第八章 二十五
「急も何も、あなたが少しずつこの部屋の前に立つ事の方が怖いわ。どうやるのかは知らないけれど」
周漣の表情は常に僅かしか動かない。しかし洪破人にはその声に楽しげに感じているという音が含まれている事が分かる。本当のところはともかくとして、そう思う。
「周漣さん」
周漣は僅かに小首をかしげたままじっとして洪破人の話を待っている。洪破人はその薄く赤い唇につい目が行ってしまい、一瞬、言葉を忘れていた。
「洪さん。何か?」
「ああ……えー、実は俺、と、夏さんもなんだが、暫く此処を離れるんだ」
すぐに周漣は顔を真っ直ぐ洪破人に向けた。周漣は今の様に誰かと二人だけで話していても真っ直ぐ相手の目を見る様な事は滅多に無い。洪破人がそんな周漣を見たことがあるのは夏天佑と話している時くらいしか記憶に無かった。周漣の瞳を見た事が無い訳ではないのだが、それでも胸が弾む。
「あなたは、戻ったばかりでしょう? どちらへ……行かれるのですか?」
洪破人にはその声が微かに震えている様に聞こえた。
「あー、うちの仕事を夏さんにも手伝って貰う事になったんだ。いつまで掛かるかまだ分からない。何処まで行くかも――」
「何処まで行くのかも分からない? どういう仕事なのですか?」
周漣の眼差しが鋭く変化する。自分にこんな視線が向けられるのは初めてで洪破人は焦りを覚えた。
「人探し……なんだ」
「人探し? 樊さん達が今追っていますね? ……蘇?」
「樊? ああ、蘇の奴も見つかればそれに越した事はないんだが、違うんだ。実は此処に一緒に来た劉さんの親父さんが殺されて、息子がさらわれた。そのさらった奴らを追う。まだ居場所は判ってない」
「何故? どうして夏天佑様もその者を探さねばならないのですか? 関係無いでしょう?」
周漣の口調が徐々にきつく、大きくなっていき、それが更に洪破人を焦らせる。
「いや、旦那が依頼したから……その……」
「夏天佑様は何と?」
「引き受けたよ」
「……」
周漣は完全に洪破人を睨みつけている。滅多に見ることの無い周漣の双眸――。それが自分を非難するかの様に見つめている。洪破人は思わず視線を逸らした。
突然、周漣が洪破人の横をすり抜けて歩き出す。周維に抗議しに行くつもりに違いない。まるで自分が周漣を怒らせてしまった気がして、洪破人はすぐに動けなかった。
「周漣さん――」
少し遅れて周漣の方を振り返った洪破人は、先に歩き始めた周漣の体が目の前で静止しているのに気付き、ぶつかりそうになって慌てて体を後方に仰け反らせた。
立ち止まった周漣が見ているその先には、夏天佑の姿があった。先程まで寝台で横になっていた夏天佑が部屋の外に出て来ており、前の廊下にある欄干にもたれながら中庭を挟んだ正面、周漣の部屋の前の二人を眺めている。
洪破人が目を遣ると夏天佑は欄干から離れて直立する。既に暗く、少し離れているのでその表情は良く判らなかったが、スッと横を向き、そのまま進んで姿を消した。
「周漣さん……」
洪破人は周漣の艶やかな黒髪を見つめながら声を掛ける。が、返事は無い。
「まぁ、運が良ければ早く帰って来れる――」
「あなたは、稟施会は何がしたいのですか? どうして私をこんな目に合わせるのです!」
周漣の声は泣いていた。震えている。周漣がこれほどまでに感情をあらわにするところを洪破人は見た事がない。ましてや悲憤の涙など――。周漣は背を向けたままであり、洪破人にその顔は見えない。だが、涙を流しているに違いないと思った。
洪破人はそっと腕を上げて周漣の肩に触れようとする。しかしその肩は洪破人の手のひらをするりと避けた。周漣は再び洪破人の横を通り抜けてそのまま部屋の中に消え、僅かに手を掛けた扉がゆっくりと閉じられていった。
(どうしてこんな目に会わせるのか――? 何の事だ?)
重い足取りで周漣の部屋の前から離れる。ほんの少しの間に急激に高まった周漣の感情とその少ない言葉に思いを寄せると、洪破人の心は千々(ちぢ)に乱れた。
(判りきった事じゃないか! 夏さんと居たい。だからこんな処まで来たんだろ! 夏さんは何だって周漣さんが気に入らないんだ? あんなに想っているのに!)
『お前、周婉漣を知っているか?』
不意に夏天佑の声が洪破人の頭の中で再び訊ねてくる。
(周婉漣は、周漣さんだろ! だから何なんだよ! あんたと居る時は、あんなに優しい顔を持った、あんたを慕う周漣さんじゃないか!)
胸の内で感情を迸らせながらも、安易にそんな青臭い台詞を口には出来ないと諦める自分が頭のどこかに居る事も判っている。
太乙北辰教総監殷汪と北辰七星周婉漣。辺境の用心棒風情には窺い知る事も出来ない北辰教の深奥、景北港方崖に居た二人。今までどの様な出来事があり、どの様な関係があったのか。その辺で楽しげに戯れる男女とは全く異なる領域にあった二人である。
(俺如きが口を挟む事じゃない……)
いつもの結論が熱くなった胸を制圧していく。洪破人は歩きながらじっと耐え、それが完了するのを待った。
「まんだ帰ってきたばっかりだにゃあか。体、大丈夫か?」
「ハハ。そんな軟そうに見えるか? 俺が?」
洪破人は一年中変わらない褐色の腕に力を込める。葛林はそれを見て笑っている。
「今度は夏さんが旦那様と交代かぁ。太史さんに怒られただってぇ」
葛林の横でその古女房、李施はそう言ってまさに会心の笑みを浮かべている。洪破人はそんな二人を見ていると自然とその笑顔に釣られた。
すでに陽が昇って眩しい日差しが降り注ぐ前庭で、洪破人は再びこの城南を離れる支度を整えていた。洪破人と同様に来たばかりである劉建和と求持星は大した支度も必要無く、すでに準備は出来ている。
「こんなばたばたして、何が何だ分からへんわや。結局何しに行くだあ?」
「うん。まぁちょいと悪者退治してくるだけだ」
「ほんまきゃあな? ほんなら周漣さん連れて行けえや。頼りになるでぇ」
葛林が言えば李施がすぐにその腕を引っ張る。
「あかへんちや。周漣さんおらんようなったら私らぁが大変だあな。あかんで、連れてったら」
「ハハ……」
そこへ、夏天佑がいつも通りの野良着にぼろの笠を頭に乗せてやって来た。鍬は担いでいないが背中には小振りの包みを負い、その隙間に剣が挿してある。銀の装飾が光る倚天剣だった。
「馬は沙の爺さんの処か?」
「俺が行くよ。夏さんはもう準備は良いのか?」
「ああ」
夏天佑はぼろの笠に手をやって頷いた。