第八章 二十四
洪破人が夏天佑に城南を発つ日取りについて話したのは二日後の夜だった。『明日でどうか?』という周維の言葉を伝えに夏天佑の部屋にやって来た洪破人はあまり元気がない様子で、そんな姿を見せるのは珍しい事だった。
「誰かに代わって貰えば良いだろう? どうしてもお前じゃなければ駄目なのか?」
夏天佑は寝台で右腕を枕に横たわっている。その顔の丁度正面に洪破人が部屋の壁にもたれて立っていた。
「行くのは劉さん、求さんに俺と夏さんの四人だけだ。徐を知ってるのは劉さんと俺だけだしな」
「石とか他にも居るだろう?」
「徐に会ったのは俺と旦那だけだ。人手はまぁ、必要なら行った先でうちの者を使えば良い」
「……そうか。もう少し多く居ても良さそうだがな。まあ気楽で良いか。で? 何をそんなに憂えているんだ? 洪破人どの?」
夏天佑は少しおどけた様に笑みを浮かべ、薄目を開けて洪破人を見る。
「求さんに訊かれたんだ」
「何をだ?」
「……周漣さんが此処に来てもう一年程になるって旦那が話したんだが、良く考えたらそれだと方崖を脱走した殷総監を追って来たんじゃないって事になる。一年前ならまだ殷総監は方崖に居た筈だ」
「……」
「周漣さんは、本当に北辰を離れたんじゃないのか、ってさ。殷総監の様に……」
洪破人が夏天佑の様子を窺うと、全く表情は変わっておらず薄い笑みがまだその顔に浮かんでいる。
「本人に訊いてみればいいのにな。お前はどうだ? 確かお前もあの周漣が周婉漣だとは知らなかったんだろう?」
「旦那が言わないんだから分かる訳が無いだろ?」
「残念か? あれが周婉漣であった事が?」
夏天佑は意地悪を言って楽しむ子供の様に洪破人の反応を窺う。
「俺は別に……あー、もう北辰と縁が切れたというなら求さんも少しは安心出来るんだろうけどさ。そうじゃなかったら――」
「求さんはあいつに捕まるか。ハハ」
夏天佑が珍しく笑い声を上げ、寝台の上で体を揺らしている。
「もう此処を離れるんだから問題無かろう? これからは求さんは大事な旅の連れだ。手を出させない様に俺も気をつけよう。……フッ、明日発つのなら危ないのは今夜か? ハハ」
「笑ってられるのは、周漣さんはそんなことしないって思ってるからだよな? 夏さん。周漣さん……もし、もう北辰に戻らないなら、どうするんだろうな? 俺達が出た後……」
洪破人は俯いた。『夏さんが此処を離れた後』と言うつもりだった。夏天佑が居るから周漣は此処へ来たのであり、それ以外にこの城南に用があった訳ではない。周漣の様子をずっと見ていた洪破人はそう確信している。
(周漣さんが見ているのは夏さんだけだ。俺は関係ない……)
洪破人は、横になった姿勢は同じままであったが先程よりも大きく目を見開いてこちらをじっと見ている夏天佑を黙って見返す。夏天佑の視線は鋭く、いつの間にか笑みは消えている。
「そんな心配はするだけ無駄だな。あれは七星の中でも唯一、陶峯子飼いの猛禽の類だ。人と思って油断すると喉許を食い千切られるぞ? 俺はあれが来てからというもの熟睡出来たためしが無い。離れられれば少しは快適に過ごせるというものだ」
夏天佑はそこまで言って目を閉じる。洪破人は顔が熱くなるのを感じた。
「夏さん、本気で言ってるのか?」
「ああ。北辰に戻ろうが一人で何処かに行こうが、自分で好きなだけ獲物を捕らえて生きるだろうよ。お前、周婉漣を知ってるか?」
不意に夏天佑はおかしな質問をした。
「それはどういう……?」
「北辰七星周婉漣を知っているのか? 周漣じゃない。周婉漣を」
眠っているようでいて口だけが動いている夏天佑を見つめ、洪破人は言葉に詰まる。
(俺が知っているのは周漣さんだ……周婉漣……あの時の、二人組をやったのが周婉漣という事か?)
「お前が『周漣』に惚れるのは分からんでもない。だが……『周婉漣』は切り離せない」
「……どういう意味なんだ?」
「あれは特殊な人間でな。……説明するのも億劫な程だ」
そう言って夏天佑は大きく息を吐き、本当に今から寝るという様に黙り込んでしまった。
「夏さん!」
「明日、出るんだったな。心配するな。周維が周漣に話す。ずっと此処にいるかも知れん。あいつが連れて来たんだ。任せておけば良いだろう」
「旦那が? ……旦那は何故此処に周漣さんを……」
夏天佑は答えない。こんなに速く寝てしまう訳が無いのだが、もう話す気は無いという事なのだろう。洪破人は夏天佑の顔をじっと見つめた後、静かに部屋を出て行った。
夏天佑は閉まる扉の音を聞くと目を開けてほんの暫く扉を見つめ、その後寝返りを打った。
夏天佑の部屋を出た洪破人は暫く暗くなった廊下で一人佇んでいたが、その後意を決した様に歩き出した。向かった先は中庭を挟んで丁度反対側に位置する、周漣の居る部屋だった。
部屋の扉から少し手前で立ち止まり、じっと扉の方を見つめる。部屋の正面に立てば声を掛けずとも周漣は気付いて出てくる。いつもそうだった。常に表の気配を窺っているのかと驚いてしまうほど、周漣はいつも自分の気配を察知した。
(気配を感じているのは、周婉漣か?)
洪破人はそんな事を心の中で呟いてみてから力無く首を振った。
(フッ、何馬鹿な事を……。意味が分からん)
再び扉を真っ直ぐ見据え、その前へと進む。
「洪さん?」
すぐに部屋の中からしっとりとした女の声が洩れ出てくる。
(周漣さんの声だな……)
この部屋には周漣一人しか居ない。だが洪破人はその声が自分の知る周漣の声である事を確認し、安堵した。
「ああ。急に来て申し訳ない」
洪破人は自分の声が思いがけず弱々しいものであった事に驚き、慌ててしまう。その時、ゆっくりと扉が開き、周漣が姿を現した。