺達にそんな台詞は何の意味も無い。木だろうが陸だろうが相手の名前など知るか。とことんやるまでよ」
「お前らみたいなのは皆そう言うだろうな。そう言えなければお前らは本物の屑共になってしまう。そして爺さんはお前らの相手などしない。相手がお前らではお遊びにもならんからな。そしてお前らは無事で居られる。世の中はうまく出来ておるわ」
武大はそう言ってこちらも負けじと笑い返す。徐は再び眉を顰めて武大を睨み付けた。
三十三
徐はとことんやると言ったものの、内心考えあぐねていた。自分達の同類が相手なら何も考える事は無い。頭を空っぽにしてただ腕力で相手をしていれば良いのだ。相手に少しばかり強力な後ろ盾があろうとも怯む事など無かった。。
今までとは違う妙な気分だった。ゴロツキ同士の揉め事など当り前の日常で、そればかりが続いていると飽きてくる。徐は常々もっと手応えのある者を相手にしたかった。別に喧嘩の類を生業にしている訳でも無いのだが、放って置いても仲間内の誰かがどこからか揉め事を持ち出してくるのでそれが今の生活の大半を占めていた。だから殆ど徐達の拠点と化している此処、環龍客桟は街でも一、二を争う物騒な店と囁かれているのだ。其処へ突然、武林に名高い清稜派道長が現れた。自分達のねぐらに、である。退屈な日常の中でまどろんでいた徐は珍しい玩具を見せられた子供のように目を見開いていた。
一人の老人と少しばかりのお供がくっ付いているだけで街の人間はまさか清稜派道長の一行だとは気付かない。そんな一人のちっぽけな老人だが、徐はちゃんと理解している。この老人たった一人こそが広大な武林における巨大な一角なのだ。今、武林に強い影響力を持つ勢力とは、この街の真武剣派を筆頭に清稜、襄統の二派と遼、慧、媚の三岳。各地に無数に存在する幇会では特定の本拠を持たない最大勢力である丐幇と緑恒の千河幇。そして太乙北辰教である。その他の無数の門派幇会は殆どがこれらの支配下に収まっていると見て良いだろう。そんな中でも特に他に影響力を持つのはやはり、より古くから武林に存在し続けている系統で、清稜派、丐幇、北辰教である。陸皓の興した真武剣派は特殊な存在なのだがこれも加えられる。三岳については歴史は深いものの、どれも自ら進んで他と交流する事が無い為、どちらかと言うとあまり意識される事が無い。
木傀風はその中の清稜派の長であり、本来なら徐の様な男が出会う機会などあろう筈が無かった。この武慶には陸皓が居る。しかし徐は陸皓の姿を見た事があるだけで近付いた事は無い。真武剣派の弟子達を街中で見かけて仲間がちょっかいを出すと言う事はあるが、基本的に真武剣派の人間は自分達を相手にしようとはしない。徐達にしても用が在る訳でもない。別世界の住人なのだ。
徐は郭斐林を見知っており、郭斐林も徐という男が居る事は知っていた。話すのは今日が初めてだったが、徐は何の遠慮も無く郭斐林に対して口をきいている。たとえ今、郭斐林が腹を立てる様な事があったとしても大した問題にはならないと考えているからだ。実際何度も(相手にされていない)と感じていた。
(陸皓はこの程度の事で俺達に構う事などしない)
清稜派の長、木傀風はどうやら陸皓とは違う様だ。陸皓とは対照的にボロを纏ってこんな宿に平気で泊まる。自分達の喧嘩に首を突っ込む。徐は意外に思っていた。武林の長老たる木傀風が平気で自分達に近付いて来るのだ。何か今までと違う面白い事が起きそうな気がしていた。しかし下手な事は出来ない事も分かっている。うまく弄れば自分の名を上げる事が出来るかも知れない。しかし勿論そんな考えはおくびにも出さずにいた。
「あんたらの親分の誕生祝いか? あれに出る為に来たんだな?」
徐は郭斐林に向かって言った。
三十四
「それはもう終わったわ。道長にお越し頂いたのは我が真武剣派の四十周年を祝う英雄大会に御出席頂く為」
「そいつは是非俺達もお祝いに伺う必要があるな。俺も長くこの武慶に住み着いてお世話になってるしな」
そう言う徐に対して武大が口を開く。
「お前、金あるのか? 儂等みたいに名が通っておらん奴は相当祝儀を積まねば入れて貰えまいて」
「ケッ、金のある奴以外お断りか。真武剣派は名ばかりでかくてその実は随分しみったれた奴らだな」
徐は郭斐林に侮蔑の目を向ける。
「私は何も言ってないわ。純粋に祝いに駆けつけて下さる方なら拒んだりしません。無論、あなたでもね。手ぶらで来て頂いても結構よ」
郭斐林は笑顔を作って返した。
丁度その時二階から木傀風が姿を現し、ゆっくりと階段を下りてきた。
「儂等も手ぶらで良かったかのう? 随分苦労して金を工面してなぁ」
「道長様?」
すぐに常施慧が傍に走り寄った。
木傀風は徐を見てから郭斐林に顔を向ける。
「知り合いか?」
「あ、……いえ、何と申しますか」
「知り合いなら具合悪いだろう? あんたは俺達を傷付けた。しかしもうやばいんじゃないか?」
徐は椅子に腰掛けたまま木傀風に言う。
「あんたがやった二人の内、一人は真武剣派白千風の弟子なんだからな」
そう言ってニヤリと笑う。
「ほう」
木傀風は全く表情を変える事無く、ただそう言うだけである。郭斐林は口を開こうとしたが、何を言えば良いのか咄嗟に声が出なかった。常施慧に武大、鄭志均、呉程青らは木傀風に見入って、ここで何があったのか言葉を待った。
徐は苛ついた。
(この爺さんは呆けているのか? 意味が分かってない訳ではあるまい)
「斐林」
木傀風が郭斐林に言う。
「そなた達が来る前に此処で喧嘩があってな。ひどく暴れておるゆえ儂が止めたのだ。しかし、息の根まで止めたわけでは無い」
木傀風はそう言って一人笑った。
「もう結構時間が経っておるが……あの二人は何処へやった?」
今度は徐に向かい訊ねる。
「医者に決まってるだろう! もし奴が死んじまったらどうしてくれる!?」
徐が初めて椅子から勢い良く立ち上がり、木傀風に向けて指を突き出した。
「死にはせん。もう回復しておろう。迎えに行ってやるがいい」
木傀風は相変わらず平然として事も無げに応じるが、何故か徐は何も言えなくなってしまった。舌打ちして顔を背け、また椅子に身を投げた。
「そっちの弟子はここの紅って女が屋敷まで運んだ筈だ。あんた見たか?」
徐が郭斐林に聞く。郭斐林は何も言わず僅かに目を伏せて答えない。
「千風の弟子が何故此処で喧嘩しとったのか知らんが、とにかく心配ない。ただ気を失っておるだけだ」
郭斐林は声は出さずに木傀風に頷いて見せた。
「では参ろうか」
木傀風はそう言って先に店を出て行く。郭斐林らも続いたが誰も徐の方を見ることは無かった。徐の方もそっぽを向いて酒を呷り始めた。
三十五
「道長様、これを」
常施慧が真っ白で長い毛足の毛皮を取り出し木傀風の背を覆う。郭斐林にはそれが何の毛か分からなかった。
「うん」
木傀風は小さく頷きその毛を少し撫でる。冷たい風が毛並みを揺らしていた。
通りは既に薄暗く人も疎らになっている。郭斐林と二人の弟子は木傀風と常施慧を挟んで両脇について歩いている。武大だけが一人後方に離れていた。
「そうだ、忘れてたわ。大さん、中さん達を呼んでこなければ」
常施慧が後ろを振り返り武大に言う。木傀風が立ち止まって振り返った。
「どこまで行っておるんだ?」
「あーそんな遠くじゃない。いつもの店さ」
「大さん、すぐ呼んで来て」
「こんな所で待つのは寒いのう。一旦、斐林の屋敷に行ってからにせよ。一度行けば場所も分かるだろう」
木傀風は背の毛皮の端を両手で掴んで首を縮めている。
「……場所は知ってる。先に行って貰って結構だ」
武大はそう言って踵を返し、来た道を戻り始める。
「ちょっと、大さん何故郭さんのお屋敷を知ってるの?」
「この街では有名なんだろう? 儂がすでに知ってても良いだろうが。此処に何日居ると?」
常施慧が声を掛けると武大は面倒そうに顔を顰めて大声を出した。
「そんな……そんな言い方しなくても……」
常施慧は急に呟くように言って俯いてしまった。それを見た武大があわてて駆け寄る。
「あー、すまん。その、ちょっと喉がおかしくて何故か大声が出てしまったのだ。はは……もう辺りは静かだというのに……びっくりしたか? 施慧、許してくれ」
武大は常施慧の両肩に手を添えて体を曲げ、常施慧の顔を覗き込んでいる。
郭斐林はその様子を見ながら微かに微笑んでいた。
(この二人、夫婦かしら? 二人ともちょっと変わったところがあるようだけれど、仲が良いのね。まぁ木道長にお仕えしてる人なら変わってても別に不思議じゃないかも。それにしても……この武大という人はどういう人なのかよく分からないわね)
武大は暫く常施慧に優しく声を掛けながら時折その白い頬を撫でている。たとえ夫婦でも街中でこんな振る舞いを見せるなど郭斐林にはとても考えられない。じっと二人を眺めている訳にもいかず、傍に居る鄭志均に声を掛ける。
「志均、先に行って王さんに部屋を暖めておくように伝えて」
「分かりました」
鄭志均はすぐに小走りで屋敷に向かう。
「おい、はよう行って二人を連れて来い。儂等は先に行っておるからのう」
木傀風が毛皮に顔を半分埋めて目を細めて言うと一人、先へ歩き出した。
「ああ、すぐ戻る」
武大は答えたが顔は常施慧に向いたままだった。
武大が通りを戻って行き、再び四人が歩き出す。もう人とすれ違う事も殆ど無くなった。
屋敷の前の通りまで来ると、前方の門の前に数人の人影が見えている。郭斐林はすぐにその一番前に立っているのが白千風だと気付いた。白千風は屋敷に帰ってすぐに郭斐林が木傀風を迎えに行った事を聞いていた。
「木道長、ようこそお出で下さいました。白千風でございます」
白千風は真っ直ぐ木傀風の前に早足で歩み寄りその場で拱手して頭を下げた。
「うん。世話になる」
木傀風は短く答えて目を細めた。相変わらず首を縮めて寒そうにしている。
「さ、中にお入り下さい。陸総帥がお待ちでございます」
白千風はそう言って木傀風の脇に立ってその前に手を伸ばしたが、木傀風はじっと白千風の顔を見て動かなかった。
三十六
「陸……総帥が居るのか?」
「え……? はい。既に道長様がこの武慶にお越しと聞きましてすぐに総帥にお伝え致しましたところ、大層お喜びになられまして我が屋敷まで参られたのです」
「うーん」
木傀風は小さく唸って眉根を寄せたが、
「ま、仕方ないか」
そう呟いて歩き出した。白千風は怪訝な面持ちで郭斐林を見たが、郭斐林はただ頷き返しただけで木傀風の後に続いて行く。
「師妹、お連れの方々は……あの御婦人だけか?」
白千風が郭斐林の腕を引いて小声で囁いた。
「もう少ししたら来られるわ。と言ってもあと二、三人じゃないかしら」
前庭の奥、建物の入り口付近には白千風の弟子達や家人達が木傀風を迎えた。皆整列して頭を下げている。木傀風はその前まで来ると、
「すまんなぁ。寒かろう。さ、皆一緒に入ろう」
そう言って一番手前に居た弟子の肩に手を置いて皆に向かって屋敷に入るよう促した。弟子達は顔を見合わせて驚いて居たが、木傀風が皆を前へ押しやるように腕を伸ばし、
「さ、入ろう。寒いわい」
と言うので皆笑みを浮かべてぞろぞろと中へ向かった。
白千風と郭斐林に連れられた木傀風と常施慧は、弟子達が戻って行くのとは反対の方向にある一室に通された。そこにはただ一人、真武剣派総帥、陸皓の姿があった。
陸皓は木傀風を見るとゆっくりと立ち上がり、口尻を持ち上げてニヤリと笑った。対して木傀風の方は陸皓とは逆に口尻を下げて首を引っ込めるような仕草を見せる。二人の老人が言葉を使わずに奇妙な挨拶を交わした。少しの間を置いて陸皓が口を開いた。
「おぬし、あの宿に居ったそうじゃな。どうだったかな?」
陸皓の声はまるで笑いを堪える様に普段より高めだった。木傀風は自分の白い後頭部を撫でながら、
「別にどうもこうも無い」
木傀風の視線は陸皓から外れて彷徨っている。周りの白千風達には話の脈絡が見えない。
「あの宿はとうに無くなったのだぞ? 今あるのは到底まともな人間の近付く所ではない。いずれ一掃せねばならんが……」
木傀風は黙ったまま引き続き辺りを眺めながら聞いている。
「前の主は亡くなった」
陸皓の顔から笑みが消えてそう言った時、木傀風の視線が一気に陸皓へ戻された。
「別に病でも何でも無かった。老衰じゃな。それにしては早すぎたが……。しかしもう満足だと儂に言ったのじゃ」
白千風と郭斐林の二人は、今陸皓が話しているのが今の環龍客桟の場所に昔あった宿の女主人の事だと悟った。喬儀という女性で陸皓と同世代で旧知であるという事は知っていた。宿を営んでいたのはもうかなり前で、郭斐林が陸皓の弟子となった十代の頃、つまりもう三十年近く前に店を人に譲っている。ずっと独身を通し、堅実な商売で財を成して比較的若くして隠居生活を送っていた。婦人の一人暮らしでしかもそれなりに金を蓄えているとなればおかしな輩がすぐに群がりそうなものだが、その時すでに真武剣派を興してまさに向かう処敵無しと言われていた陸皓と親しくしていた事はよく知られており、それによって守られていたと言っても過言では無かった。その喬儀が無くなったのは五年程前の事である。どうやら木傀風もその女性を知っていたのだろう。偶然に環龍客桟に入った訳では無い様である。
「おぬし前に来たのはいつだったかな?」
「さて、覚えておらんなぁ」
「もう十年前でございます。前回の真武剣派三十周年のお祝いにお越し下さいました」
郭斐林がそっと進み出て二人に告げた。
三十七
「儂等はもう年寄りだ。儂とおぬしとて次があるか分からんのだ……」
陸皓がいつに無く力なく言葉を発する。普段、矍鑠とした師を見ている白千風と郭斐林はハッとして陸皓の顔を見た。陸皓は顔を上げて笑顔を再び見せる。見慣れた血色の良い顔つきで二人の弟子はホッと胸を撫で下ろす。
「よく来てくれた」
よく通る声を発して木傀風に歩み寄った陸皓はゆっくりとした動作で木傀風を包み込むように両腕を回し、木傀風も同様にして応じる。しかしすぐに、
「昔ならこんな事をすればお互い無事では居られなんだろう」
木傀風はそう言いながら腕を下ろした。
「ハハ、そうじゃな。お互いその両の手で急所をいつでも攻められる。しかし」
陸皓はじっと木傀風の目を見つめる。
「おぬしと知り合って数十年、互いの急所など興味も無かった。さぁ、座ってくれ」
木傀風は陸皓の前に卓を挟んで腰を下ろした。
陸皓と木傀風だけを残して他の者は部屋を出ると、郭斐林が常施慧達に用意した部屋へと案内する。廊下を二人が歩いていると前方の明かりの漏れていた部屋から孔秦が家人の男に脇を抱えられながら出て来た処だった。
「もう大丈夫な様ね」
「アッ、師娘……申し訳ありません」
孔秦は慌てて郭斐林の方に体を向けようとしたが思うように動かず体勢を崩す。支えていた男が必死で孔秦が倒れるのを防いだ。
「話は後で――」
「あの……」
郭斐林と常施慧の言葉が重なった。
「あ、あなたは……」
孔秦は目を見開いて常施慧の顔を見たがすぐに頭を下げる。
「ハハ……あの……すみません」
「秦、何を言ってるの? まだ混乱でもしてるのかしら?」
「いえ、そんな事はありません!」
「あの、本当に……道長様が?」
常施慧が訊ねた。
「いや、私が勝手に転びまして……それでどこかに腰をぶつけたのでしょう。何ともみっともない処をお見せ致しまして……」
「そうね。後で話は聞くから休みなさい」
郭斐林が少し強い口調で言うと、孔秦は頭を垂れて再び男に支えられながら脇に避けた。
「常さん、参りましょう。この先に部屋を用意しましたから」
「はい」
常施慧は孔秦に軽く会釈をして郭斐林に従い、孔秦は黙って常施慧の後姿を見つめていた。
木傀風が屋敷に着いてからかなり後になって武大は二人の弟を連れて現れた。武大は孔秦を見つけて言った。
「木の爺さんが本気なら瞬殺だ。今お前さんが生きていると言う事は体は全く問題ない筈だ。爺さんはそういうのがうまい。やたらとうまい」
「全く、木道長には敬服致します。あんなみっともない処を道長にお見せしてしまってお恥ずかしい限りです」
「なぁに、恥ずかしい事などあるものか。爺さんから見ればおぬしが少々武芸が出来たところで素人も同然。この屋敷の人間も皆同じだ。ハハ」
確かに木傀風と比べればそうかもしれないが、この言葉を郭斐林が聞いたら何と言うだろうか。孔秦は周りで誰か聞いてないか気配を確かめた。
「で? 爺さんはどうやった?」
「私はあの時、環龍に居た連中に絡まれて……あの連中が木道長に無礼を働いたりしてないか様子を窺いに行ったのですが……」
三十八
「爺さんはそんな事気にしたりせんわ。此処に来てから退屈な毎日だ。あいつらが絡んでくればそれはそれで面白いではないか。まぁ、あんな奴らでは爺さんも物足りんだろうがな」
「ハハ……それで、私が隠れて中の様子を窺って居た処を見つかってしまいまして、あの者達は何かあればすぐに暴れたがる様な連中ですから、まぁちょっと遣り合う羽目になってしまいまして」
「ほーう。おぬしが真武剣派の門人である事はあっちは知らんのか? そんな訳あるまい。余程腕に自信があるか、それともおぬしを弱いと思っているのか――」
武大の物言いには全く遠慮のかけらも無い。思いつけば口に出す性分の様だ。孔秦は苦笑いしながら話を続ける。
「我が派では、いや、どこも同じでしょう。あの手の輩と喧嘩する為に武芸を師から教わって居る訳ではありませんから出来るだけ関わらない様にしています。向こうに怪我でもさせては後々色々と難癖を付けられて面倒な事になってしまいます」
「そうなったら皆で押しかけて叩き潰せば良いではないか。あんな奴らは居っても碌な事無いだろうが」
「まぁ、場合によっては……」
「爺さんの話だ。何で爺さんが出てきた?」
「あそこにはいつも連中がたむろしてますから騒ぎになってしまって、それで木道長は気付かれたのでしょう。私は気が付かなかったんですけど突然私と相手の男は引き離されました。正直、道長がどの様な手を下されたのか全く解らないんです」
「で、すぐに気を失ったという訳か」
「はい」
「拳であったか掌であったか、それとも点穴によるものか、それも解らんか?」
「点穴の類では無いと思います」
「では掌だな」
「どうでしょう?」
「多分あれだな」
「どのような?」
「それは言えん」
武大はニヤニヤしながら孔秦を見た。
「ほれ、あそこの壁の穴――あれの話は聞いたか?」
「え?」
武大は殆ど見えなくなっている暗がりを指差している。昼間武大が壊した塀の場所である。
「壁に穴? 何も知りませんが」
「そうか。明るくなったら見てみろ。掌の技だが壁に穴が開いた」
武大は自分がやったにも拘らず他人事のように平然としている。
「木道長が……?」
「あの壁、爺さんの機嫌でも損ねたかな?ハハ、ハハ」
「まさか」
「爺さんの手ではないが、非常に近い系統の技で凄まじい衝撃を生み出す。おぬしにやったのとは違う。同じだったら木っ端微塵だ。しかし原理は似ているな。出所は一つだ。それ以上は秘密だがな」
孔秦は武大が一つの技について真面目に語っているのが少し意外に思えた。
「清稜派の技なのですか?」
「儂は清稜派の武芸など知らん。爺さんと一緒に居るが習った事も無い。だが、爺さんの持つ技の中で一つだけ儂にも使えるものがある。それがあの壁の穴を作ったという訳だ」
「あ、あなたが壁を壊したのですか?」
黙っておくつもりがつい口が滑ってしまい、武大は慌てた。
「あー……事情だ。事情があったのだ。おぬしの師匠か? 郭という女……あれが知ってる。もう聞くな。儂も言わん」
「武大殿……その方は私の師娘で我が派総帥の直弟子。その、あまり……」
「真武剣派のお偉いさんという訳だな?爺さんもよく知っているようだし、ま、儂も覚えておく事にしよう」
三十九
翌朝、孔秦は早くに目が覚めて体を確かめる。昨日あれほど痛んでいた腰も何とか一人で歩けるところまで回復していた。特に何をする事も無かったが陽が十分に昇るのを待ってから木傀風に挨拶をする為に、郭斐林が客室とした部屋を訪れた。
「本当に此処の者だったのか。何故喧嘩しておったのだ?」
孔秦は昨晩武大に話したのと同じ事を木傀風にも言った。木傀風を心配して見に行ったら連中に絡まれたなどとは到底言えなかった。
「もう具合はよろしいのですか?」
常施慧は心配そうに孔秦を見ている。
「はい。ご心配をお掛けしまして……」
「痛めつけた訳ではない。何か感じたか?」
「いえ、何も……」
「そうだろう。そうしたのだからな」
木傀風は淡々とそう言って孔秦を見つめた。孔秦は黙ったまま少し俯いたが他の誰も口を開かず妙な間が空いた。
「では……失礼致します」
「うん」
廊下へ出て部屋の扉を閉めた孔秦は少し大きく息を吐いた。緊張したという程でも無いのだが木傀風と言葉を交わしたのはこれが初めてで、何を言えば良いのか分からなかった。とりあえずの挨拶を済ませてこの場を離れた。
孔秦はふと足を止め、廊下から庭に下りて昨晩武大が指差した方へと歩き出した。角を曲がり塀の方へ目をやり思わず足を止める。壊れた塀の前に郭斐林と白千雲の二人が何やら話し込んでおり、何故か孔秦は咄嗟に建物の陰に身を隠した。
(白千雲師伯だ……何事だろう?)
孔秦はその場で耳を澄ました。
「大兄さん、師父にお見せしたら何と仰るかしら?」
「……それはならん。師父はあの時、これ以上何も言わぬし儂にも聞いてはならんと仰ったのだ。一切関わらぬという訳だ」
「じゃあ、何故師父はあの技を大兄さんに見せたの? 一度見せて「何も教えない、何も聞くな」なんておかしいじゃないの」
「それはおそらく」
白千雲は少し間を空けてから続ける。
「師父の編み出された我が真武剣の技では無いからだと思う。師父は少なからず掌法も修めておられるが、今までそれらを弟子に伝えられた事は無い。お前は見た事があるか?」
「いいえ、無いわ。大兄さんが師父の気まぐれで見せてもらったこの技だけでしょう。私は直接見てないけれど」
「まだ同じかどうかわからんぞ。先程お前が見せたその武大とやらの技の様子では近いものがあるとは思うが……」
「大兄さんはあの時からこれを修練しているの?」
「……フッ、それは秘密にしておこう」
「師父も知らない?」
「ああ。あれから一度もこれについては口に出されない」
「それにしても興味は尽きないわね。別物なら何ともないけど、もし同じなら……あの武さんと師父の共通点は何?技は誰が考え出したのかしら?」
「掌法の秘伝は古くから各地にあろう。その中の一つに過ぎんかも知れんぞ?」
「それなら何故師父はそんな思わせぶりな態度を? きっとこの技と師父には私達が思いも寄らない過去があるんじゃない? あの武大って人……あっ、もしかして木道長も御存知かも知れないわ!」
「師妹、そのくらいにしておけ。お前が色々探るのは勝手だがそれを師父に知られん様にな」
「分かってるわ」
四十
二人の会話は孔秦にもよく聞こえていたが内容はあまり理解出来ていなかった。
(あの塀は武大殿が壊したのに何故太師父様が関係してくるんだ? そもそも何故武大殿が塀を……? 何か揉め事があったのだろうか?)
そう考えていると白千雲の言葉が再び聞こえてくる。
「師妹、いよいよ英雄大会が迫ってきた。取り急ぎ此処は修復してそっちに専念するんだ。抜かりの無い様にな」
「ええ。あ、そうだわ、今回師父は千河幇の范幇主にも声を掛けられたそうね。来られるのかしら?」
「うむ。とりあえずは伝えてあるが、どうだろうな。向こうも協議している事だろう」
「もし真武観に范幇主が姿を現したらきっと誰もが驚くわね」
「ん? お前は会ってないのか? 先の鏢局の件で一度武慶に来て師父と会ったと聞いているが」
「私は会ってないわ。それと今回の英雄大会とでは全く別じゃないの。皆、范幇主を見たらどんな反応するかしら。見ものだわ」
「確かに我が方とは長く疎遠だったが、范幇主は優れた人物であると評判だ。私もそう思っている。鏢局の話も知れ渡っているから今回范幇主が来たとしてもあまり不思議には思うまい」
「そうね」
「さて、そろそろ私は戻るぞ。師父と打ち合わせねばならん事がまだ残っている。お前達も早めに真武観に参れ」
「ええ」
どうやらこの場での話は終わる様だ。孔秦は音を立てないように注意を払いながら離れる。
(范幇主? 緑恒の范凱幇主も来るのか。これは凄いぞ)
具体的に何が凄いのかその場では解っていなかったが長らく何も無かった真武剣派と北辰の関係が再び動き出す様な気がして孔秦は胸が高鳴るのを感じていた。
郭斐林の声が響いている。
「秦と程青は私に付いて真武観へ来なさい。ちゃんと段取りを把握して他の弟子達にも伝えるのよ。志均は二人選んで豊撰堂の岳さんの所へ行って。調度品の用意が出来ているから真武観に運ぶのよ。それから王さん、申し訳ないけどあの塀の修繕をしてくれる所を探してくれないかしら? 一番早く取り掛かってくれるところを」
「分かりました」
皆それぞれが郭斐林の指示に従ってこの場を離れて行く。何も言われなかった弟子達も部屋を出て行くが、李小絹だけが残っていた。
「あの……私は、何かありませんか?」
「無いわ」
郭斐林は目もくれずに即答する。
「……そうですか」
「大会が終わるまでは忙しくなるから、あなたには色々雑用を頼むからそのつもりで」
「……はい」
李小絹はまだ郭斐林の正式な弟子ではなく殆どの時間を以前と同じ小間使いとして働いていた。大会が終わるまで当分変わりは無いだろう。仕方の無い事だとは思うが面白くない。肩を落として部屋を出ると、丁度そこへ孔秦が戻ってきた。
「小絹、どうしたんだ? 元気無いな」
「あ、こ、孔師兄」
「ハハ、孔師兄か。何だかそう呼ばれると変な感じだなぁ。じゃあこれからは君を師妹と呼ぶべきかな?」
李小絹は気恥ずかしくなって俯いてしまう。
「君が早く剣を習いたがっていると程青から聞いてるよ。弟子入りを頼むのも随分熱心だったって? 今回の大会は我が派にとって重要なものだから皆そっちに忙しくなるが、終わったら一緒に稽古しよう。楽しみだよ」
孔秦の笑顔がとても柔らかい。李小絹はチラと視線を上げたがまた俯いて頬を染めた。もうすぐ弟子になれる。真武剣派四十周年の英雄大会はまもなくであった。