第八章 二十二
「ハ……東淵だそうだ」
夏天佑は首を捻って求持星、それから洪破人を見遣る。東淵は太乙北辰教本拠、景北港の手前であり、『北辰に近い』どころではなく『北辰の中』と言っても良い。夏天佑も求持星も行きたくない場所なのである。洪破人もやはり東淵には何かあるらしく溜息をついていた。
「それともう一つ。徐との関連は今のところ薄いと思われますが、北辰の人間の小規模な集団が幾つか南下、各地に姿を現し始めている様です」
周維が横に立つ太史奉を見上げ、
「何をしているのです? まさか北辰まで探し始めたとか言うんじゃないでしょうね?」
「いえ、判っておりません。これも此処で知るには暫くかかりますな」
「夏さん。これは急いだ方が良いでしょうね?」
「……そうだな」
「前に少し話したと思うが」
不意に求持星が話し出した。
「洪淑華の武芸について調べている人が居ると――」
周維らと求持星が出会ったその日に雨を避けて入った、安県黄龍門の創始者、梅慈心が祀られていたという廟での求持星の話である。
「あれは、劉毅様なんだ」
「何故、劉毅がそれを調べる?」
即座に訊いたのは夏天佑であった。
「詳しくは知らない。洪淑華には今伝わっているものとは別に、もっと違う優れた武芸があったのではないかと劉毅様は考えていたんだろうと思う」
「だから何故『洪淑華』なんだ!?」
夏天佑は珍しく、むきになった様に語気を強めた。しかし求持星は熱の入った夏天佑とは対照的に、力なく首を振るだけである。
「北辰も秘伝書を追っているとしたら、劉毅とは別なんでしょうねぇ。劉毅は北辰に取られたく無い筈です。方崖に持っていかれたら、自分が見る事は出来ない。まだ北辰が秘伝書を追っているかどうかは分かりませんけどね。夏さん。どうです? お願い出来ますか?」
周維がもう一度訊ねると、膝を小刻みに揺らしていた夏天佑はサッと立ち上がり、
「ああ。お前の思惑通り、大人しく命令に従ってやろう。いつ出る?」
「もう少しやっておかねばならない事もありまして……でもそんなに先にはなりません」
夏天佑はそのまま踵を返してさっさと部屋を出て行こうとする。
「あ、夏さん。もう少し、お願いしますよ。今日のところはここまでにしましょうか。他の皆さんは戻って戴いて結構です。せっかくですからこの街も見ていって貰わねば。洪さん、宜しくお願いしますね」
周維が椅子から腰を上げると劉健和らも立ち上がり、部屋を出て行く。
夕刻に差し掛かっているが外はまだまだ明るい。この後洪破人が街のその辺を劉健和と求持星に見せて廻るのだろう。わざわざ遥かこの城南までやって来たが、ゆっくり出来る時間はあまり無さそうである。周維に呼び止められた夏天佑は部屋の入り口に立って三人の後姿をじっと眺めていた。
部屋には周維と太史奉、そして夏天佑の三人。
「夏さん」
周維が呼び掛けると夏天佑は再び椅子に戻り溜息をついた後、両手で顔を擦った。
「俺を使う為の、お前の仕掛けた罠じゃないだろうな?」
「ハハッ、違いますよ。私も武慶で聞いた時には驚きましたからねぇ」
「王さんにうまく言っといてくれよ」
「ええ」
「……今頃になって洪淑華とはな」
「ええ……」
暫く間が空いて、その後周維は言う。
「周漣さんですが、どうしますかねぇ?」
夏天佑はちらっと周維を見てから顔を天井に向け、
「知らん」
「夏さんが此処を離れればもう此処に居る理由は無くなりそうですが、景北港に戻るか、それとも夏さんを追うか――」
「勘弁してくれ。お前が連れてきたんだからな。お前が何とかしろ」
「夏さん。実は私は同行出来ないので、周漣さんが此処を出た後はどうする事も出来ません」
「旦那様にはいい加減に此処の仕事を片付けて貰います」
太史奉の言葉に周維は首を竦める仕草をしてみせる。都行きだけでも城南からではかなりの日数が掛かり、その間は稟施会当主としての働きは何もしていない。本来なら都まで行ったのも会の者に命じれば済む話だったのだが周維がどうにか太史奉を説得して城南を離れたのだ。次の旅は更にいつまで掛かるか判らない。どうやらもう太史奉は折れる気は無いらしかった。
「あいつがこのまま此処に居ても良いんだろ?」
「それは構いません。彼女は働き者ですしねぇ。助かりますよ」
事実、今の周漣は周維の屋敷に仕える下女の様なもので、その働きは申し分無い。本当にただの下女であったなら何の問題も無く、ずっと居て貰いたいと思うのも当然の事である。
「彼女も『ではついて行きます』とも言えないでしょう。言いたくてもね。暫くは此処に居続ける事になるのかも知れませんがその後は分かりませんので、その点、夏さんに理解しておいて戴きたい」
「……ああ」
暫く沈黙が続く。夏天佑は自分の膝の辺りを眺めて時折汚れを払う様な仕草をするが、ただ撫でているだけにも見え汚れが落ちてはいない。周維はその様子を暫く眺めてから口を開いた。
「夏さんは絶対引き受けてくれるとは考えていました。そんな私が言うのもなんですが、やはり今でも……失われつつある師の業を忘れる事は無いのですか?」
夏天佑は顔を上げる。斜めに差し込む日差しが夏天佑の顔の普段は目立たない細かな皺に影を作る。その双眸は周維を真っ直ぐに捉えているが鋭さは全く無かった。
「逆だ。今の俺にはそれ以外想う事は何も無くなった。此処へ来てようやく自分の好きに出来ると思っていたんだがな」
「でも、土を耕すくらいしか今のところ何も無いでしょう?」
「おかしいか? 鍬の持ち方を教えてくれたのは、その『師』だ。お前は土に鍬を入れた事があるか?」
「幼い頃遊びで持った事はあったと思います」
「剣の相手は大抵、生きている。鍬の相手も、生きている。それなりの業を修めねばならん」