第八章 二十六
「夏さん。まさかその格好で?」
「ん?」
夏天佑は数日前の二人組の賊がやって来た夜と同じ、前庭に面した屋敷の正面にある小さな石段に腰を下ろす。そこへ周維の声が掛かる。
「背中の剣が目立ちますよ?」
「ああ、そうか?」
背にある倚天剣を抜き取ろうとして後ろを振り返った夏天佑は、周維の後ろに立っている周漣に気付いて顔を更に捻り上げる。周漣の視線はその足元に落ちていた。
「……何処にあっても同じだろう」
夏天佑は顔を戻し、手に取った倚天剣の鞘を眺めた。
「こちらに持ってくる時は布を巻いて隠していました。盗られたら大変ですからねぇ」
周維は夏天佑の横を通って石段を降り、夏天佑の正面に廻る。周漣は動かず後ろに立ったままである。
「面倒だ。やはりこのままにしておこう」
夏天佑は手にした倚天剣を背中に廻してそのまま背負った包みの隙間に押し込み、再び元の位置に納めた。夏天佑はこの剣を初めて手にしてから一度も隠し持った事など無かった。
「それにしてもその格好は無いでしょう? その笠……壊れてますよ?」
「丐幇の奴らの格好よりはマシだろう?」
「まぁそうですが」
そこへ劉健和と求持星もやって来る。来た時と全く同じ出で立ちである。
「道中の諸事は洪さんに任せます。うちの支店を使って頂けばかなり楽な旅が出来ますよ。お二人とも、もう宜しいですか?」
周維が劉健和と求持星に訊くと、求持星は『ああ』と短く答え、劉健和は黙ったまま、しかしはっきりと判るように頷いた。
「洪さんはどうしました?」
「沙さんとこ行ったで。馬もらいい」
葛林が答える。此処には二頭の馬が繋がれており、もう二頭を稟施会の馬を世話している沙という老人に借り受けねばならない。すでに沙老人には話が行っている筈である。
「洪さんには言いましたが、皆さんには此処から北上、つまり武慶方面に向かうのではなく、東へ向かい、それから北へ向かって貰いたいのです」
周維が劉健和ら三人に説明する。おそらくそちらの方にも稟施会があり、何らかの手筈を整える事になっているのだろう。遠い場所である。こちらから四名が向かう事をすでに知っていてその準備を終えているとは考えられない。劉健和らが辿り着く少し前に周維の命令か何かが伝わる事になる。
「東涼か?」
劉健和が周維に訊ねた。
「そうですね。一先ず東涼を目指して下さい。道中、徐が見当たらなければね」
「北に行けば少しは涼しくなると思ったんだがな。このまま東か」
夏天佑がそう言いながら頭上の笠をいじって陽の光が当たる位置を調整していた。最南端であるこの城南はすでに初夏と言っても良い程、天気の良い日は暑くなる。この日は少しばかり雲が出ているが、時折強い日差しが照りつけていた。
「武慶に向かっても意味は無さそうですからねぇ。暫く辛抱して下さい」
「……俺はそっち方面は全く知らないな」
ぼそっと求持星が呟く。すると周維は笑みを浮かべ、
「全く心配は要りませんよ。洪さんが良く知ってます。劉さんは東南には行かれた事は?」
「あまり多くは無いな。詳しいとは言えない」
劉健和の言葉を聞いて、周維は夏天佑の方に首を廻す。
「俺も同じ様なものだ」
「ハハ、まぁ洪さんに付いて行って下さい」
「皆さん、中で洪さんを待ちましょう。うちの沙さんは話が長くてねぇ。少し掛かるかも知れません」
周維が屋敷の中に入るよう促し、劉健和と求持星は建物の中に戻っていく。しかし夏天佑は石段に座ったまま立ち上がろうとはしなかった。周維は夏天佑とその後ろに立っている周漣を見てにわかに微笑を浮かべ、黙って求持星の後に続き中に入って行った。
「あんた、行くでぇ?」
「分かっとるっちや」
「私らぁが邪魔になるわな。ほれ、はよ」
葛林と李施の二人も周維らの後を追ってそそくさと屋敷の中へ入って行く。
夏天佑と周漣だけになった前庭は何処かで鳴いている鳥の声と風で揺れる緑の音だけになり、そんな時が暫く続いた。
夏天佑は相変わらずぼんやりと辺りを眺め、後ろの周漣は微動だにしない。
「漣、座れ」
先に口を開いたのは夏天佑だった。しかし周漣はまだ動かない。少し俯いたいつもの姿勢だが、今の周漣は俯いているというよりもうなだれていると言った方が当たっているのかも知れない。
「聞こえないか……」
夏天佑は独り言の様に呟き、膝に肘を立てて頬杖を突いた。周りに椅子の様な物は無い。あるのは夏天佑の座っている石段だけである。
少し間が空いて、ようやく周漣が口を開いた。
「聞こえて、おります……」
か細く、弱々しい声。明らかに普段の周漣では無い。
「……漣。ここに座れ」
夏天佑は狭い石段の自分の隣を指差す。
周漣はこんな所に腰を下ろした事など無かった。今は晴れているがそれでも座れば衣服が汚れてしまう。しかし周漣が躊躇したのはそんな事ではない。石段の幅はそれほど広くは無く、夏天佑の指差した場所は人が一人通れるといった程の幅しか無かった。
夏天佑は笠を頭から外す。大きく広がっている鍔の部分が邪魔になるからである。それでも周漣は戸惑う。そこに座れば肩が触れ合う程、夏天佑の傍に寄る事になってしまうのだ。腕を伸ばせば触れる、くらいには近くに立つ事もあるが、腕以外の身体を触れさせる程、傍に近付いた事は今まで一度も無い。それをためらうのは恐れ多くも殷総監だからなのか、それとも――。
「戻るまでにかなり時間が掛かるかも知れんな。お前は、どうするつもりだ? ここに居るのか?」
傍に座るべきか悩んでいる内に、夏天佑は話し出してしまう。
「私は……」
周漣はほんの少しだけ夏天佑の背に近付く。しかしそれ以上は動けなかった。