第八章 二十八
「夏さん。どうだ? 笑っちまうだろ? どうするかねぇ。これ」
洪破人は馬を指差して苦笑いしている。
「これに乗らせて戴くのは気が引けるな。分をわきまえんとな」
夏天佑は馬に近付くと黒光りしているその逞しい首を撫でる。洪破人が借りてきたこの二頭は、どちらも赤の煌びやかな戦袍を纏った将さながら、武者震いをするかの様に体を揺すり地面を力強く踏みつける。実際は戦袍などではなく大きな一枚の錦繍が背に掛けられているのだがその端で首を包み、遠目にはそれらしいが、近付いて良く見れば子供が悪戯で括り付けた様にも見える。
「沙の爺さんの趣味は益々我らの常識では測れない方向へ向かっている様だな」
夏天佑は馬の周りを一周してから洪破人を見た。
「でも物は相当上等な織物みたいだぜ? ああ、そうか。こんな立派な錦繍、盗られたら大事だから残して行ったって事にしておこう。とりあえず旦那に預かって貰う事にするよ」
「洪さんが戻りましたよ」
表に顔を出して洪破人を見つけた周維が、劉建和と求持星に声を掛けた。すでに陽は高く、遠出するわりには皆ゆっくりしている。
「なんなら車を付けても良いですねぇ。野宿も楽ですよ。皆さんの腕があればおかしな輩も手出しは出来ませんし」
「手ぇ出して来る様なモン持ってねえよ」
洪破人はそう言って笑った。
その洪破人らから少し離れて周漣が立っていた。その傍に李施が歩み寄る。
「寂しなるねぇえ?」
「……そうですね」
「王さんが『あー困った、あー困った』ゆうてそればっかり言うとんなるわな」
周漣は王老人の口真似をする李施に目を遣り微笑む。
「はよ帰って来て貰わなあ」
「……」
洪破人と求持星が馬に乗るのを見て李施は歩き出す。周漣も少し遅れて出立する四人の許に向かった。
周維は洪破人の傍に行き、馬上を見上げる。
「洪さん。全支店に話は行ってますから、宜しくお願いしますね」
「ああ。旦那、樊の奴には何か指示してあるのか? 今何処だろう?」
「あーそっちは分かりませんねぇ。多分、孫さんの所に向かったでしょうから、一旦都に行くでしょうね。西の可能性も無い訳ではありませんが、徐が砂漠を突き進むというのも想像し難いですし、恐らくあちらも東に向かうでしょう。都周辺はもうとっくに真武剣が捜索済みですからね」
「そうだ、旦那。あの、此処に戻る途中のあの三人組なんだが」
周維は眉を上げて首を傾げる。
「求さんと一緒に居た――」
「ああ、あれですか。ハハ、忘れてましたねぇ」
「本当に来るかどうか知らないが、もし来たら……王さんとこにでも遣って仕事をやってくれないかな」
正直なところ洪破人もついさっき思い出したのだが、求持星を連れて現れた『顔馴染みの盗賊まがい』という奇妙な縁の三人の顔を思い浮かべると、ほんの少し心配になる。求持星に金を貰ってあれからどうしたのか分からないが、もしこの城南を目指しているのなら無事に辿り着いて欲しいと思う。腐れ縁などとはよく言うが、過去何度もしつこい程出会っている事を考えると、腐ってはいてもどうやら切れてしまうところまではいかないらしい。
「そういえば……ひと月と言いましたが、もうあまり日が無いですねぇ。まあ遅れたとしても、この街なら仕事もありますからね。安県の方のあんな辺鄙な処に居るよりは遥かにマシです。無事に来れたらね」
「そうだな」
「ま、来たらちゃんと面倒見ますから安心して下さい」
「ああ、頼む」
周維と洪破人は頷き合って離れた。
「足手纏いにならなければ良いが……」
劉建和も馬に乗り、そう言って後頭部を撫でている。
「劉さん、あんたが探すんだぞ?」
声のした方を振り返ると、夏天佑が馬を牽いてすぐ隣に来ていた。
「徐を追うのはあんただ。そうだろう?」
劉建和は夏天佑の射すくめる様な厳しい眼差しから思わず顔を背けた。確かに何処まで続くか分からない旅に手を貸して貰いながらいつまで経っても煮え切らない態度の自分は情けなく、皆に申し訳無く思う。
「……そうですね」
「ハハ、そうですねって何だ? 『お前ら付いて来い!』くらい言っても良いんだぞ? なぁ?」
夏天佑は一転して笑顔を見せ、周維の方を向いた。
「フフ、劉さん。きっとうまくいきますよ。息子さんの事だけを考えて居て下さい。いつもあなたの後ろに我々が居ます。安心して。洪さん、あなたは夏さんがはぐれない様に見張る役です。良いですね?」
「それはまた面倒なお役目だな」
洪破人は肩を竦めて夏天佑を見る。
「俺はそこまで餓鬼じゃないつもりなんだがな」
馬に上った夏天佑は腰を動かして座り心地を確かめていた。
四人とも背に包みを背負うだけで他には何も無い。特にこれといった準備をするまでもなく出立の支度は整った。
「何か必要になれば洪さんに言って下さい。うちが用意しますからね」
「じゃあ、旦那。そろそろ」
「ええ」
洪破人が同じく馬上の三人を見遣ると皆頷き返す。
「土産頼むで」
不意に葛林が大声を出し、子供の様に腕を振り上げている。
「だから遊びに行くんじゃねぇよ」
「そんなん当たり前だあな。仕事はきっちりやって、ほんで土産もきっちり買って、帰ってくるだぁな。頼むで?」
「分かったよ。じゃ、行こう」
洪破人が手綱を廻し、続いて三頭の馬もゆっくりと歩み始める。
求持星がちらっと後ろを振り返り周漣を見るが、やはり俯いておりその表情を確認する事は出来なかった。求持星の後ろには夏天佑が居たが、振り返る様子は無い。すぐに求持星の視線に気付いた夏天佑は、
「少しは気が楽になったろう?」
と、にやりと笑う。
「まぁ、少しは」
求持星はそう言って顔を前に戻す。本当のところは周漣の事は既に気にしていなかった。
(俺如きをあの周婉漣が気に掛ける筈も無いさ。殷総監と何かあるだけだろう。やはり戻るのだろうか? 北辰に?)
「とは言え、また北辰に近付く事になりそうだ。そっちの方が厄介かも知れんな」
背後から聞こえる夏天佑の言葉に思いを巡らす。
(俺にとっては本当に厄介なのは『北辰』じゃないんだがな……)