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流浪一天  作者: Lotus
第五章
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第五章 一

 

 一

 

 秋が過ぎ、さすがに武慶ぶけいの街にも時折肌寒い空気が流れているが、街の様子は殆ど変わらない。真冬でも雪が降ることは殆ど無く、北の街ではもう冬支度にかかっている筈であるが此処武慶には必要が無い。

 年の暮れが近付いて新年を迎える準備に加え、今年の武慶は例年とは違っていた。

 

「総帥の古希の祝いは去年だったか? いや、一昨年か……?」

「そうだ。一昨年だな」

「今回は前よりも多くの人が来るんだろうなぁ」

「そりゃそうだ。なんてったって総帥が真武剣派しんぶけんはを興して四十年という節目の祝いだ。正月過ぎてすぐだが、来ぬわけにはいくまい?」

 街の茶館で数人の客が話している。中で一番年長らしい老人が口を開いた。

「もう四十年か……。りく総帥の直弟子はそう多くは無いが、筆頭の千雲せんうん殿にはもう孫弟子が出来たらしいではないか? 正式な内弟子だけでも相当な数だ。まさかここまでなるとはな」

「また爺さんの昔話か。若い頃総帥とやりあったってんだろ? よく生きてられたもんだ」

 一人が言うと周りに笑いが起こる。

「儂が何故総帥と命のやりとりをする? 儂と総帥は親しい間柄。昔からよく知っておるわ」

「じゃあ爺さん、もっと身形を気にした方が良くないか? 総帥のご友人がそんなみすぼらしい格好じゃ総帥もお嫌だろうて。ハハ」

 別の男が老人に話しかける。

「しかし陸総帥が真武剣派総帥を名乗ったのが三十と……二つか。普通考えられないよな。そんな若……若いうちに」

 男は思わず若造と言ってしまいそうなところをぐっと堪えた。

「フン、お前達は総帥の武芸を直に見たこと無かろう? 儂はある。相当な……いや、そんな程度ではないな。まぁそれは当然として、総帥は類稀な処世術も身につけておられる。そして人を統率する才能だ。全てが見事に揃っていたからこそ今の真武剣派がある。今では都にまで進出して朝廷からの信頼も厚い。弟子入りしたいという都の若者も多いそうだ」

「ふーん。俺らみたいなモンは直接総帥に会った事はねぇけど、よく知っているというあんたはなんで総帥に弟子入りしなかったんだ? 今とは違う人生になったろうに」

 男は老人を見ながらニヤついている。

「儂は……事情があったんだ!」

「ま、同世代の者からは妬まれたりもしたんだろうなぁ」

「わ、儂は総帥より年下だからな!」

「おいおい爺さん。俺達は分かってるよ。爺さんみたいに総帥の凄さを良く知ってる人間も居ただろうし、そうでない奴も居た筈だって話さ」

 そう言いながら周りの男達の嘲笑ともとれる表情は変わらなかった。

「新年早々、この武慶まで来るのは難儀だろうなぁ。各派のお偉方も気が重いんじゃないか?」

「そんな訳あるか? 真武剣派とは懇ろにしておくに越したことはないだろうが。いや、そうじゃないな。陸総帥の御威光は今やこの国中に満ちていると言っても良い。きっと大勢この武慶に押しかけるぞ」

「なるほど。じゃあきっとここの主人も少しは恩恵に与れるって訳か」

「そうだ。盛大な祝いになるだろう」

 

 総帥陸皓が真武剣派総帥となってから丁度四十年を迎えようとしており、この武慶では街を挙げて盛大な祝いが催される事になっている。この街の住人達はその殆どが何らかの形で真武剣派の隆盛の恩恵を受けて生活していた。四十年の歳月が経ち、真武剣派の興りを知る者はかなり少なくなっており、真武剣派という名称は総帥陸皓が用いる以前から存在していた事を知っている人間ももう数える程しか居ない。

 

 

 二

 

 街の中心部には古めかしくそれほど大きくは無い屋敷が建っていて、表に掲げられた扁額には「真武観しんぶかん」と書かれている。建物が完成してすぐの頃はきっと色鮮やかな扁額であったろうが、今は色も殆ど落ちて文字の部分に少し残っている程度であった。修復することも十分可能な筈だがそうしないのは陸皓の意向だろうか。古来、観と呼ばれるのは古代から存在する民間信仰の宗教的な建造物であるが、何故この真武剣派の中心となっている建物をそう呼ぶのかはあまり知られていない。総帥陸皓の住まう屋敷だが、陸皓とその信仰を結びつけるものは何も無いと思われる。

 そこから真西に行ってすぐの所にある、高弟、白千風はくせんふうの屋敷から一人の女弟子が表に出ようと門までやって来た時、背後から声を掛けられた。

程青ていせいさん、程青さん!」

 程青と呼ばれた娘は少しうんざりした面持ちでゆっくりと振り返る。

小絹しょうけん、何かしら?」

 娘は後ろから小走りで追いかけて来た少女をじっと見据える。呉程青ごていせい、白千風の弟子の中で唯一の女弟子である。真武剣派に女性の門弟は少なくは無いが、白千風の許に居る女弟子はこの娘一人である。追いかけて来た少女は李小絹りしょうけん。こちらは弟子ではなく、白千風の屋敷で給仕見習いとして来て間もない。

「あの、奥様に――」

「小絹、ちゃんとあなたの事は言っているから、待ってなさいな。あまりうるさく言うと逆効果よ? 今は年明けにある祝賀の事で師父も師娘も頭が一杯よ。師娘の方はわりと好感触だったから、忘れてしまわれない程度に言っておくから。あなたも今は色々と仕事があるでしょう?そっちを放り出して師娘の心証を悪くすれば、弟子入りなんて不可能よ」

「……はい。すみません」

 李小絹が俯いたのを見て呉程青はにっこりと微笑んだ。

「小絹。一緒に剣の修行が出来るのを楽しみにしてるわ。師娘もいつももっと女弟子をとるべきだって仰ってる。年明けの祝賀が一段落するまでの辛抱だから」

「はい」

 李小絹は再び顔を上げて少しはにかみながら笑みを浮かべる。小さなえくぼが愛らしいこの少女は料理などの家事を学ぶよりも真武剣を身に付けたいと思っていた。

 

「お前達、如何した?」

 二人が居るところへ門を入ってきたのは屋敷の主、白千風だった。

「あっ、師父。先程、師娘しじょうが探しておられました」

 呉程青は急いで振り返り、早口で師父に告げる。

「そうか」

 白千風は短く答えてから李小絹に目を向けたが、すぐに視線を前に戻して屋敷に入って行った。

「やはり、旦那様は怒っておられるのでしょうか……?」

 李小絹は小さい声で呉程青に尋ねる。

「何を怒るというの? 弟子入りの話は多分師娘から伝わってると思うけど、怒る理由なんて何も無いじゃない」

 呉程青は続ける。

「師娘さえ味方につければ、師父も従うわ。大丈夫よ」

 そう言ってニヤリと笑うと李程青も小さく頷いた。

 呉程青は師父である白千風を呼びに行くつもりだったがその師父は自ら帰ってきたので再び屋敷に戻り、李小絹も後について戻って行った。

 

「師妹、何かあったか?」

 白千風は妻の郭斐林かくひりんを見つけ、声を掛ける。白千風と同様、陸皓の弟子であったが兄弟子である白千風の嫁となった。呉程青が師娘と呼ぶこの郭斐林も陸皓の直弟子の中では紅一点の末弟子である。少し皺が増えてきた事をいつも嘆いているが、凛々しい顔立ちに気性もさっぱりとして郭女侠かくじょきょうと呼ばれる事を好んでいた。

 

 

 三

 

「兄さん、千雲師兄が都から戻られたそうね。もう会った?」

「……師妹、大師兄と呼べといつも言ってるだろう? お前がそうでは弟子達も混乱する」

「ごめんなさい。だって長年そう呼んできたんだからもう癖みたいなものよ。でね、大師兄はすぐに師父の所へ来られたんだけど……」

「それが何かおかしいか? 戻ってすぐに師父にお目通りするのは当然だろう」

 郭斐林が千雲師兄と呼んだのは白千雲はくせんうんで今は陸皓りくこうの直弟子の筆頭であり、都である金陽きんようにおいた真武剣派の道場を二番目の弟子である丁常源ていじょうげんと共に任されている。二人の高弟を同じ所に置いている事から外部の人間はいよいよ真武剣派は都進出を本格化させてきたと見ていた。

「ねぇ、やはり師父の跡を継ぐのは千雲大師兄よねぇ?」

「何だ? 何が言いたい?」

 白千風は怪訝な眼差しで妻の顔を見返した。直弟子の筆頭である白千雲が陸皓の跡を継ぐのは道理であり、他の者が口を挟む余地は無い。もし反対したならば総帥の座を欲しがっていると思われて当然、まさか妻は白千雲が後継である事に今更不服だとでも言うのかと疑いの眼差しを向けた。郭斐林は夫の考えを察して慌てて声が少し大きくなった。

「勿論それは当然なんだけど。その事じゃなくて、よ。ねぇ、我が派で総帥のみに伝えられる絶技ぜつぎって聞いた事あるかしら?」

「何?」

「ちょっと聞いてしまったのよ。師父と大師兄が話してたのを」

 郭斐林は白千風の表情を窺いながら言った。

「何だ? 盗み聞きか?」

 白千風は眉を顰めた。

「お前、師父達の話が聞こえる所に居たのならすでに師父も大師兄もお前に気付いている筈だぞ。何を聞いた?」

「はっきりとは聞こえなかったけど、何か新しい我が派の絶技を大師兄に授けるとかなんとか……大師兄によ? もう孫弟子がいるくらいなのに」

「ふむ……聞いた事は無いな。しかし師父の武芸、つまり我が派の武芸の出自は誰も知らん。弟子の分際でその事に言い及ぶのは許されない事だからな。知る必要も無い」

「まぁ、師父が創始されたと聞いてるし私達はそれ以上何も知る必要は無いけど、久しぶりにちょっとびっくりした話だったから」

 白千風はずっと立ったままだったがようやく腰を下ろしたところに丁度、李小絹が茶を淹れて運んできた。まだ慣れずに挙動の一つ一つがぎこちない。白千風と郭斐林は話を中断して暫く黙って李小絹に注目している。

「小絹、あなた、程青から幾らか我が派の剣について聞いた?」

 郭斐林が急に声を掛けたので李小絹はびっくりして体を強張らせた。

「いっ、いえ、何も」

「そう?」

 郭斐林はそれ以上何も言わない。実は李小絹は呉程青からいくつかの我が派の剣技の初歩について聞いていたが、これは絶対に秘密であり白千風と郭斐林に知れれば弟子入りなど到底許してもらえぬだけでなく、呉程青も初歩の数手とはいえ同門の弟子にもなっていない者に教えたとなれば破門になりかねない。李小絹は努めて平静を装い、意外な質問だとでもいうような表情を作った。

「失礼致します」

 李小絹は二人に向かって腰を折り、郭斐林は黙って頷いた。白千風は運ばれてきた茶を手にとって目を向けなかった。

「ねえ兄さん、陸大師……陸さんはご存知なんでしょうね?」

 李小絹が退室するとすぐに郭斐林が再び口を開いた。

「師妹、その名はもう口にするな。弟子達にも聞かせてはならんぞ。陸……あれは我が派を裏切って破門となった身。もう何の縁も無い」

「分かってるわ。分かってるけど……師父が大師兄に授けるっていう技、あの人も知っているのかもね」

 

 

 四

 

「……かもしれん」

 ほんの少し考え込む様子を見せた白千風だったがすぐに顔を顰めながら手を振った。

「どうでもよい。千雲大師兄が師父の跡を継ぐとなれば、師父は全てをお授けになるだろう。その技というのも最上の物とは限らんぞ。変な色気を見せてはならん」

「分かってるわよ。ちょっとどんなものかと思っただけ。兄さんは気にならないの?」

「ならん」

「あら、そう」

 郭斐林が白千風の表情を窺う。白千風の方は真っ直ぐ見返して全く表情を変えなかった。

「それよりも」

 白千風はずっと手に持っていた茶を置いて言う。

「お前が自分で言っていた祝賀の手配は済んでいるのか? あと一月程だが、すぐだぞ」

「勿論分かってます。実家の父上と叔父様にもちゃんと言ってあるから、抜かりないわ」

 郭斐林の実家は北方の地方の有力者で様々な方面に顔が利く。郭斐林の手配というのは今までよりも盛大な祝いとする為により多くの各界の大物を呼ぶ事である。今までも二十年、三十年という節目に人を集めていたが、当然いつも正月明けてすぐの為に招待しても来られない者が多かった。今回の四十年というのは特別な数字ではないが、巷では今度の英雄好漢を集めての大会で陸皓が総帥の座を弟子白千雲に譲るのではないかと噂されていた。陸皓は高弟達にはその様な事を一言も漏らしてはいないが、とにかく今回の準備は念を入れるようにと命じていた。

「別に師兄達と争う気など更々無いが、我等は幸いにも常に師父のお傍に居る。我等が取り仕切るつもりで事に当たらねばな」

 白千風は自分にも言い聞かせながら言い、郭斐林もしっかりと頷いた。

 

 その夜遅くに、白千風の屋敷に白千雲が訪れ、陸皓に会った帰りだと告げた。

「大師兄、都はもう寒さが厳しかろう?」

 白千風は家人に命じて酒を用意させる。

「ああそうだな。流石にまだ慣れん。郭師妹はどうした?」

「今ちょっと出ておってな。遅いしもう戻るだろう」

「そうか」

 白千雲、白千風は実の兄弟である。共に陸皓の弟子となってからは弟は兄を師兄としか呼ばなくなったがそれ以外はとても親しく言葉を交わす。白千風は細身で長身、兄の白千雲の方は同じく長身ではあったががっしりとした体格で髭も常に綺麗に剃り、いつも厳しい顔つきで鋭い眼差しがどこか他人には近寄り難い。

 白千風が注いだ酒杯を持ち、お互いに杯を顔まで挙げて視線を交わしてから口を付ける。白千雲はあっというまに飲み干してしまい、白千風は驚いた。

「大師兄がそんな勢いで酒を呷るなんて何とも珍しい。酒は都の方が断然旨いんだろうな?」

「別にやけ酒でも何でも無いぞ。実は武慶を出て都へ行ってからは酒は全く飲んではおらんのだ。だから都の酒が旨いか不味いかも知らぬ」

 白千雲は僅かに口尻を持ち上げただけで笑った様なそうでない様な表情を見せた。

「それは勿体無いな。何故だ?」

「……何故だろうな。最近はようやく落ち着いたが、都と我が真武剣派は元々縁は無かったからな。色々と気を回すことも少なくなかった」

「丁師兄も居られる事だし、少しは休むくらい出来よう?」

「まぁ、いろいろある」

 白千雲は短くそう言ってまた注ぎ足された酒を口に運んだ。

 暫く世間話等を続ける中で、都の田家に話が及び、白千風が尋ねた。

「陸蓉お嬢様は何か言ってきたか? 田庭閑の事を……」

「頻繁に来るぞ。何か分かったかとな。まあ当然だが、未だ皆目見当もついていない。田庭甫殿は我等に全てお任せすると言っておられるが」

「全く、朱不尽しゅふじんとその一党は一体何をしておったんだ」

 

 

 五

 

 白千風は語気を強めたが、白千雲は淡々と答える。

「鏢局は荷を見ておったのだろう? あれの事など二の次だ。状況を知らぬ者には何とも言えん。しかし大体、何故あれを鏢局について行かせた?」

「あれは師父が急に……何故だろうな?」

 先程話に出てきた田庭甫でんていほとは行方の判らなくなった田庭閑でんていかんの父、陸蓉りくようは陸皓の娘で田家でんけに嫁いだ田庭閑の母である。

「とりあえず今は何も判らない方が良いかもな。年明けの大会が終わるまでは……」

 白千風が言うと白千雲も小さく相槌を打ってから椅子の背にもたれかかった。

 

「あら、大師兄、来てらしたのね」

 屋敷に戻ってきた郭斐林が姿を見せた。

「姉妹、真武観では何故姿を見せなかった? 儂が居るのは知っておったのだろう?」

 白千雲は少し睨みつけるように郭斐林を見る。しかし本気で咎めている訳でもない。元々あまり笑顔を見せて話す事が無い事は郭斐林達もよく知っていた。

「だって、あれはとても入って行ける雰囲気じゃなかったわ。きっと私には分からない話でしょ?」

 郭斐林はそう言って笑う。

「それにしては暫く聞いていたようだが」

「そうかしら? あれから……どうしたかしら」

 郭斐林は軽く誤魔化しながら白千風の隣に腰を下ろした。

「ねえ、大兄さん、あ……大兄さんでいいわよね? そっちの方がとても言い易くて助かるわ」

 郭斐林は白千雲の顔を覗き込む。白千雲は初めて口元を緩めて微笑んだ。

「フ……かまわん」

「我等だけの時は構わんが、他では言うなよ」

 白千風が言う。

「分かってるわよ。大兄さん、都はどう? 楽しい?」

「お前、何を子供みたいな事を言ってるんだ。大師兄は遊びに行ってるんじゃない」

「ねえ、こうしてると昔みたいじゃない? 久しくこうやって三人で話す事なんて無かったでしょ。大兄さんは忙しくしてるし、正式に総帥になったら益々話せなくなるわ」

 白千雲が顔を上げて郭斐林をじっと見た。

「姉妹、何故そんな事を言うのか分からんが、我等の師父は引退どころか古希を過ぎて益々意気盛んだ。その辺の事は噂に過ぎない。そなたがそのように軽々しく口にする様では困るな。お前達、師父の……我等真武剣派の目指す処はまだ先にある。これからも我等は師父に付き従ってゆくのだ」

 神妙な面持ちで語る白千雲の言葉に、白千風と郭斐林は思わず背筋を伸ばした。

「お前達はずっと師父の傍に居るのだからな。これから忙しくなるかも知れんな」

「……大兄さん、何かあるの?」

「心配するな」

 少し不安げな声を出した郭斐林に、白千雲が言う。

「今はまだ言える事は無いが、どうやら我が派の外でも色々動きが出ている様だ」

北辰ほくしんだな」

 白千風がすかさず言う。郭斐林は白千風の方を向いた。

「どうして? 北辰は総監が死んで対立が無くなったんでしょう? 動くと言ったって、もう引っ張る人間なんて居ないじゃないの。一体何を……」

 白千風は答えずに白千雲を見る。

「何もしないならそれで良い。ただ、変化するならどのように変化するのか注視せねばならん。……まぁこれは言っておこう。今、千河幇せんがほうと北辰に昔のような繋がりは無い。しかも先の鏢局襲撃以来、完全に決別する可能性も十分にある。師父は、千河幇に注目されている」

 白千風と郭斐林は顔を見合わせた。

 

 

 六

 

 冷たい風が吹く中、李小絹はくすんだ深緑の包みを抱えて隅にある納屋までやってくると、微かに自分の名を呼ぶ声を聞いて足を止めた。

「もう、何? 何処に居るのよ?」

 首を回して庭の木々や石の陰や屋敷を囲む塀の上までも目を凝らす。何も変わった様子も無いが何度も辺りを見回した。

「遊んでいる暇は無いの。私に見つからないからっていい気になってるんでしょうけど、何が面白いの? またこの間みたいに此処のお弟子さん達にすぐ見つかってつまみ出されるわよ?」

 李小絹はそう言うと前の納屋に入り、戸を完全に閉めてしまった。その納屋の周辺は静まりかえっていたが、暫くするとその納屋の屋根から一人の少年が戸口の丁度前に飛び降りてきた。うまく着地出来ずに少しよろめいて地面に手を付いたが、かろうじて土の上を転がらずに済んだ。少年はすぐに李小絹が閉めた戸にもたれ掛かるように身を寄せて、中の物音を確かめるように耳を付けている。そうしてまた暫くじっとしてから辺りを見回してその場に腰を下ろした。

 もう一度少年は首を伸ばして辺りの様子を窺ってから、懐から古ぼけた紙の束を取り出してそっと表面を撫でてから膝の上で揃え、黙って眺めている。後ろの納屋に入った李小絹はまだ中で荷を動かしているのか時折ガタガタと音を立てていて出て来ない。少年は膝を抱えてじっと待っていた。


「……今日は何?」

 持っていた包みは中に片付けたのか、納屋から出てきた李小絹は手ぶらで扉の前に立ち、少年もすぐに立ち上がった。李小絹の白い頬には薄っすらと埃の跡が付いており、少年は笑みを浮かべたが黙ったままで自分の頬を指差し頬が汚れている事を伝えると、李小絹はさっと手を上げてまるで顔を洗うような仕草で自分の両の頬を撫でる。すると少年はまた笑って頷いた。

「何よ。何か言いなさいよ」

「これさ。これを君にあげようと思って」

 少年はここで初めて口を開く。その瞬間、李小絹が少年の着物の袖を掴んで引っ張った。

「こっち!」

 李小絹が屋敷から隠れる様に納屋の後ろの方に向かって走り出したので少年も急いで付いて行く。

「どうしたの?」

「今、旦那様が表に出て行ったわ。見つかったら困るのよ。特に今は」

「どうして今は特に、なの?」

「あなたには関係の無いことよ。で、それが何なの?」

 李小絹は少年の手にある古ぼけた紙の束に目を遣った。

「これ、きっと凄い物だよ」

 少年は李小絹の顔と手元を交互に見遣りながら紙を見せる。何やら古い字体の小さな文字がびっしりと書かれている。元はちゃんと綴じられた冊子だった様だが今では四方の端は皆ぼろぼろで文字が失われている処もあった。

「……読めないじゃない。何の本なの?」

 李小絹は全く興味が無いわけではなく、この古めかしい謎の文章に引き込まれていくように目で追っていく。

「読めるところが何処にも無いじゃない……何よこれ!」

 何枚かめくっていったところで急に李小絹が顔を上げて少年を睨みつけた。

「こんなの私に見せるなんて!」

 李小絹が紙の束を少年に付き返す。

「ちょっと待って! これが何について書かれた本なのか分かったのかい?」

 少年は乱暴に付き返された紙を落とさないように丁寧に揃える。

「フン! 知りたくも無いわ。あなたはこれが楽しいんでしょうね! こんな……女の人の裸の絵を大事そうに抱えて、なんて人なの!」

 

 

 七

 

「だから! ちょっと説明させてよ。これは、武芸について書かれた古い書物なんだ!」

「武芸の本にどうしてそんな絵があるのよ!」

「それは……ほら、気功法とかあるだろ?全身の気の流れを説明したり……とかじゃないかな?」

 少年は必死に説明しようとするがどうやら自分も良く解っていなかった。何通りかの姿勢をとった裸の人物像に無数の点が付けてあり、その幾つかが線で結ばれている。そしてその描かれている人物は皆、女性である。

「ほら、この文字、これは東涼とうりょう、全然そんな風に読めないけど、そう読むらしいんだ。東涼といえば東涼黄龍とうりょうおうりゅうだろ? 東涼の黄龍門はその始祖も女性で、代々の掌門も女性、弟子も皆女性だよ。そこに伝わる物ならこの絵だって女性なのは当たり前さ。男の絵だったらその方がおかしいよ」

「私が何も知らないと思ってるの? 東涼の始祖様は確かに女性で、弟子も皆そうだったって聞いてるけど、伝わってる武芸は西涼黄龍せいりょうおうりゅう、つまり安県あんけんの黄龍門と変わらないんでしょ? それにもう数十年前に途絶えて今は無い筈だわ。誰が書いた物か解らないの?」

 女性の裸の絵という点については納得したのか何も言わずに李小絹は再び少年の手から紙を取る。

 李小絹は実際に武芸を教わった事は無いが何時の頃からか興味を持ち始め、人から聞いた話ばかりだが武林の門派や人物、その武芸の特徴等をまるでよく見知っているかの様にいつも少年に話していた。

「本物なら」

 少年はじっと李小絹を見つめた。

「東涼黄龍門の始祖、洪淑華こうしゅくかご先輩の筈さ」

「ハッ、よくその名前知ってたわね。誰かに教えてもらったの? 大体、これが本当に本物ならあなたが今手にしている事自体在り得ないわよ。何処から持ってきたの?」

「僕のお爺さんの家の蔵だよ」

「……あなたのお爺様と黄龍門に接点はある?」

「聞いた事無いけど」

「まぁいいわ。本物だと思ってるんならちゃんと元に戻して厳重に保管するのね。知れ渡ったらすぐにでもあなたのお爺様の屋敷は襲われるわ。あなたも無事に生きていられるといいけど」

 李小絹はそう言って眺めていた紙の束を少年に返し、くるっと踵を返した。

「ねぇ、興味ないの?」

「読めないじゃない。誰かに聞けるとでも? 私ね、もうじき真武剣派の弟子になるの。そんなの読んでたら叱られるわ」

「じゃあ、何とか読める様に直して、また見せるよ」

「だから、要らないの。私忙しいのよ。じゃあね。ちゃんと見つからないように出るのよ」

 その後、李小絹は一度も振り返らずに屋敷へと戻っていった。少年はその後姿を口を空けたまましばらく見つめていたが、急に我に帰ってまた紙の束を懐に入れ、辺りを見回して近くの塀をよじ登った。

 

「小絹」

 屋敷に戻った李小絹は急に背後から声を掛けられた。振り返ると郭斐林が立っている。

「あ、奥様」

「小絹、来客だったのかしら?」

「え?」

 郭斐林はどこからか李小絹と少年が話しているのを見ていたのだろうか。李小絹は焦った。

「えっ、あの……」

「あの子、何度も来ているようだけど――」

「申し訳ありません! もう来ない様に言っておきますから!」

「誰も来るななんて言わないわ」

 郭斐林は笑う。

「ただ、一度もちゃんと門から入って来た事は無いようね。次来たら正面から普通に入って来るように言っておきなさいね。その内、うちの誰かが捕まえて役人に突き出しかねないわ」

 

 

 八

 

 年が明けて武慶の街も新年を祝う人々で賑わっている。しかし、この街は昔から都や他の比較的大きな街と比べると地味な印象を受ける。行き交う人々の装いはいつもより華やいでいて賑わってはいるのだが、他所ではよく見られる過剰に騒ぎ立てる者や喧嘩などの騒動が全く起きない。武慶は決して小さい街ではない。どこかで酒でも飲んで周りの人間に絡む者が居てもおかしくないのだが、まず見つからなかった。

 代わりに何処へ行っても見るのが、真武剣派の門弟達である。街中を巡回するのだ。本来ならそれらは役人の役目であろうが、彼らは真武剣派の人間を見ればすぐに引き上げてしまい、影の薄い存在になっている。事実、真武剣派の者達の方が腕が立ち荒事にも慣れており、何より庶民である事から武慶の人々から親しみと共に絶大な信頼を得ていた。

 

 街の中心から外れた所にある少し大きな料理屋で、急に男の怒鳴り声が響く。外は大勢の人間が行き交い騒がしかったが、その男の声には重厚な気が満ち、通りを行く人々の殆どがその料理屋の方へ顔を向けた。その時、人込みの中の二人がサッと顔を見合わせて頷き合うと、声のした店に向かって足早に歩き出す。人々の間を縫うように進む二人の体裁きに誰も特に注目はしなかったが、見る者が見れば明らかに素人のそれではない。この二人も真武剣派の門弟であった。

 二人が料理店に入るとすぐに給仕の女がやってきた。

「何かあったか?」

「なんだかうるさい客が来ているようで……」

「うるさい? 酔っ払いか?」

「さぁ……?」

 はっきりしない女の物言いに少々うんざりしながら二人の男は声のした二階へ上っていく。

「あっ、こう様」

 二階に居た店の者が上がってきた二人の真武剣派の弟子を見つけ、すぐに駆け寄る。孔と呼ばれた男は二階の全体をサッと見渡すと、一人の客の男と目が合った。一人だけ立ち上がってこちらを睨むように見ている。粗末な着物を纏っているようだが、眼光は鋭い。黒々とした髭が顔を覆った中年の男である。

(この御仁か……先程の声は)

「何があった?」

 孔は自分に擦り寄る様に立っている給仕の男に訊ねると、男は口を尖らせて、立っている客の男の方へあごを突き出した。

「あの客、あの席の横の二人も一緒なんですがね、やたら多くの料理を注文するもんで勘定は大丈夫かと言ったんですよ。揃いも揃って皆あの身形ですからね。でも別に私はちょっと軽く訊いたんですよ。なのにあの男、急に怒り出して……」

 孔が客の男とその周辺をもう一度見ると、確かに同じように粗末な身形の男が二人。しかしその者達は立っている男の怒りとは何の関係も無いといったふうで黙々と食事を勧めていた。

「で?あると言ってるんだな?」

「ええ、まぁ」

「なら、とりあえず信用するしかないな」

「おい、何をゴチャゴチャ言っておる?」

 客の男が再び大声を出す。

「はいはい、分かりましたから、お静かにお願いしますよ」

 給仕の男が面倒臭そうな声で言うと、

「何だその態度は! 我等は客だぞ! しかも金も持っておる!」

「あーそれは申し訳ありません」

(金を持っているのは当り前ではないか。金が無かったら客とは言わんわ!)

「おい中大ちゅうだい、金を見せてやれ」

 客の男が横に座っていた男に声を掛けた。中大と呼ばれた男は料理を頬張ったまま顔の前で手を振っている。どうやら「無い」と言っている様だ。次いでその男は更に隣の男を指差した。

 

 

 九

 

しょう、金を出せ」

 立っている男は中大の隣の男に声を掛ける。

「小と呼ぶな!何度言えば分かる?」

 その男は三人の中で一番体が大きく、確かに小と呼ぶのは変に思われた。

「何を馬鹿な事を。お前は生まれた時から小だ。親父がそう名付けたのだからな。金を出せ」

「親父が俺に付けた名は小大しょうだいだろうが! 何故、大を省く? フン、小大だって気に入らないが仕方ない。せめて大を付けろ!」

 小大という男は口に飯を入れたまま捲し立てる。

「大は儂だ。一番上の儂が大でこいつが中、お前が小、こんな分かりやすく道理に適った名があるか?」

「フン、何が道理だ」

「いいから金を出せ。奴に金を見せねばならん」

 奴というのは店の給仕の男の事だろう。立っている大と言うらしい男は給仕を指差している。

「金なんかあるか」

 小大は即座にそう吐き捨てて残っていた飯を掻き込んだ。

「金が無いだと?」

 小大という男の言葉を聞いて、給仕の男が再び早足で男達の席へ戻る。目を大きく見開いて男達を睨み付けている。

「あんたらどういう了見だ!? 金も無いのにこんなに食いやがって! おい! 食うな!」

 給仕の男は黙々と食べ続けている二人の男を怒鳴りつける。つい先程まではまだ少しばかり丁寧な物言いだったが、本当に男達が金を持っていないとなればもう客では無い。しかし男達は二人揃ってチラッと視線を上げて給仕の男を見ただけでまた食事を続ける。

「おい! 聞こえないのか!?」

 今度は男達がそれぞれ手にしている椀を奪いにかかる。すると男達は椀を持った手をさっと引っ込めて立ち上がり、給仕に背を向けて食べ続けている。

「こ、この野郎!」

 ついに給仕の男は大声を上げて肩に掛けていた手巾を床に叩き付けると真ん中の男、中大に飛び掛る。すると隣に居る大という男の太い腕が伸びてきて給仕の男は胸倉を掴まれてあっという間に吊り上げられてしまった。

「やめろ!」

 真武剣派の孔が飛び出し大の手首を掴む。手を離そうと力を込めるが大の腕が真っ直ぐ前に突き出されたままびくともしないのに驚いた。

「御免」

 孔が残っている左の手で大の穴道を突かんと素早く伸ばすと、驚いた事に大は同じく空いていた左腕を後ろ手に回して孔が伸ばした腕を容易く掴んでしまった。

「フフン、そんな小細工は通用せんわ」

「くそっ離しやがれ!」

 給仕の男が手足をバタつかせて暴れるので大は給仕の男の胸倉を掴んだ腕を、孔に掴まれているにも関わらず更に持ち上げて給仕の男を放り投げる。給仕の男は大きな音を立てて少し先の床を転がった。孔は掴まれていた左腕を振りほどいて給仕の男の転がった方へ跳躍して下がる。

「あなた方はその食事代をどうされるおつもりだ? 金が払えないのならばあなた方を役人に引き渡さねばならん」

「フン、本当に儂を捕まえられると「今でも」思っているのか?」

 大は立ったまま孔に向かって言い、料理の切れ端を少し摘んで口に運んだ。

 転がってきた給仕の男の様子を見ていた孔の連れの男が立ち上がり孔に身を寄せた。

「どうしますか?」

 孔は答えずにじっと大という男を見ていた。

「私は真武剣派の門弟、孔秦こうしんと申す。あなた方は何処から参られた? 名をお聞かせ願いたい」

 

 

 十

 

「おう、真武剣派か。儂等はあんたらの主の為に遥々、清稜山から参ったのだ。儂は武大ぶだい。こっちは中で、そっちは――」

「小大だ! 俺は武小大だぞ!」

 武小大は「小」と呼ばれる前に叫ぶように名乗る。それを聞いてずっと椀を抱えて口を動かしていた中も顔を上げた。

「こっちが小大でいくなら、儂だけ、「中」ってのはおかしい。儂の名は中大。武中大ぶちゅうだいだ」

「どっちでも同じであろうが! ごちゃごちゃ言うな!」

「いいや、違う! 親父が付けたのは小大だ! 俺は小と大、中兄貴は中と大。大兄貴は大だけだ」

「何だと? 一番上の儂が一番少ないなんて道理があるか!」

 何の量を比べているのかよく分からないが、この武の兄弟はそろって五十にはなろうかという歳格好だが孔秦達をおいて子供の様な言い争いをしている。孔秦と弟弟子であろう男は呆気にとられてしばらく男達を眺めていた。

「それでだ」

 武大が孔秦の方へ向き直る。

「儂等は客だぞ? 清稜山しんりょうざんもくの爺さんを連れてここまで来たのだ。お前達真武剣派が呼んだんだからな。金が無いなんて事があるか?」

 孔秦は驚いて目を見開いた。

「木……? 清稜派の木道長もくどうちょう木傀風もくかいふう様……?」

「ああそうだ。お主も知らん筈は無かろう」

「では、あなた方は清稜派の?」

「あー、こいつらは爺さんの弟子だ。儂は違うがな」

 武大は武中大達を指差す。

「師父を爺さんとか言うな!」

「何? あれが爺さんで無ければこの世に爺さんなんて一人もおらん。男の年寄りは皆、爺さんと言うのだ。農民だろうが皇帝だろうが例外は無い。それが道理――」

「あーもう分かった! 好きにしろ!」

 武小大はがたがたと手荒に椅子を引き寄せて腰を下ろして目の前の料理をつまむ。

「武大殿」

 孔秦は口調を改め武大に話しかける。

「して、木傀風道長はどちらに? 此度の我が派の祝賀にお越し下されたのでしょうか?」

「おう、そうだ。それ以外に此処に何の用がある?」

「おお、そうでございましたか。ならば皆様は我が真武剣派の大事なお客人。此処での皆様のお食事代はこちらにお任せくだされ」

「孔師兄」

 孔秦の傍に居たもう一人の男が孔秦に小声で話しかける。

「いいんですか? 確かめたほうが……。木道長らしきお人は居ないようですけど。それに木道長のお弟子さんに武という名は聞いたことが……」

 孔秦は僅かに頷いてみせただけで声は出さなかった。

「皆さん、木道長がこの武慶に入られたのならばすぐに我が太師父たいしふにお伝えして真武観にご案内しなければなりません。太師父はさぞお喜びになられましょう。今、木道長はどちらに居られるのでしょうか?」

 武大は武中大の方に首を捻じ曲げる。

「おい、お前達の師匠はまだか?」

「多分もう少し掛かるだろう。嫂上が一緒だからその内来るさ」

「全くお前達弟子が付き添うのが道理だろうが。儂の女房は爺さんの世話係ではないわ」

 孔秦は内心イライラしてきている。

(この男はどうしてはっきりと質問に答える事が出来んのだ? しかし……木道長はまだ来ないという事ならどうしたものか……本当に清稜の者達なのか判断出来んな。あの木道長の弟子に武という者が居るというのも聞かないが)

「まぁとにかく暫くすれば爺さんは来る。それまで儂等は待っているのだ。金は来たら払う」

 

 

 十一

 

「来なかったらどうする? 払わないとかいうんじゃないだろうな?」

 先程、武大に放り投げられて床に転がっていた店の給仕の男が孔秦の背中から武大に向かって言う。

「来るに決まっておる。儂等は少し先に来て腹ごしらえをしておるだけで、清稜からずっと一緒に此処まで来たのだからな」

 武大はそう言うと腰を下ろし、武中大、武小大の二人も再び腰を据えて食事を続ける。

「とりあえず我が派の客を名乗る以上、我等が相手をせねばならん。そなたはもう仕事に戻ってくれ。若し金が無いという事になればとりあえず私が払おう」

 孔秦は給仕の男に言う。

「まぁ……それなら結構ですけどね……」

 給仕の男はそう答えると、もう一度武大達を見遣ってから下がっていった。

「武大殿」

 孔秦が声を掛ける。

「まだ何かあるか?」

「木道長はこの店に来られる事になっているのですか?」

「んん?」

 武大は顔を上げて孔秦を見つめた後、すぐ横の武中大の方を向いた。

「おい、どうだ?」

「師父は儂等が此処に居る事は知らん」

 武中大が言うとすぐに武小大が口を開く。

「知る訳ないだろう。俺達は先に来て適当に選んだこの店に入ったんだからな」

 再び武大が孔秦の方に向き直る。

「そういうことらしいな」

 孔秦はこの者達がどういうつもりなのかさっぱり理解出来ない。

(ではどこから金をひねり出すつもりだ? 自分達の師父を差し置いて金も持たずに飯を食って、しかも師父の居場所も分からんとは……)

「まぁ心配はいらん。おい中、もう終わりか? 爺さんを探して来い」

 武大が横で食事を終えて腹をさすっている武中大に言う。

「まだ食べ終えたばかりだ。少し休ませてくれ」

「そうか」

(そうか、じゃないだろう! さっさと探しに行ってくれ!)

 孔秦の険しい表情に気付いた武小大が、

「大丈夫だって。逃げやしない。って、あんたらこの店の者じゃないんだから俺達に付き合う必要ないだろう? 行ってもらって構わないぜ。真武観での大会にはちゃんと行くさ。俺はそれがいつか知らないがな」

 そう言って笑っている。

「ま、そういう訳にもいくまい。探しに行くとしよう」

 武中大がおもむろに立ち上がり、孔秦の元に歩み寄り、そして振り返る。

「ちゃんと此処に居てくれよ。でないと本当に役所にしょっ引かれるからな」

 孔秦は、一人階下へと降りて行く武中大の背を眺めながら溜息をつき、一先ず武中大に続いて階下へ戻った。

 武中大が店を出た後、孔秦達は茶をすすりながら待っていた。

「孔師兄、我々だけで大丈夫でしょうか? 本当に木道長が来られれば良いですが、あの男達は何だか油断なりません」

「ではどうする? 今は待つしかない。木道長が来ておられるかも知れんのに放って帰る訳にもいかんしな。師父や大師父に知れたら大変だ」

「確か屋敷には鄭師兄達が戻って来ていた筈。ちょっと行って呼んできましょうか? 何があるか分からない」

 孔秦の弟弟子は不安で堪らない様だ。あの武大という男が何かの拍子に暴れ出しでもすれば手が付けられないかもしれない。まともな武芸を見せた訳ではなく、ただ怪力であるという事しか今は判らないが、兄弟子と自分だけでは分が悪いとでも思っているらしい。

 

 

 十二

 

「大丈夫だとは思うが……まぁそうだな。呼んできてもらおうか。しかし大勢連れて来るなよ」

「はい。ではすぐ戻りますから」

 孔秦の弟弟子はそういうとすぐに店を飛び出して行った。外はもう陽が傾いて薄暗くなり始めている。ようやく行き交う人々の姿も減り始めていたが、店の中は逆に客が増え始めていた。

 暫くして、出て行った武中大が戻るより先に、孔秦の兄弟弟子達が店にやって来た。

「孔師兄、木道長が来られたのか?」

 先頭に立って入ってきたのはていという、これもまた孔秦の弟弟子だった。

「そういう事らしいが、まだ会っておらん」

「もう陽が暮れ始めてる。本当に来ているなら真武観に行くんじゃないのか? 太師父と昔から親しい方なんだから遠慮する事も無いだろうしな」

「では、上に居る男達は何だろうな?」

「ちょっと見てくるか」

 鄭が階段の方へ向かおうとすると孔秦はすぐに行く手を遮る。

「やめておけ。とりあえず仲間の一人が木道長を連れて来ると言って出ているところだ」

「信じられんなぁ。木道長がこんな……この店に来るだろうか? それに、武という弟子なんて……木道長の弟子といえば、とうの御兄弟お二方だけというのは有名な話じゃないか」

「それはそうだが、その後新たに弟子をとったのかもしれんしな。新たな弟子にしては歳が大きすぎる気もするが――」

 

 清稜派は数ある武林門派の中でも歴史は古く、およそ五百年の昔、時の皇帝の一族であった者が理由は分からないが都から西方に下り、清稜山に住み着いたのが始まりとされる。当時の事は何故か殆ど分かっておらず、その者から数えて三代か四代後の頃には清稜派という名の一派が成立していたと考えられている。現在、清稜山には清稜派開祖の像と言われる古い木像が祭られているが、その像に名前は無い。

 その謎多き開祖が残したと伝えられている数々の品が清稜山の宝物庫に収められている。それらの中にはとても豪華な、まさに宝物と言える宝石がちりばめられた装飾品等が数多くあり、確かに持ち主がその辺の庶民では無かった事が窺えるが、それらの他に、これこそ清稜派の最も大切な宝物と言うべき、開祖の手であろうと思われる膨大な数の書があった。それらは富を持つ者が集めるような古の大詩人の書や遠き神代の古文書とかいう類の物ではなく、唯一人の手によって編み上げられた清稜派武芸書九十二巻である。

 そこに書かれた武芸の真髄については門外不出であるが、この九十二巻の書には武林のみならず広く江湖に知れ渡る古い話がある。

 まだ清稜派があまり知られていない時代、かつての皇族が残した膨大な書が存在することを知った皇帝が都へ運ぶように命じた。清稜派の長であった韋親いしんという者が命令に従い書を携えて都に上りその全てを皇帝に見せるが、あまりに多くの量であった為、文官数名にその内容を確かめるように命じた。

 後日、皇帝は文官達に内容について訊ねるが、文官達は返答に困っている様ではっきりしない。皇帝が改めて問いただすと、答えは「よく解らない」というものだった。文官達は選び抜かれた秀才揃いでその者達が「よく解らない」というのは、どうやら文字は誤りが多く、文のつくりは稚拙で何について書いているのかが理解できず、しかもそれが最初から最後まで全九十二巻続くというのだ。文官達は皇帝の先祖が遺した物を悪く言う訳にもいかずに困り果てる。

 そこで皇帝は自ら目を通し始めたが、最初の一巻も読み終える事はなかった。選りすぐりの文官が解らぬ物は誰にも解らない。皇帝は韋親に、内容を理解しているのかと問う。韋親は答える。

「この書には武芸が記されております」

 

 

 十三

 

 皇帝が文官達に尋ねると、たしかにそのようにも思える記述はあった、と言い、しかしとても理解は出来ないと付け加えた。皇帝は、どのようなものであるか、と再び問うと韋親は答える。

「もうすでにこの書の武芸は私の体に宿っております。これらの書は我が派の至宝でありますが、再び読む必要はありません」

 皇帝はその武芸を見るために配下の者に韋親の相手になる適当な人間を見繕うよう命じ、すぐに立ち合いの場が設けられる。韋親の相手は皇帝の身辺の警備にあたる兵士であった。 その兵士はそれなりの剣技を身に付けてはいたものの、韋親に対して全く歯が立たなかった。韋親は謁見の間に入る為に一切武器の類は身に付けておらず、兵士の鋭利な宝剣に対し自分の持参した巻物の中から一枚の細い木片を抜き取って、それを剣に見立てて清稜派の武芸を披露する。当時はまだ細い竹片や木片を紐を使って編んだ物に文字を書く巻物が殆どであり、清稜派に伝わるその巻物も同様である。韋親が手にした木片にも文字が書かれていた。韋親はその頼りなげな細い木片を使って兵士の宝剣を払いながら動き回り、時折兵士の体に木片を当てる。その時に「ぺち」と何とも拍子抜けする様な音が鳴る。

 暫くその様な状態が続き、兵士の剣もかわされ続けるだけでこの先永遠に続くように思える。皇帝は二人に止めるよう命じた。確かに韋親は兵士の剣を全く危なげなく避けながら自分の手の木片は確実に兵士に届いている。兵士より強いという訳だが周りの者からはどう見ても韋親の動きは武芸というより踊り、しかも子供の拙いお遊戯とでも言った方が良さそうなものだった。

 皇帝はただ「変わっている」とだけ言い、後は黙り込んでしまう。韋親は皇帝に言う。

「全てこの巻物にあるとおりでございます。私は負けておりません」

 韋親の妙な踊りのような動きと韋親の持参した九十二巻の書は確かに通じているように感じる。「よく分からないおかしなモノ」という共通点によって、である。

 皇帝の興味はそこで潰えてしまったようで、巻物を持って清稜山に帰っても良いと韋親に告げる。韋親は何も言わずに膝を折って深々と頭を下げ、皇帝の前から辞去した。

 韋親は九十二巻の書を持って帰っても良いと言われ、安堵する。誰が何と言おうと清稜派の宝である。都に置く事になればきっと誰も理解出来ず、宮中の巨大な蔵の片隅に何百年と埋もれてしまうに違いなかった。役人の計らいでそれから数日都に留まってから、韋親は清稜山に向かって発つ。

 丁度その二日後、都で事件が起こった。近衛府このえふに属する武官の一人が宮中の金を横領し、配下数十騎を連れて都から脱走したのである。その武官は都から真っ直ぐ西へ向かったという。すぐに追っ手が差し向けられた。追手の騎馬隊は逃走した武官とその手勢を都の西方二百里程の処にある咸水かんすいというひなびた農村で発見する。咸水から程近い街の役人が村まで来ており、既に一人残らず縛り上げられていた。聞けばそのお尋ね者達は近くの街まで来ていたが一部の者が騒ぎを起こし暴れだして手が付けられずにいた処に、丁度凄腕の武芸者が村を通りかかって役人を助け、この咸水まで追いかけて捕まえたと言う。そう胸を張って報告するその役人はたった一人で、他には見物に集まっているこの村の住人しか居ない。

 助勢してくれたその凄腕の武芸者とは誰かと訊ねると役人は、旅の途中の様で名乗らずに行ってしまったが、その武芸は素晴らしい、見た事も無いと興奮しながら言う。まるで舞うように敵の間を飛び回ると面白いように皆バタバタと倒れていき、どうやったのかは全く解らない。しかも腰には剣を下げていたにも関わらず使った得物は何に使うものか解らないが文字の書かれた細い木切れで、あれこそ最高の武芸の絶技に違いないと役人は言った。

 

 

 十四

 

 捕らえた者達を引き連れた騎馬隊は都に戻り、皇帝に報告する。皇帝は驚き、すぐに清稜派の韋親を呼び戻すように戻ったばかりの騎馬隊に命じた。木切れを持って踊りながら敵を倒すのが清稜派の武芸だと皇帝は得意気に言うのである。それから十数日後、再び韋親は都へと戻された。

 その後、少なくとも四年、韋親と九十二巻の書は清稜山には戻っていない。詳しい事は伝えられていないが、皇帝の命により武芸の指南役を務めたという。清稜派の武芸そのものを教える事は無かったと思われるが、この時韋親の許で学んだ者の中から後年名を上げる武芸者が何人か現れる。中でも偉才を発揮したのが王志劫おうしこうという男で、後に武慶に真武派という剣術流派を開き、武名を轟かせた。この真武派の剣術と清稜派の武芸には共通する部分が全く見られなかった為、王志劫が一から創始したものとされている。この真武派はおよそ百五十年前まで存在していたがその末期には分裂を繰り返して事実上消滅するが、詳しい状況は分かっていない。ちなみに現在、武慶を本拠とする真武剣派はこの真武派の武芸を受け継いだものであると総帥陸皓は公言している。かつての真武派の剣術は散逸してしまった筈で、その内容を現在知るものは他に見当たらない。陸皓が真武剣派を名乗った四十年前の当時はそれが本当かどうかが武林の最大の関心事であったが、検証する術も無く今となってはその事について口にするものは皆無となった。

 

 清稜派の掌門しょうもん道長どうちょうと呼ばれている。韋親の頃はどうやらそういう呼び名は無かったようであるが、後の代で道教の思想が取り入れられたようである。しかし今の清稜派を見る限り宗教色はかなり薄い。現在の道長、木傀風は韋親から数えて十一代目となる。

 木傀風は掌門となってから長く弟子を取らなかったが、清稜派は木傀風以降途絶えるのではないかという噂が江湖に広まり始めた頃、ようやく三人の兄弟を揃って正式な弟子とした。董全とうぜん董仰とうぎょう董杢とうもくという、清稜山に程近い村に住んでいた兄弟で、木傀風はその兄弟が幼い頃から可愛がって面倒を看ていた。

 三人は木傀風に常に付き従いよく武芸を修練して清稜派の武術を身に付けていき、江湖の噂は後継者は三人の誰になるのかというものに変わっていく。腕前は肉薄しており木傀風にとって悩ましい問題であったが、長男である董全が最も常に思慮深く落ち着いた性格であったので今後清稜派をまとめるのに相応しいであろうと考えた。

 木傀風は真武剣派の陸皓と同世代だが未だその腕と気概は衰えをみせず、後継について公言することは全く無かったが、今から五年前に思いも寄らぬ事態が起こる。不意に弟子の董全が不明の病にかかり急逝してしまったのである。心の中では後継者は董全と決めていた木傀風は落胆したが、まだ二人の優れた弟子が居る。今江湖では真武剣派が次の代に変わるのではないかと噂されているが清稜派については何も聞かれない。木傀風は相変わらず代を次に渡すという事に関しては全く口にしていなかった。

 

「……木道長がこの武慶に来られるのもこれが最後になるかもしれんな」

 鄭は孔秦の横に座ってぽつりと言った。

「清稜は今雪に閉ざされているだろうが、木道長は雪が降る前に発たれたのだろうか?」

「んん? 多分そうだろう。あそこはとんでもなく雪が積もるらしいじゃないか。超えねばならん山が幾つもあるしな」

 鄭という男は孔秦を「孔師兄」と呼んだが、それ以外は特に上下関係は意識しないようで友人と話しているような口振りだった。

 

 

 十五

 

 孔秦達はずっと店の入り口の近くで待っていたが、一向に武中大が戻ってくる気配は無く、二階に居る武大達も降りて来ない。外はもう暗く、店の入り口の辺りをうろついたり腰を下ろして茶を啜ったりしながら待っているが、さすがに孔秦も苛つき始めていた。

 そんな時、一人の女が店の入り口に立つ。孔秦らは店に人が来るたびに一斉に顔を向けていたが、この女の時も同様に視線を送る。急に幾つもの鋭い視線を浴びせられた女は驚いて後退った。

「あ、ああ、すいません。どうぞお入りください」

 孔秦が慌てて入り口まで行って頭を下げる。

「はい」

 女はまだ少し驚いた顔のままだったが、孔秦に丁寧にお辞儀を返した。

 年の頃は三十半ばから四十程、若干ふくよかな丸みを帯びた身体つきがどこか可愛らしい風情の女である。つい見つめてしまった孔秦は再び頭を下げて入り口の脇に避けた。

 女は少し頭を下げながら孔秦達の横を通って店に入ると辺りを見回している。どうやら客の誰かを探している様で、しばらく見渡してから二階にあがる階段を見つけて、上がっていった。鄭が孔秦の横に立つ。

「フフ、孔師兄、動揺してるな?」

「動揺? 何故だ?」

「隠したって分かる。ああいうのが孔師兄の好みだろう? 確かになんていうか、こう――」

「何を言ってるんだ。口を慎め」

 孔秦は階段に背を向けて近くの席に腰を下ろした。

「ちょっと歳くってるみたいだが……そこがまた……なんとも……」

「鄭、下品だぞ。師父が聞いたら無事では居られんな」

 鄭は肩をすくめて孔秦の傍に腰を下ろした。

「孔師兄」

 最初に孔秦と共にこの店に来た弟弟子が孔秦の顔を見てから階段の方を向く。二階から武小大が降りて来るところで、孔秦達は一斉に立ち上がり注目した。

「何だ? 増えてるな。みんな真武剣派のお仲間かい?」

 武小大は階段を下りながら声を掛ける。

「まだ木道長はお見えになりませんが……」

 孔秦が行く手を塞ぐ様に武小大の前に立つ。

「金なら来たぜ」

「は?」

「中大の兄貴は戻らねぇよ。今頃、師父の所だろう。俺も行かないと怒られる。まだ大の兄貴が上に居る。金は払って行くから、あんたらももう帰って休んでくれ。ご苦労さん」

 武小大はそう言って孔秦の横をするりと抜ける。

「おい!」

 鄭がすかさず腕を伸ばして武小大の肩を掴む。

「おっ」

 武小大は驚きの声を上げたが顔はおどけた風ですぐに鄭の腕を取りに行く。

「武殿!」

「お止めなさい!」

 孔秦が発した声に鋭い女の声が被さった。

 その女の声が辺りに響き渡ったので、孔秦達だけでなく他の店の客達までも目を見開いて声のした方へ顔を向けた。見れば先程店に来た女が階段を上がりきった所でこちらを見下ろしているが、自分で自分の声に驚いてしまったのか手で口元を押さえて眼を丸くしている。

「あー嫂さん、この方々が俺達の見張りの人達だ。宜しく頼むよ」

「分かったから早く行きなさい!」

「はいはい」

 武小大は女と言葉を交わすと呆気にとられている孔秦たちを置いてさっさと店を後にした。

 

 

 十六

 

 女は階段を下りて孔秦達の許へ真っ直ぐやって来る。

「あの……」

「うちの者達がご迷惑をおかけした様で、申し訳御座いません」

 女は孔秦に向かって丁寧に頭を下げた。

「あの、あなたも清稜派の方ですか?」

 孔秦の質問に女は顔を上げて目を見開いた。

常施慧じょうしけいと申します。私は門人ではありませんが、長く清稜山で道長様にお仕えさせて頂いております。此度は木傀風様に同行して参りました」

「そうでしたか。して、木道長はどちらに……?」

「今はこの近くの宿でお休みでございます。流石に道中お疲れになられたようでございまして。あの……道長様が仰るには、お招き頂いた大会の日取りよりもかなり早くこの武慶に着いてしまったので、そちらにご迷惑をお掛けしないよう後日改めて陸総帥様にご挨拶に伺うとの事でした」

 常施慧はゆっくりとした動作でお辞儀をする。その佇まいが何とも上品で孔秦はこちらがただ立っているだけで礼を損なっている様な気になってしまう。

「ああ、いや、そのようなお気遣いは要りませぬ」

 孔秦は常施慧の屈めた肩に思わず手を伸ばしそうになって慌ててその手を引っ込めた。

「確かにまだ十日程ありますが、早過ぎるなどという事は……。逆に太師父……陸総帥は木道長のお早いご到着にお喜びになられましょう。遠慮は要りませぬ。あの、この近くの宿というのは、もしや……」

 孔秦は僅かに眉根を寄せる。

「はい。ここへ来てすぐに宿を探しましたところ、あいにく何処も一杯の様でこの先の環龍かんりゅう……とかいう宿が空いておりましたので其処へ――」

 孔秦と鄭が顔を見合わせる。

(孔師兄、あそこは不味いんじゃないか? 木道長があんな宿に泊まってる事を知ってて放っておいたなんて太師父や師父に知れたらただでは済まんぞ?)

 鄭が小声で孔秦に耳打ちする。

「あの、何か?」

「いや、あー是非にでも我が派の屋敷にお越し頂きたいのです。あの宿はその、あまり……」

「あら、道長様は気に入られたご様子でしたけど。私達がこの武慶に入った事は内緒にして頂ければ皆様が咎められる事もございませんでしょう? 道長様もその方が良いと仰られると思います」

「それは……?」

「いえ、何でもありません。どうかそのようになさって下さい。改めてご挨拶に伺います」

「はぁ……」

 孔秦はこれ以上言葉を返す事も出来ず、口を噤む。

 丁度その時、二階から武大が降りてきた。丸い腹をさすりながらゆっくりとした動作で、酒も結構入っている様だ。

「お前らまだ居ったのか。もう問題は無いぞ。おい! 金だ!払ってやるからさっさと来い!」

 武大は料理を運んでいる給仕の男を見つけて大声で呼ぶ。給仕の男は顔を顰めて睨んでいたが、料理を客の所に運ぶと真っ直ぐ武大の許にやって来る。

「その態度は無いでしょう? 皆さんにご迷惑をお掛けして。あなたは良いけれど道長様に恥をかかせる気なの? あなたは黙って出るの。いい?」

 常施慧がそう言って武大に歩み寄るとその腕を取って店の入り口の方へ引っ張っていく。

「おう、わかったわかった。お前の言う通りにするぞ。儂は素直だろう?」

 武大は上機嫌で笑いながらヨタヨタと歩く。

「ええ、そうね。いい子だからそこで待ってるのよ」

目の前を通り過ぎる常施慧と武大を眺めていた孔秦達はまたも呆気にとられている。

 

 

 十七

 

 武大を店の外に押しやった常施慧は給仕の男の許に戻ると、武大達の飲み食いの代金を支払った。

「それでは、大変申し訳ございませんでした。失礼致します」

「あ、ああ、あの……お気をつけて」

 孔秦がそう答えると常施慧はまた丁寧に頭を下げ、やや早足で店を出て行った。

「どうする? 放っておくのか?」

 鄭が孔秦に訊ねる。

「どうしようもない。お前達は何も知らなかった事にしろ。何も見ていない。俺だけ知っていたという事にする。明日にでも俺が宿の様子を見て来よう」

 木道長一行が入ったという環龍客桟かんりゅうきゃくさんという宿は武慶で最も程度の低い安宿で、街の者はあまりお近づきにはなりたくない輩の溜まり場の様な宿である。役人もあまり近寄らず、真武剣派の人間もあのような場所には近付くなと言われている。木傀風ならばそんなごろつき共によって危害が加えられるなど考えられないが何が起こるか分からず、やはり放って置く訳にはいかない。

 孔秦と弟弟子達はようやく店を出て真武剣派の屋敷に引き上げて行った。

 

 真武剣派高弟、白千風の屋敷では真武剣派四十周年祝賀の英雄大会が迫り、準備の為に弟子達が慌しく動き回っている。武林各派の重鎮達や総帥陸皓と昔から誼を結んでいる者達には招待の書状が送られているが、それ以外にも多くの侠客達が武慶を訪れる事になる。 武林の名手が一同に会する事など滅多にある事では無く、ただ興味本位で各地から押しかける者達も少なくない。招待状が送られた名だたる者達が集まる宴席には上がれずとも、真武剣派への祝い金を幾らか出せばその会場である真武観には入る事が出来る。「何か」起きた時に名手達の手を見る事が出来るかもしれないという期待に胸を膨らませて押し寄せるのだ。しかしながら過去数回行われてきた英雄大会ではせいぜい集まった者達が酒に飲まれて小競り合いを起こす程度で、名手が剣を振るう様な出来事など一度も無かった。 白千風達の役目は貴賓として招かれた各派の重鎮のもてなしは勿論、英雄大会が無事に行われる為のありとあらゆる手立てを講じる事である。分別をわきまえた名士達に混じって得体の知れない輩も少なからず訪れる英雄大会は、主催する側にとっては思いのほか骨の折れる行事であった。

 

 好天が続き、武慶は真冬とは思えぬ陽気に包まれている。相変わらず人出の多い大通りから一筋入った道を、特に何処へと向かう訳でもなく男が散歩していた。大きな体躯を揺らし、まるで子供の様に何も持っていない手をぶらぶらと振って歩く中年の男、武大である。

(退屈だ。実に退屈な街だな。何処まで行っても似たような屋敷が並んでいるだけではないか。観るべき物も無さそうだ。酒も不味いし……あのまま都に留まって居れば良かったわい)

 武大は大きな屋敷を囲む長い塀に挟まれた道を進む。武大の住んでいる清稜山と違う処は、この季節には清稜山では見られない木々の緑がこの南方の街武慶では街中で見られる事だ。しかし、どうやら武大はその緑に目を向けて何か感じ入ったりするという感覚は持ち合わせていなかった。

 

 

 十八

 

 武大がぼんやりと前方に目を遣る。

「お?」

 視線の先は右手の屋敷の長く続いた塀の上である。武大は足を止めて目を凝らす。丁度その時、塀の上に誰かが外からよじ登ったところで、その者は塀の屋根に這いつくばって辺りを見回した。咄嗟に武大は右手の塀に体を張り付かせるようにして隠れる。武大からその者まではまだ距離があり、塀の上からは見えなかった様でその者は体をもぞもぞと動かすとゆっくり塀の向こう側、屋敷の中へと降りてゆく。

「なんだ? こんな真昼間に盗人か?」

 武大は塀の上の人物が見えなくなったので足を早めて近付く。塀には朽ち掛けた短い丸太が立て掛けてある。先程越えていった者が足掛かりにしたのだろう。

(不審な者を追いかけるんだから儂が越えても文句はあるまい)

 武大もその丸太に右足を掛けて勢い良く塀の上に登る。塀の屋根に伏せて中の様子を伺うが、人影は見えなかった。

 武大は塀に張り付きながらずるずると体を屋敷の中へ下ろし、静かに地に降りる。数本の木が並んで立っており、それに身を隠しながら近くの納屋まで来る。

(あいつは何処へ行ったんだ? 屋敷に入ったのか? 此処の人間だったらまずいな。不審者は儂だけになってしまうわい)

 納屋の陰からそっと顔を覗かせると建物に囲まれた何も無い広場があり、三人の女が立っている。一人は中年の女であとの二人は若い。若い方の二人は木刀の様な物を持っているが、中年の女だけがきらきらと光る本物の宝剣を手にしていた。

(……何してるんだ? 切りつけられたらかなわんな。やはり危うきに近寄らず――」

 武大が顔を引っ込めて首を回して横を向くと、別の建物の陰に先程塀を越えて侵入した男がじっと三人の様子を窺っているのが見えた。良く見ればまだ幼い顔の少年である。

(んん? 怪しい。怪しいわい)

 そっと忍び足で後ろに下がり、少し大回りをしてじっと前を窺い見る少年の背後に近付く。ゆっくりと両腕を持ち上げると一気に少年に飛び掛かり、その腕と口元を思い切り押さえつけた。

「ん――!」

 少年は体をよじらせて声を上げようとするが、武大の大きな掌が顔の殆どを覆い締め付けられている。

「おい、黙れ。声を出せば見つかるぞ。儂も見つかれば困る。お前が何者か知らんが、どうでもいい。大人しくするなら離してやる。いいな?」

 少年は両目を思い切り見開いて武大を凝視し、まるでにらめっこの様な状態が暫く続く。

「おい、分かったのか? 返事くらいしろ」

 武大は少年の口元を押さえたまま言う。少年は答えようにも声が出せないので、頭を縦に動かした。

「お前、さっきあの塀を乗り越えたろう? 此処に何の用だ?」

 武大が訊ねるが少年は胸を押さえながら息を整えていて返事が遅れた。

「おい、何か言え!」

 思わず武大が声を荒げる。言ってしまった後慌てて自分で口を押さえた。そっと少年が立っていた場所に行き、そっと前の広場を覗く。

「うわっ!」

 武大はまたも声を出してしまう。広場に居た三人がそろってこちらを注視していたのだ。

「おい小僧逃げるぞ! 見つかった!」

 武大は少年の腕を引っ掴むと最初に上った塀に向かって走り出す。少年の方はといえば武大の動きに反応出来ずに殆ど引き摺られる格好になってしまっている。

「待ちなさい!」

 武大達の後方から中年の女がまるで飛ぶように迫ってくる。しかも手には宝剣が光り、流石に武大の焦りが一気に高まった。

「待った! 待ってくれ!」

 武大は少年を離し、大きな両の掌を女に向けて思い切り叫んだ。

 

 

 十九

 

「何だ!? 何事だ!?」

「師娘!」

 屋敷から次々に男達が飛び出してくる。男達が女の傍まで走り寄ると、女は腕を伸ばして制止するがその眼はじっと武大を睨みつけている。

「あっ! あんた……」

 男の一人が武大を見て驚いた。

「鄭兄貴、こいつ昨日の――」

「お前達、この者を知っているの?」

「あ、いや、知っているという程では……」

 今度は武大が大声を出して男達に話しかける。

「お、おお、お前ら昨日の! そうか此処はお前ら……そうか此処は真武剣派のお屋敷か。それならそうと言ってくれれば――」

「いつの間にやら此処に入ってきたあなたに、いつ言えば良かったのかしら?」

 女は宝剣の切っ先を真っ直ぐ武大に向けて言う。

 女は郭斐林でこの屋敷は真武剣派白千風の屋敷だった。昨日料理屋で顔を合わせた真武剣派の男達は白千風の弟子である。皆、郭斐林の傍に固まって武大と対峙している。先程広場で郭斐林と一緒に居たのは呉程青、李小絹で、二人も傍に来ているが李小絹は人の後ろに隠れて武大と少年を見ていなかった。

「儂はこれ、この小僧が此処の塀をよじ登るのを見かけてだな、盗人かも知れんと思って後を追って入っただけだ。別に儂はこんな所に用は無いわい」

「わ、私は盗人じゃありません!」

 武大に腕を掴まれたまましゃがみ込んでいた少年が叫ぶ様に郭斐林に言う。

「あなた、確か小絹の……」

「ん? こいつは知った奴なのか? じゃあ儂の勘違いだな。失礼しよう」

 武大が少年の腕を放して塀に向かう。

「待ちなさい!」

 郭斐林が声を発すると同時に再び宝剣を突き出して武大の背に迫る。

「うわっ!」

 武大は背に突きつけられた宝剣と真っ白な塀の壁に挟まれて身動きが出来なくなってしまった。

「私達を見た途端に逃げ出したのは何故かしら?」

 郭斐林が冷ややかに言う。

「あんたみたいな恐ろしい形相の女がそんなギラギラした剣を手に襲い掛かって来れば誰でも逃げ出すに決まっとろうが!」

「何ですって!? ……志均しきん! この者は何者なの!?」

「あ、あの、師娘、本当にあまり知らなくて……」

 しどろもどろに鄭志均ていしきんが答える。

(鄭兄貴、全部言った方がいいんじゃないですか?)

 他の弟子が鄭に耳打ちする。

(孔兄貴は何処行った?)

(環龍ですよ。でもあいつが此処に居るんだからあっちはきっと何も起こりゃしませんよ)

「あなた達何を言ってるの? 全く知らない訳では無い様ね。全部話しなさい!」

「し、師娘、そいつは……西、西の方から来た旅の者らしく、昨日、西大路の料理屋でちょっとした揉め事があったらしくて、最初、孔兄貴が――」

「秦? 秦は何処なの?」

「あー今ちょっと出かけている様で……」

「おいお前ら! 昨日は何事も無く解決しただろうが! 儂が何をした? はっきりとこのばばあに言いやがれ!」

 武大が壁にへばりついたまま鄭志均らに向かって叫んだ。

 

 

 二十

 

「貴様っ! 師娘を――」

鄭志均らが武大の言葉にカッとなって飛び掛ろうと地を蹴るより先に、郭斐林の宝剣が武大の首めがけて猛然と突き出されてまばゆい光を放ち、武大が獣の咆哮に似た大声を発した。するとその直後、何と武大の行く手を塞いでいた白い壁がガラガラと音を立てて崩れ、武大は表の通りに勢い良く転がり出た。あまりの出来事に武大を除いた誰もが呆然と崩れた壁に向かって眼を瞠っている。

「このアマ! 儂を殺す気だったな!? 真武剣派はお前みたいな物騒な奴ばかりか!? こんな屋敷に用なぞあるものか! 二度と来んわ!」

 武大は大声で郭斐林に向かって言うと、ぶつぶつと悪態をつきながら通りを早足で歩いて行く。

 鄭志均らがようやく我に帰って壁の穴に向かって走り出した。

「おい! 待ちやがれ!」

「待ちなさい! 追っては駄目!」

 表に出かけた弟子達を郭斐林が制止する。郭斐林は何故か焦っている様子で、弟子達は訳が分からなかった。

「師娘、早くあいつを捕まえないと……あの、師娘?」

 郭斐林は鄭志均の言葉も聞こえていないようで、じっと崩れた壁を見つめたままだった。

暫く沈黙が続く。

「師娘のあの突きは今まで見たことがありません。こんな――」

 鄭志均がわざと大袈裟に抑揚をつけた声で言いながら崩れた壁を触っている。

「ハハ……あいつ命拾いしましたね」

 他の弟子達も口々に言いながら壁の傍に集まって眺めている。

 郭斐林は黙ったまま宝剣を腰の鞘に戻すとまだ地面に座り込んでいる少年に歩み寄った。

「あなた、名前は?」

「あの……劉、劉馳方りゅうちほうといいます」

「うちの小絹の友達なのね?」

「あ、あの……」

 劉馳方と名乗った少年はちらっと李小絹を見遣るが、視線は合わなかった。

「師娘、一応こいつの懐を確かめておいた方がいいのでは? こいつ、今までも何度か此処に忍び込んでましたから」

 鄭志均が劉馳方のすぐ傍にしゃがみ込んで襟元に手を遣る。

「御免なさい! 僕、何も盗ったりしてません!」

「何も盗ってないのに何で謝るんだ?」

「ご、御免なさい……」

「いいわ。調べなさい。調べたら連れて来て。小絹、あなたも来るのよ。いいわね?」

「……はい」

 郭斐林は他の弟子達の後ろに隠れている李小絹に言うと、消え入りそうな返事が返ってきた。

 崩れた塀の修理の手筈が整うまで弟子を立たせる事にして郭斐林は屋敷の中へと戻って行った。

 

 部屋には椅子に腰を下ろしたまま体を強張らせている李小絹と、立ったまま窓の外をじっと見つめて考え込んでいる郭斐林だけで、暫く静かな時間が過ぎていく。李小絹は不安で堪らない。つい先程、郭斐林から真武剣派四十周年祝賀の英雄大会の後に正式に弟子とする旨を伝えられたばかりで、劉馳方のせいでそれが取り消されるかもしれないとそればかり考えている。郭斐林は夫の白千風の弟子ではなく自分の弟子にすると李小絹に伝えた。今まで郭斐林は弟子はとっておらず、李小絹が最初の弟子となる。李小絹はこの先も郭斐林が弟子をとっていけば自分が一番弟子となるという事まで思いを巡らせて一人悦に入っていたのだ。

 李小絹も劉馳方もまだ子供で特に問題を起こした訳でも無くどうということも無いのだが、黙ったまま何も言わない郭斐林の様子を盗み見ながら李小絹の幼い心は恐れ戦いていた。


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