第八章 二十七
「周維は何か言っていたか?」
夏天佑の問いに周漣は何も言わずただ下を向くばかりである。この日の朝になって周維は周漣に夏天佑らが此処を出る事を伝えたが、昨夜洪破人が告げた事と殆ど変わらないものであった。
周維は『今後どうするか』と周漣に訊ねる事は無かった。表向きは夏天佑が何処かへ行く事と周漣とは何の関係も無いのだから今それを訊くのはおかしいという事になるのだが、周漣の此処に居る目的を全く知らないのであれば当然であろう。本当に、知らないのであれば。
夏天佑は石段から立ち上がり、周漣を振り返る。
「お前は奴をどう思う?」
「……奴、とは?」
依然、顔を上げようとはしない周漣を顔を顰めて眺めた後、夏天佑はまた周漣に背を向けて石段に腰掛けた。
「ハッ、お前まで偽物じゃあるまいな? 周婉漣?」
うなだれたままの見るからに弱々しいこの女は、夏天佑の知る周婉漣とは程遠かった。
(またか……)
夏天佑は賊がこの屋敷を襲ってきた時の事を思い出す。夏天佑に肩を押されて足をもつれさせよろめく周漣の姿。周漣を良く知らない者から見ればどうという事は無いのだろうが、そうでない者の目にはかなり下手な芝居に見える。足がもつれよろめくなど、周婉漣には有り得ないと思うだろう。その前に自分の肩に伸びる腕を即座に折ってしまったとて『周婉漣ならば』と、皆唸って首を縦に振りかねない。
「私が……偽物?」
「いや、何でもない」
夏天佑が脇に置いた笠に手を伸ばす。すると突然周漣は、
「失礼致します」
そう言って夏天佑の隣に進み出ると、そのまま石段に腰を下ろした。身を寄せて座る事をためらっていた周漣であるが、夏天佑が再び笠を頭に乗せればその隣に腰を下ろす事はもう出来なくなる。
並んで石段に腰掛ける二人の間に隙間は無い。夏天佑はすぐ近くにある周漣の白い横顔を見てから、手に取った笠をまた脇に戻した。
「漣」
「はい」
「まだ方崖に戻る事は出来るのか?」
夏天佑は周漣の方を向いてその顔をじっと見つめる。周漣はそれを見返す訳にはいかない。顔が近付き過ぎてしまうので少し先の地面をじっと見るしか無かった。
「戻れます」
「今まで此処に居た事を何と言う? 張新が黙ってはいまい?」
「特別……私達に注意を払う事はありません。あの者は教主様さえ意のままに出来れば良いと考えているのです」
「ほう? それはお前達にとっては問題では無いのか?」
「……」
北辰七星に限った事では無いが、前教主陶峯は自分亡き後は息子の陶光に変わらぬ忠誠を尽くす様、遺訓を残した。七星は教主陶光の直属となり、その手足とならねばならない。
夏天佑の問いは、張新は教主の味方か、それとも敵か、と問うに等しい。教主ではない人物が教主を操れば北辰教徒の忠誠は誰に向いているのか? 七星は誰の為に働く事になるのか?
周漣は、夏天佑が何故急にそんな事を話し始めたのか良く分からなかった。未だ北辰の事が気に掛かるのか?
(私はもう、そんな事はどうでも――)
「漣」
夏天佑は石段にもたれる様に体を伸ばし、また呼び掛ける。
「方崖に戻れ」
周漣は何度もこの言葉を聞いた。自分が傍に居る事をこの人は快く思っていないと、何度も何度も思い知らされていた。
「方崖に、戻るんだ」
「夏天佑様。私は――」
周漣は夏天佑を振り返り目が合った途端、ハッとなって言葉を失った。夏天佑の顔が僅か、ほんの僅かだが微笑んでいる様に見えたのである。いつもの、嫌悪をあらわにしたような厳しい視線ではない、穏やかな眼差しだった。
「長老衆も今頃真っ二つだろうな。いや、二つに割れるだけまだマシか。揃って張新の方に転ぶよりはな。お前達はどうだ? 教主ではなく張新に付く者が出るか?」
「ありえません」
「何がだ?」
「教主様か張新かという選択肢は、我々七星には存在しません」
「……そうか」
夏天佑は自分の手の爪を見遣りながら、今度ははっきりと分かる様に笑っている。
「そうだと良いがな」
「夏天佑様」
周漣は急に立ち上がり、夏天佑のすぐ前に立つとその場に片膝を付いた。真っ直ぐに夏天佑の視線を捉えている。
「何だ?」
「もしや、また方崖、北辰にお戻りになられるおつもりですか?」
「何故そう思う?」
夏天佑は体を起こし周漣の顔を覗き込む。
「それは……」
もう少し近付けば互いに息が掛かる程で、周漣は顔を背けるしか無い。流石に周漣の頬が微かに赤みがさしている。夏天佑はまた顔を離して後ろの石段に肘を付き、まじまじと周漣の顔を見つめた。
「方崖を離れてみて、どうだ? 何か変わったと思うか?」
「え?」
「お前自身、何か感じるか?」
「いえ……特には……」
「俺にはお前が別人になった様に見えるが?」
「私が――?」
「今のお前は周漣だ。周婉漣は何処へ行ったんだろうな?」
周漣には何の事なのかさっぱり分からない。自分は周婉漣であり、此処では北辰七星周婉漣の名を伏せているだけの事。この辺境では顔を知る者は居なかったのだ。あの求持星が来るまでは。
「今のお前の顔をこうやって眺めながら過ごすのも、まぁ、悪くは無い。だが、周婉漣が消えてしまうのは困る」
「……どういう、事でしょうか?」
夏天佑は再び体を起こすと今度は周漣の肩に手を置いて立ち上がった。脇に置いた笠を拾い上げ、埃を払う。
「また此処に戻ってくるのか、別な場所へ行くのか、自分でもさっぱり分からんな。全く……奴の企みは一体何なのやら、だ」
「夏天佑様?」
周漣もすぐに立ち上がり、夏天佑を見つめる。
「漣。周維の奴に何をさせられるか分からんからな。注意しておけよ」
夏天佑は正面の門に向かって真っ直ぐ歩き出す。すると丁度そこへ二頭の馬を牽いた洪破人が戻って来た。